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2012年8月20日月曜日

森林飽和

太田猛彦著
NHKブックス1193
2012(平成24)年7月30日 第1刷発行

知的な刺激を与えてくれる良書でした。まず、江戸時代から明治の日本がはげ山だったことを示す浮世絵や写真の口絵から始まり、はげ山が飛砂という現象の原因なのだったことと教えてくれます。むかしむかし「砂の女」の映画を観て、安部公房さんはどうしてこんなことを思いつけたのだろうととても不思議に思った記憶がありますが、海岸地帯での飛砂の被害のひどさから着想を得たのだ書かれていました。それにしても、飛砂という言葉を「ひさ」と読むことも知らなかったくらいに飛砂とは縁のない私ですが、それはなぜかというと、
飛砂の害が少なくなったのは海岸林が砂を防いでいるからだけではなく、そもそも飛砂の発生量が減ったからというのが理由であり、なぜ減ったのかという原因を考えていくと、砂浜からは遠く離れたところで、日本の自然環境に大きな変化が起きているという現実に突きあたるのである 
日本全国の砂浜海岸で砂が減り、砂浜の幅が狭くなる事例が報告されている。以前から砂浜が消えることはよく話題になった。原因は地盤沈下だとか、川の上流にダムをつくったからだとか、護岸工事や港湾整備をやりすぎたせいだとか、突堤やテトラポッドのような人工物を設置したためだとか、玉石混淆の議論がなされており、ご存じの方も多いだろう。しかしこれらがいずれも見落としているのが、より根源的な環境である山地・森林の変化なのである 
江戸時代に生まれた村人が見渡す山のほとんどは、現在の発展途上国で広く見られるような荒れ果てた山か、劣化した森林、そして草地であった。この事実を実感として把握しない限り、日本の山地・森林が今きわめて豊かであることや、国土環境が変貌し続けていることを正確に理解することはできないと思われる 
里山とは荒れ地である
山々の木々は、薪炭、農業用の緑肥、建築用材、製鉄・製塩の燃料として使われ、日本の山は荒れていたわけです。しかし、高度経済成長期以降、原燃料としての石油や外材を安価に輸入するようになり、日本の森林の木材の現存量はどんどん増えてきているのだそうです。しかし、使わず手を入れなくなったために里山は
森の植物は生態遷移の法則にしたがって本来の日本の豊かな自然環境を取り戻そうとしているのである
また第二次大戦後に盛んに造林された人工林も
手入れを前提としている森で手入れができなければ荒れるのは当然である 
森林の回復は、実際には”量的に”回復したに過ぎないのであり、日本の森林を”質的に”豊かにするためには、なお多くの問題が待ちかまえているといえる
とのこと。さらに
十四世紀ころまでは日本全体で見れば山地からの土砂流出量と海岸での浸食量はほぼ平衡していたと考えられる。あるいは平衡した状態で日本の海岸線が形成されたと言っても良い 
十七世紀以降半世紀前までは土砂流出過剰時代であり、その国土保全対策がこれまでの治山治水事業であったといえよう
ところが、山に木の増えた過去半世紀で土砂の流出は著明に減少して、河床の低下、汀線の後退、海岸浸食が問題になってきているのだそうです。ダムの建設が原因なのだとばかり思っていましたが、それだけではなく森林の変化の影響が大きいという指摘は、目から鱗でした。そして、こういった状況に対して著者は、
森は保全するだけでよいわけではない。手入れが必要であり、できる限り使うべきなのである 
里山は選んで残せ
と、提言しています。ただ、言うは易く行うは難し。経済的に引き合わなくなったので放置されている木々を利用しろということは、国産材に対する補助金を出さないと無理でしょう。また、古いことばですが3K職種の典型ともいえそうな山林労働者を確保するには、都市でのふつうの仕事で得られる賃金より相当多い額を提示することが必要な気がするし、例えそうしたとしても日本人は働きたがらないんじゃないでしょうか。中央政府も地方政府も大きな財政赤字を抱え、しかもこれから人口の減ってゆく日本ですから、森林には金をかけずに放っておくというのも一つの策だと思うのですが、どうでしょう。

