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2012年9月29日土曜日

戦友会研究ノート




戦友会研究会著
青弓社
2012年3月14日 第1刷発行


私の親にも従軍経験はないので、戦友会というのは縁が遠い存在です。戦友会と聞くと、旅館で宴会する老人の団体さん、むかしむかし上野広小路の松坂屋の入り口のところでハーモニカを吹きながら物乞いしていた傷痍軍人さん、TVでみた寮歌祭みたいなものを思い浮かべてしまっていました。でも、軍隊体験者たちのうち、将官や佐官は別として尉官・下士官・兵は若い世代でしたから最初から高齢者の集まりだったわけではありません。また徴兵された人たちは、エリートまたはエリート意識をもち続ける旧制高校出身者とも違う存在で、私の連想がかなり見当外れだったことが本書を読んでよくわかりました。さらに、集まれば宴会になることが多いわけですが、
見た目は普通の宴会と特に異なるわけではない。事務報告や挨拶・スピーチがすめば陽気で賑やかな宴会風景となる。ただ歌のあいだも、献酬のあいだも、語り合いが続けられていく。宴会で、そして小部屋に分かれてから夜遅くまで語り合われるのは、もちろん共通の戦争体験である。そして、あの時だれがどうしたという話が繰り返しなされていくなかで、個々の記憶は寄せ集められて「集団の記憶」となっていく。その多くは悲惨な戦闘についての話であるが、どの戦友会にもそうしてできあがった「物語」がいくつかある。
とのこと。戦後の日本では軍・戦争に関することを表だって語る場がなかったから戦友会に寄り集まったというのはとっても説得的です。もちろん、私を含めた従軍経験のない人の高校大学のサークルの同窓会なんかにも似た点はありますが、死没者に対する慰霊の意識を持った集団である点が大きく異なるわけですね。
戦友会が政治化しなかった最も大きな理由は、戦友会に集う多くの戦闘・軍隊体験者が、政治家やいわゆる知識人に対して根強い不信感を抱いていたため
戦友会も、日本遺族会のような政治性の強い組織なのかと思っていただけに、多くの戦友会が政治から距離を置いていたという指摘はとても勉強になりました。また多くの戦友会が立ち上がってゆく際に、第一・二復員省、厚生省、防衛庁といったお役所の側からの積極的な援助がなかった点も意外でした。恩給受給者などのリストを役所はもっているでしょうに。あと、一般的に女性に比較して男性の中には、会合に出たがらない・群れたがらない人の割合が多い気がします。軍隊経験者はほとんど男性ですから、戦友会の存在を知らされながらまったく出席していない人たちがどのくらいいるのかも知りたいところです。
こうした団体は外国にも存在する(→アメリカの戦友会)。だが、その数や規模の点で、また、メンバーが戦友会にかけた情念やエネルギーの強さといった点で、戦友会は日本独特の現象であると言っても過言ではない。
本書には第一次大戦後のドイツやイタリアの退役軍人・復員兵団体がとても積極的に活動したことが触れられていて、そういう意味では敗戦国(第一次大戦のイタリアもちっとも得しなかった戦勝国)の方によりみられやすい活動なのしょう。ただし、戦間期とは違って、第二次大戦後は復仇を目的とすることの無意味さが軍隊経験者の間にも一般化していたから、日本の戦友会も旧領土の再獲得を目指したりはしなかった。それだけヒト種も賢くなったんだと思います。

私は仕事柄、これまでに4桁の数の患者さんのお宅を訪問(往診・訪問診療)しています。部屋に軍隊時代の写真や乗り組んでいた船(重巡高雄でした)の写真なんかを飾ってある患者さんがいて、その頃の思い出を語ってくれる人もまれではありません。内科医にとって患者さんのお話を傾聴することも重要な役目ですし、私はその種の話を聞くのが嫌いな方ではないので、時間に余裕があるかぎりお聞きしています。高齢になった方ですから同じ話の繰り返しが多く、 家族の人あいてだとまたその話かという反応をされるでしょうからね。

2012年9月22日土曜日

日本統治と植民地漢文

陳培豊著
三元社
2012年8月31日 初版第1刷発行



近代の台湾で使われた書き言葉の変化を論じた本です。ちょうどこの時期、台湾は日本の領有下におかれていたため、日本人の使った和式漢文や和製漢語が大きな影響を与え、また標準化・規範化された辞書教育システムに乏しい中での変化だったことが、台湾の漢文再編の特徴でした。本書ではこの変遷を