本書によればスギの人工林も広葉樹林と比較してそれほど遜色のない機能をもっているそうです。また手入れされずにもやしみたいになってしまったスギが台風や大雨(温暖化で増えるのでしょうね)で倒れてしまったとしても、1000年やもっと長い目でみれば、日本の自然環境に適した樹種の森に自然に遷移してゆくでしょう。また森林を放置することで中山間地や川の下流に土砂災害の危険が増えるのだとしても、そもそも中山間地の限界集落、限界集落化しつつある地域の住人に福祉・医療などの公共サービスを提供すること自体が財政的に困難になってきているのですから、著者のいう減災の観点からも、また日本国憲法の公共の福祉の観点からも、都市に移住してもらうべきでしょう。そして森林の手入れと災害の防止に必要な資金は、都市を守るために必要なものに集中させる。海岸線についても、放棄できない規模の集住地は財政資金を投入してがっちりした防御施設を建設するとして、それ以外は十四世紀の汀戦まで後退することを覚悟すべきなんじゃないかと思います。

以前、ポメランツという人の書いたThe Great Divergenceという本を読んで書いたエントリーがあります。その本は、18世紀までの経済発展の程度に違いがなかった西ヨーロッパと中国・日本なのに、その後に西ヨーロッパだけが産業革命に成功するという相違が生じたのはなぜかという点を論じた本でした。ポメランツさんの主張の骨子は
  1. 西ヨーロッパ・中国・日本の中核地域はどれも18世紀には食料・繊維原料・燃料・建築用材という土地集約的な資源の入手の点でエコロジカルな限界に到達していた
  2. エコロジカルな限界を解決できなかった中国・日本は勤勉革命indsutrious revolutionにより、一人当たりの生活水準を低下させない途を選ばざるを得ず、袋小路に入り込んだ
  3. それに対して、イギリスを代表とした西ヨーロッパは、エコロジカルな限界に直面していた木材に代わって燃料となりうる石炭が利用しやすい地域に埋蔵されていたことと、新大陸を土地集約的な資源の産地・商品の市場として利用できたことから、産業革命industrial revolutionに成功した
というものでした。温暖湿潤な日本は、西ヨーロッパよりも木材の生育が速いのでしょうが、稲作のおかげで人口密度が高く、やはりエコロジカルな限界に突き当たっていたわけで、本書はその点を強く再認識させてくれました。また、勤勉革命を成し遂げた日本の姿は「江戸システム」として、平和でエコロジカルな世の中だったと賞賛されたりもしますが、本書の中のはげ山の写真や絵を見ると、袋小路に入り込んでしまったという評価の方が妥当な気がします。開港以後の日本の進路を見れば、少なくとも「江戸システム」の下で暮らしていた人たちが打開策があれば抜け出したいと思っていたのは明らかで、例えば長州の塩田では燃料として筑豊から石炭を移入し始めるなど、工夫していたわけですから。

2012年8月18日土曜日

東アジアの日本書紀


遠藤慶太著
吉川弘文館歴史文化ライブラリー349
2012年(平成二十四)8月1日 第一刷発行

史料として重要な日本書紀ですが、そもそも書物としてどんなものを材料にどのように作り上げられたのかについて述べられています。葬礼の際に誄として述べられた日嗣(帝紀)や神話や歌にくわえて、日本書紀の中には百済関連の記事もたくさん含まれています。また日本書紀の分注には以下の三つの百済の史料からの引用だと記しているものも多数みられ、