  1. 正則漢文(伝統的な文語体):中国だけでなく広く東アジアでも使われていた。台湾にやってきた日本人統治者と台湾島住民との間の意思疎通にも使われた。
  2. 植民地漢文:漢文の「クレオール現象」によって台湾で生まれたもの。近代的な概念を表す語彙として和製漢語が取り入れられ、和式漢文の語順の影響も受けている。
  3. 白話文運動: 中国白話文にならって、台湾でも言文一致を目指そうとしたもの。日本の進める国語教育に対抗して、祖国との文化的アイデンティティの共有を確認するためのものでもあった。
  4. 台湾話文:中国白話文の基準としていた北京語と台湾の口語とがかなり異なっていたため、独自の台湾話文を形成することになった。正則漢文とは違って、漢学の素養のある日本人でも正しく理解して読むことが困難だった。
といった段階に分類して、理解しやすく解説してくれています。台湾の書き言葉の成り立ちについてなんて、考えたこともなかったので、本書を読むことでまさしく蒙を啓かれたという感じがしました。正則漢文では無視できた口語の違いが白話文運動によって明らかになってしまい、台湾語台湾文を生むことになったわけですね。こんな風に日本統治と祖国の間をうまく処理して独自の記述言語を確立した台湾でしたが、日本の敗戦後、中国国民党が支配者となって君臨し始め、特に二・二八事件後は事態が逆転します。
戒厳令や白色テロによる危険思想の取り締まりや言論統制などの理由で、台湾知識人は自由に意見の陳述ができなくなった。 
政治上の弾圧のほかに、台湾人が文化界、言論界から姿を消したもう一つの大きな理由は、新しい支配者が持ち込んだ国語、つまり中国白話文の標準化、規範化がもたらした絶対的な権威であった。
とのこと。なんとも皮肉な現象が起きていたわけですね。だとすると、本書の主題からは外れますが、中国本土ではどうだったのかも気になってしまいます。中国本土でも北京語がひろくつかわれていたわけではなく、台湾と同じ口語をつかっていた地方もありました。そういった北京語以外の話されている地方の人たちは、政治的・文化的統一の維持のために言文不一致のまま白話文運動を受け入れざるをえなくなったのでしょうか。また現在の中華人民共和国でも口語は地方によって大きく違うと思うのですが書き言葉は全国的に統一された状態になっているんでしょうか。
古代の中華文明が大量の漢字漢文を生み出したように、19世紀以後、日本は明治維新で夥しい和製漢語を作り出した。この「言文一致」と新語彙の二本柱に支えられて近代において中国語、ベトナム語、広東語、日本語、朝鮮語は著しい地域差を持ちながらも、一定の共通項を持った言語群として形成されていった。
「言文一致」の影響で、東アジアにおける文体は一元的から多元的へと変貌し、一つの巨大な文体解釈共同体から多数の小規模の文体解釈共同体へと再編されていく。例えば、「言文一致」のプロセスを経て、中国白話文を含めた現代中国語文も漢字を並べて書くという点では、従来の漢文と変わりはないものの、文法的には正則漢文と大きく隔たって一種の変体漢文となっていった。この文体の変容によって、中国白話文は中国人の占有物となり、これまで漢文理解者だった多くの日本人は、その解釈共同体から排除されるようになったのである。
といった指摘も本書にはあり、とても刺激的に感じました。かなり特殊なテーマを扱った専門書にしては3400円と価格も手ごろで、お買い得な本だと感じました。近所の書店で平台に並べられていたのを発見して買ったのですが、平台に並べられているとカバーの装幀がちょっとチープ過ぎかな。

2012年9月14日金曜日

iPhone 5の生産方法は互換性生産方式を越えている?


昨日、iPhone 5が発表されました。少し大きくなったり、Dockが小さくなったり、CPUが速くなったりなどの変化がありましたが、正直なところ、iPhone 4Sから乗り換えようという気分にさせてくれるほどではありませんでした。もちろん、今までのiPhoneたちと同じく素晴らしいiPhoneであることは確かなんですけど。

アップルのサイトで公開されている、iPhone 5についてのビデオを見ました。このビデオを見ていていちばんびっくりしたのは、5分30秒前後から説明されている、筐体の組み立てに関する説明です。部品を筐体にシームレスにはめ込むため、筐体の写真を撮ってミクロン単位で725通りに分類して、ぴったり合う部品を選んではめこむというところです。これって、互換性部品による大量生産の概念を越えているように感じたのです。

銃、ミシン、収穫機、自転車、自動車へと発展していった互換性部品をつかった大量生産のアメリカン・システムは、熟練工による部品の調整を不要にしたことが、画期的だったんだと理解しています。非熟練者でも互換性の部品なら簡単な作業で組み付けることができるからこそ、T型フォードの大量生産が実現したわけです。ところが、このiPhone 5の製造では、互換性部品をさらに分類して、ベストな組み付けの可能な筐体にはめこむのだとか。分類もはめ込むのも機械が行っているので熟練工が不要である点には変化はありません。でも単なる互換性生産の上をいっているような気がします。

現在の機械の製造工場ではこういったことが当たり前に行われているんでしょうか?もしかすると私が知らないだけだったのかもしれないのかな。

2012年9月9日日曜日

大恐慌!