  1. 百済記:百済と日本の四世紀代の交渉開始頃から、475年の漢城陥落までを扱う、古代の朝鮮漢文によくみられる文末辞「之」使用が認められる
  2. 百済本記:六世紀の聖王の時代を扱う、正格漢文
  3. 百済新撰:熊津における百済の再興を扱う
こういった百済の史書が使われたことや、太歳紀年の採用は百済史書や朝鮮での習慣に倣ったものと考えられるので、著者は
後代の実例とフミヒトの役割を重ねて考えれば、船恵尺ら百済系書記官が何らかのかたちで推古朝の歴史書に関与したとみるのは有力な仮説である。
というように、日本書紀の成立に、百済から渡来したフミヒトたちの貢献が大きいだろうと考えているそうです。また、百済の史書についての著者の見解をのべたところを本書から引用してみると
百済記」は日本を「貴国」、君主を「天皇」(『日本書紀』神功皇后六十二年など)、「百済新撰」も日本の君主を「天皇」(『日本書紀』雄略天皇五年七月)と書いた箇所がある。このことから、百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があったと理解する点は、研究者の間で意見が一致している。 
ところが百済史書の成立を天武・持統朝とみる見解が大勢のなか、あえて和田萃氏が「推古朝に百済から渡来した人びとが、百済と倭国との交渉のいきさつや百済の歴史を史料にもとづいて記述し、倭国の朝廷に提出したものである可能性が高い」と書かれたのが注目される。私見は和田氏の見解に賛成で、六世紀に百済史書が出来たとする旧来の意見を捨て去ることはできないと思う。
などとあります。「百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があった」ということは他の日本の研究者だけではなく、著者の見解でもあるんだろうと思います。ということは百済からの渡来人が日本で書いたということになるわけですが、百済記に朝鮮漢文の特徴がある、つまり百済習があるのに、百済本記が正挌漢文なのは、二つの史書の書かれた時期に大きな差はないが、百済記は日本に渡来してから代を重ねた人たちが書いたのに対し、百済本記は百済で正しい漢文を学んだ渡来第一世が書いたというようなことなのでしょうか?

また、日本書紀に引用されている百済史書からの文が百済に特徴的な音仮名をつかっていたり、百済習をそのまま残していることは、修正を加えずに引用する編纂方針だったことを示すのでしょう。すると「天皇」という言葉もそうなのでしょうね。著者は推古朝に天皇記ができたと書いているので、推古朝につくられた帝紀はそのものずばり「天皇記」という名前で、六世紀に編纂された百済史書が「天皇」ということばをつかっていることが「天皇記」実在の証拠になるという立場なのでしょうね。

本書の内容とは直接関連しませんが、三つの百済史書はいつごろまで日本に存在していたのでしょう。本朝書籍目録には載っていなかったと思うので、奈良時代に失われてしまったんでしょうか。現存していれば、とても面白かったろうにと思うと残念です。でも、書物というよりは、消失した天皇記や、日本書紀編纂の資料とするため日本で渡来百済人によって倭国の朝廷に提出するために書かれただけで、残されなかったのかな?

本書のカバーには少女漫画みたいに目が大きく(目はつぶっているが)まつげが長い男性人物像が載せられています。誰なんだろうと思ったら、安田靫彦の描いた聖徳太子像なのだそうです。たしかに安田靫彦さんの描く人は武士なんかでも優しい顔してるから、納得。でも、本人を見て描いた本当の肖像画ならいざしらず、こういった想像図(7ページの舎人親王も)をカバーに載せるのって、歴史の本としてはどうなんでしょうね。著者の意思ではなく、出版社が決めたことなのかな。

2012年8月15日水曜日

社会経済史学の課題と展望


社会経済史学会編
有斐閣
2012年6月30日 初版第1刷発行

社会経済史学会80周年ということで、31の分野がレビューされています。担当している執筆者の多くは、当該時期の文献の中から代表的なものをいくつか選んで、この10年あまりの研究の動向を紹介し、最後は「本格的な検討はまさに今後の課題である」「広い視野からの研究の進展が期待されるのである」「今後の課題として残されている」ってなかたちで、ありきたりな感じでまとめていました。こういったレビューが多い中で出色だったのは5番目の章の「中近世における土地市場と金融市場の制度的変化」でした。

この第5章は、中近世1000年ほどの農地に関わる制度の変化が農業技術と農業生産性の変化に応じて起きてきたことを、制度経済学的な言葉を使ってすっきりまとめています。例えば、田畑の支配権を持つ地主がその農地を雇用労働力を用いて直接経営するか請負経営にするか賃租にするかは、その時期の農業技術を用いて耕作する直接生産者がどれだけのリスクを負うことができたかに規定されていたとか。 また、田畑永代売買禁止令というのは売買を実際に禁止するためのものではなく、村境を越えた土地売買取引を統治する司法業務を提供しないというものだった。村境を越えた土地取引に司法業務が提供されたその前後の時代には村境を越えた農業金融が実現していて、予期せざる事情により不作から債務の累積が起こると、室町時代なら徳政を要求する一揆がおこり、明治時代には松方デフレに対する困民党事件のような事態が生じたわけで、江戸幕府の政策はそれを避けたものとして一定の合理性を持っていたとか。こういった具合に、墾田地系荘園、公廨稲制、国免荘、荘園公領制、職の体系の成立、地主の農地経営方法、本百姓制度の確立といった現象が、日本史の論文でふつうに使われるのとは違った用語を用いてすっきり説明されていることにとても感心させられました。この章は主に西谷正裕さんの「日本中世の所有構造」という著書をもとにまとめたとあるので、この説明のすっきり感は西谷さんの著書がとても優秀だからなのか、それともまとめた筆者の能力が高いためなのか、どちらなのでしょう。確認のために西谷さんの著書の方も読んでみたくなりました。

同じく農業史をあつかった27章も、世界的には例の少ない減免付定額小作が日本でひろくみられ、小作人の土地改良の誘因となって自作地と小作地の土地生産性が同等であったこと、チャヤノフ理論の日本での実証、東アジアでもほかに例のない単独相続制が日本の農村に信頼をもとにした関係構築を可能としていたことの指摘など面白く読めました。ほかにも勉強になった章がいくつかあります。

でも、分かりにくく表現する書き手もいて、例えば14章「イギリス帝国の森林史」(この章が最悪というのではなく、もっと悪文の章がありました)。
本章では、グハの研究の前提となっている植民地を支配する側とされる側(支配と抵抗/西洋と非西洋/近代と伝統)にわける単純化されたフレームワークが、植民地期の林学・森林政策の理解を画一化、固定化してきたという問題意識から、この二項対立からの脱却によって新たな地平を切り開こうとする研究を取り上げる。
という文章があります。この中には「から」という助詞が2回も使われています。さらに「~~は」と文の主題を提示した後に続く部分が長く複雑になので、提示されたテーマと、その後の文がどう関係するのか見通しにくくなっています。この例に挙げた文章は
グハの研究の前提となっている植民地を支配する側とされる側(支配と抵抗/西洋と非西洋/近代と伝統)にわける単純化されたフレームワークが、植民地期の林学・森林政策の理解を画一化、固定化してきたという問題意識から、本章では、この二項対立からの脱却によって新たな地平を切り開こうとする研究を取り上げる。
というように「は」という助詞を文の中ほどに下げるだけでも多少見通しがよくなるでしょう。でもこれもいい文章ではないので、もっと達意の文章を書いてほしいものです。

第3編には地域と題して[1]中国、[2]インド、[3]ヨーロッパと三つの章があります。中国の章では、機械製糸業、機械性綿紡績業などの機械性近代工業の展開、通貨金融制度の統一、中央集権的な財政制度の確立などをメルクマールに近代的国民経済の形成が述べられています。それに対してヨーロッパの章では、冷戦、経済成長の黄金時代、福祉国家志向、戦時統制経済の経験を背景に「経済史学において一国史的研究、あるいは国民国家を分析単位とする研究の優勢は第二次大戦後、1950~1970年代初頭に一つのピークがあった」が、ヨーロッパ経済統合、ベルリンの壁崩壊を背景に1980年代以降「地域の経済史」が流行してきたことが述べられていました。清朝の時期の中国には、ヨーロッパの一国をしのぐ規模の地域経済圏がいくつも存在していましたが、それらがどのように統合されたのか、真に統合されたといえるのかといったことの方を扱ってほしかったところです。政治的には統合されてはいて経済的にはどうなんでしょう?現在の中国の抱える問題に経済の地域間格差がありますが、これは近代以前の構造に由来するものではないんでしょうか?経済史で研究されるテーマにも流行があるはずですから、もしこのあたりが注目を集めてないのだとしたら不思議な気がします。