スタッズ・ターケル著
作品社
2010年8月5日 第1刷印刷
2010年8月10日 第1刷発行

500ページ以上もある大冊ですが、スタッズ・ターケルさんの著書の例に洩れず、たくさんの人へのインタビューが載せられています。大恐慌前後の頃について語られていますが、インタビューが行われたのは1960年代後半でした。ですから、これらのインタビューを、大恐慌の記憶そのものとして受け取るべきなのか、第二次世界大戦と戦後の好景気に1960年代の公民権運動やら若者のプロテストを経験したことにより変容を受けた大恐慌の印象として受け取るべきなのかは難しいところではあります。でも、
  • 貨物列車の有蓋・無蓋貨車に無賃乗車して遠くの地域まで職探しに出かける人がたくさんいたこと、警察は取り締まったが、車掌の中には同情的な態度の人が少なくなかったこと
  • 都市では物乞いに歩く人が多かったこと。彼らは自分たちの縄張りの中にある家の勝手口などに、「お金はもらえないが、食べ物だけはある」などの意味の符牒をチョークで書いたりして、お互いに助け合っていたこと。
  • 社会党、共産党といったアメリカの左翼政党の様子。共産党にとっては独ソ不可侵条約の影響が致命的だったこと。労働組合、AFLとCIOとの関係。革命前夜だったと語った人もいるけれど、違うという人の方が多い印象。あるアメリカ社会党員は「われわれが愚かにも連携の重要さを理解しなかったこと、ヨーロッパの左派と強調できなかったこと、アメリカの政治思想の主流から孤立したこと、誰も理解できない特殊な言葉を使い続けたこと。それを認めるのは胸が張り裂けそうです」と語っていました。
  • 破産して競売にかけられた農場・家財のオークションには外部の人が参加できないよう地域の農民が邪魔をして、仲間うちで安値で落札して元の持ち主に戻してあげたこと
  • ニューディールの施策であるWPA、AAA、フェデラル・アート・プロジェクトなどに参加した人の経験談いろいろ。WPAの人間はシカゴのどこでも掛け売りしてもらえなかったとのこと。シカゴ以外でもそうだったんでしょう。この頃でもアメリカは現金ではなくクレジットカードとか小切手で買い物する社会だったんでしょうか?それならかなりの屈辱だったかも。
などなど、語られている個々のエピソードは大恐慌の時代を知らない異国の人間である私には、初めて知ることも少なくなかったし、興味深く読めました。ルーズベルト大統領に対して、評価の低い人は少ないようです。それでも、大恐慌から本当に抜け出せたのは戦争のおかげだと思っている人が多いようです。
大恐慌なんて、黒人にとっては、たいした意味はなかったのさ。ワシらにはひとつ、大きな強みがあった。それは、女房たちさ。商店に行き、袋詰めの豆や大袋に入った小麦粉や豚の脂身を買ってきて、それを料理できる。ワシらはそれを食べられる。ステーキだって?ステーキなんて食べた日にゃ、トタン小屋に入れられたラバみたいに、胃の中で暴れ出すだろうよ。話を戻すが、白人だったら、こういうわけにはいかないだろう。白人の女房は、こう言うだろうからな。「ねえ、この程度のものしか食べさせられないんだったら、私は出て行くわよ。」そういう場面を見たことがあるのさ。ステーキや鶏肉じゃなくて豆を家に持ち帰るなんて、連中には耐えられないだろうさ。
白人に不況が襲いかかったから大恐慌で、恐慌の有無にかかわらず、黒人の就職口はどっちにしろ掃除夫かポーターか靴磨きくらいしかないと語っています。立場によってみえるものが違うんですね。あと、アメリカ南部に生きるという本を読んだときにも感じたことですが、ステーキは無理でも、豆や小麦粉と豚の脂身(つまりラードですよね)で料理したものが食べられるのなら、同時代の日本人と比較すると決して悪くないように思えてしまいます。また、白人の失業者の人は生活保護を受けながら「肉を食べられるのは一週間に一回、土曜日だけです。買うのは二ポンドだけ。あとの日は半ポンドのボローニャソーセージで食いつなぎます。半ポンドで二五セントでした」とのこと。食習慣の違いとはいえ、今の私の食事と比較しても贅沢に感じてしまいます。