2012年8月10日金曜日

OS X Mountain Lion Up-to-Dateを利用してみました


そろそろ締め切りが心配になってきたので、OS X Mountain Lion Up-to-Dateを利用してみました。アップルのサイトでrMBPのシリアル番号を入力して申し込むと、間もなく2通のメールが届きました。一つにはロックされたPDFが添付されていて、もう一つにはそのPDFのロックを外すためのパスワードがついていました。きっと、こういう風に2通のメールにわけた方がセキュリティが向上するんでしょうね。

Mac App Storeを立ち上げて、ナビリンクにある”iTunes Card/コードを使う”を選択して、ロックを解除したPDFに書かれているコードを入力します。すると山ライオンさんのダウンロードが始まりました。ダウンロードには10分弱かかったでしょうか。その後にインストール。30分くらいかかると表示されましたが、そんなにはかからなかった気がします(時計を見ていたわけではないけど)。

OS Xを山ライオンさんにしてみての感想ですが、うーん違いがよく分かんないというのが正直なところです。というのも、つい先日までつかっていたMBPにはレパードが載っていて、ライオンさんの使用経験はrMBPが届いてからの2週間ほどしかありません。ライオンさんが2週間ほどで、いま入れたばかりの山ライオンさんはまだ十分くらいの使用経験ですから、分からないのも当然ですね。

でも、ひとつはっきりしているのは、Safariのスクロールがとてもスムーズになったこと。ライオンさんのSafariでもかくかくしていると感じたことは一度もなかったのですが、山ライオンさんにしてみてヌルヌル感が向上したのは確かです。

2012年8月7日火曜日

日本の古典籍 その面白さその尊さ


反町茂雄著
八木書店
平成5年6月30日 第3刷発行

先日読んだ「古典籍が語る 書物の文化史」が面白かったでの、同じ分野の本を読みたくなりました。ちょうど同書の巻末ページの広告に、同じ八木書店が発行したこの本が載せられていました。著者の反町さんは有名な方ですが、これまでその著書を手に取ったことがありません。いい機会なので購入して読んでみました。

まず、中身でない外側の印象から。しっかりとした箱に入っています。ページを見てもどことなく古めかしく感じます。印刷された文字に指で触れると凹凸を感じるので、活版印刷なのでしょうか。手に取ったのは第3刷で平成になってから印刷されたものですから、活版印刷なら珍しいかもしれません。紙自体はごくごく薄いクリーム色で中性紙のようです。でも、このところふつうに読む本の用紙に比較して、厚手で単位あたり重量はかなり重そうです。また昔の方の文章らしく、漢字の使い方が古めかしい。しかし、日本の古典籍のノウハウ、欧米でのヨーロッパ産古典籍の実見談などなど、中身はとてもとても興味深い本です。 勉強になった点を列挙すると、
  • 十世紀以前の古写本というと、東洋の他の諸国には極めて少ない。文化の古く且つ優秀な中国やインドにしてもそうである。長期にわたって世界最大の文化国の一の地位を保ち続けた中国でも、八世紀乃至それ以前のものは今世紀初めまで殆ど知られて居なかった。
  • 中国の文化に接する事日本よりも早かった朝鮮の地でも、十三・四世紀以前の古書はいま殆ど伝存して居ない。
  • 一口に結論を云ってしまえば、スエズ以東では、日本の古典籍は最も古く、又その数も多い。
  • 日本の古典籍の世界的な地位は相当に高い。これが、私の十七、八年の外遊見学の結論である。ところが、この事実は、不思議なほど一般にも、又学会に於ても認識されていない。私たちは我々の固有の文化の誇りの一つとして、古典籍の質及び量の優秀性を高唱したいと思う。
  • (平安時代の)四百年間を通じて、現存の数では、漢籍は約三、四十種、国書は百四、五十種くらい。国書の方がずっと多い。
  • 鎌倉時代は先ず文治元年(1185年)から元弘元年(1331年)までとみて約百五十年、平安朝時代の半ばにも足りません。その古写本の現存数は、ごく大ざっぱに見て、平安朝時代に四、五倍するでしょう。国書と漢籍の比では、国書が漢籍に五倍乃至八倍するだろうと思われます。
  • 古今・伊勢・源氏等は、前述の通り、この時代の古写本として、比較的に多く遺存している事は、まことに慶賀すべき現象ではあります。英・仏・独・伊・スペイン等のヨーロッパ諸国の大図書館を訪問しても、その国の国語による著名な文学作品の、十二世紀乃至十四世紀頃に遡る古写本は、寥々として希少、一つ一つが完全に宝物視されて、大切にとり扱われて居ります。萬葉集と源氏物語はいうまでもなく、古今や伊勢も、日本の古典中の古典で、世界的見地に立って見ましても、その成立年代の古さ、アンソロジーとして、短編小説集としての文芸的価値に於て、独自の評価を要求し得るものです。これらの古写本は、更に更に重宝視されるべきでありましょう。
  • (室町時代、)権力と富力と、二つながらを喪失した公卿貴族は、文権の大部分を放棄し、それの切り売りによって、辛うじて生計を維持して居りました。両者をほしいまゝに入手した地方の武家たちは、文芸を継承し、さらに発展させるだけの素養はなく、余裕も持ちません。受け入れるだけでした。必然的に文化は、はかばかしく発展せず、文学は衰退しました。写本の生産も不振だったらしく、その現存は予想外に少ないのです。
  • 近衛稙家が大内氏の家臣阿川淡路入道に与えた詠歌大概の奥書「不顧入木之不堪、書之訖、最可恥外見者也」
  • (春日版で大般若経六百巻という大部なものも出版されていた時代でもある)鎌倉初期と言えば、いわゆる新古今時代で、藤原俊成や後鳥羽上皇を主唱として、和歌の最も流星だったエポックですが、しかも勅撰集の太宗である古今集さえ上梓されて居ない事は、和歌・物語の読者の数は、お経の読者数よりも、ズッと少なかったことを想像せしめます。
  • (伊勢・源氏・狭衣など四、五の古典を除くと)古活字版の古さは、古写本の古さに、そう劣るものではありません
  • 私達の古い書物の価格につきましても、やはり不易と流行の二つがあるのでございます。不易と流行と、も一つその書物の稀覯性と、この三つの掛合わせ方によって、その時の相場が生まれてくるのでありますが、それらをどのように掛合わせるか、どちらをどの程度に重く考えるか、という点に重大な問題があるのでございます。この場合にやはり日本だけを見ていたのでは考え方に徹底を欠く、なにか不安の起ることを禁じえない。それらを、広い世界ではどのように考え、どのように取り扱っているだろうか、ということを知りたいと云う念のきざすのを禁じがたいのでございます。この点を欧米に行って自分の目で見て、確かめて来たい、その上で、云わば、世界的な視野に立って、日本の古典籍を正しく評価し直したい、そんな風に考えたのでした。
こういったことを論文としてまとめるには、きちんとした根拠・史料・資料を提示しなければならないでしょう。ですから、仲間うちでは話しあうことができても、私のような素人の読む本にこういうことがらを書くことが学者さんたちにとってはかえって困難なのだろうと思います。その点、古書取引の世界では大きく成功した反町さんには、ご自身の取引の実体験からつかんだ知識があり、それをわかりやすく打ち明けることができるんだなと感じました。信憑性も高そうですよね。先日「古典籍が語る 書物の文化史」を読んだときに私の抱いた疑問、
日本には古いモノが数多く残っているという意味の記述は、他の歴史関係の書物でもしばしば目にします。著者の指摘するように、大戦乱が少なかったこともたしかに一因でしょう。でも、利用されなくなった「旧態の典籍」を捨てずに大事に取っておく行動様式や「博士家などの学問の世襲化」といったような過去の「日本人」の特質とされているようなことも原因なのだろうと感じます。日本人論などでよくいわれるこの種の「日本人の特質」を具体的に証明することはきわめて困難だと思うのですが、もし他国との文化財の残存状況の差を示す資料があるのなら、それを明かす貴重なエビデンスになってくれるんじゃないかと思うので、見てみたい気がします。
に対する素晴らしい回答が得られた感じがします。さらに、本書の巻末にはビブリオグラフィカル=デカメロンと題して、これまでの取引の経験談が載せられています。都の委嘱で蔵書家を歴訪し特別買い上げした本を疎開させた話、にせ物をつかんでしまった話、仕入れた品を調べ買い手がその価値を分かるようにして売りさばくという商売の秘訣のようなエピソードもいくつも載せられていて、なかなか面白い。この人の書いたものが面白いということはよく分かったので、これまでなんとなく避けていた感じもあった平凡社ライブラリーから出ている一古書肆の思い出の方も読んでみようかなと思っています。

2012年8月4日土曜日

【図説】民居


王其鈞著
恩田重直監訳
2012年7月31日 初版第1刷発行
イラストで見る中国の伝統住居というサブタイトルの通りに、中国の各地方、漢民族以外のものも含めた伝統的な住居をカラーのイラスト入りで紹介した本です。また、印象としては大人のための絵本といった感じです。中国では地方ごとにずいぶんと違った家に住んでいるんだなと私が初めて感じたのは、1986年から発行された民居シリーズの普通切手を目にしたときでした。このシリーズでは本書にも載せられている北京の四合院やモンゴルのパオ(ゲル)のような有名なものも取りあげられていましたが、特に興味をひかれたのは、瓦で屋根を拭かれた建物が同心円状に配置されている福建民居でした。いったいこれは何なんだろうと疑問だったのです。今回この本を読んで、円形の要塞状の家屋であることが分かり、疑問が氷解しました。同地方にはこの円形土楼だけでなく、長方形の建物を連ねた方形土楼というのもあるそうです。
第4章専守防衛の砦では、ほかにも防御を目的とした形の民家として江西省の贛南囲屋、広東省の梅州囲攏屋などが紹介されていました。銃眼やサーチライトまで備えているものがあったり、建築資材を欧米から輸入して20世紀になってから建てられたものもあったそうです。これら砦タイプの家は物騒な土地に建てられていたことが触れられていましたが、対象とした外敵というのが具体的にどのくらいの規模のどんな集団だったのかまでは書かれていないことが残念です。また、円形土楼の大きなものには全体で288室あると書かれていて、おそらく百人以上が住んでいたんだろうと思われます。むかしの中国には城壁で囲まれた集落・都市がありましたが、城壁都市の一番規模の小さいものと比較すると、円形土楼の規模というのはどのくらい?比較にならないほどずっと小さいものなのかどうかも知りたくなりました。
本書冒頭の日本語版前書きを読み始めたときには、中国人の著者自らが日本語で書いた文章かしらと思わせるようなぎこちない表現が散見されました。監訳者というのがいる本の翻訳はろくなものではないというのが私の一般的な認識で、本書もやはりそうなのかと危惧しました。しかし中身の方は「永春県の紅磚は色味が深く、豚の血のような深紅色」などというような、日本人ならとても思いつけないような比喩を使った説明文があったりはしても、訳文自体はこなれた日本語で興味深く読めました。