2012年5月12日土曜日

The Battle for the falklands


Max Hastings, Simon Jenkins著
W, W, Norton & Company
フォークランド紛争から今年でもう30年になります。原潜コンカラーによる巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈、シュペールエタンダールの発射した空対艦ミサイル・エグゾセの威力とシェフィールドの撃沈、ハリアーの活躍、それに反して比較的あっけなく終わった地上戦という印象を当時は受けました。そういった印象が正しかったのかどうか、あらためて学んでみたくなり、フォークランド紛争に関する本を探してみました。どうも日本語で書かれた適当なものはみあたらず、本書を購入することにしました。本書の原著は1983年に出版され、その後ペーパーバック化されたものです。二人の著者のうち、Max Hastingsさんはジャーナリストとして機動部隊に同行しフォークランド島に上陸した人で、サウサンプトン出港からポートスタンレー解放までの様子を描いています。Simon Jenkinsさんは新聞の編集者でフォークランドの領土問題のそもそもから外交交渉の過程、機動部隊派遣後の交渉とイギリス政府の動向の部分を担当しています。
フォークランド諸島の最初の発見者ははっきりしないそうですが、1713年のユトレヒト条約で他のアメリカ大陸の地方と包括してスペインの領有権が確認されました。1764年に最初に入植を試みたのはフランス人で、同じ頃イギリス人も西フォークランド島に入植地をつくりました。スペインの抗議でフランスは引き下がり、イギリスも武力による威嚇で撤退しました。南大西洋の厳しい環境下にあったので、定住植民地としてではなく、しばらくは捕鯨船などの寄港する根拠地として使われていたのだそうです。1820年にアルゼンチンは独立しましたが、スペインからこの諸島の支配権を継承したとその後、主張し続けることになります。1833年にイギリスが武力で居住者を追い出し、その後はイギリスが実効支配を続けることになりました。
フォークランド諸島の住人はずべて、FICフォークランド会社かイギリス在住の不在地主の借地人、または公務員で、自営の人はいなかったのだそうです。また、辺境の過疎地であり、ながいこと移出民が多かったせいで西フォークランドでは男女比2対1と性比が偏っていました。妊娠できる女性の供給はほぼ島出身者のみで、離婚率はスコットランドの離島の3倍ほど。外部から来る教師・兵士・科学者・公務員が島の若者にもたらす外部の世界への誘惑が島民にとっては脅威で、人口1800人ほどの島は、世界中の小さな村社会と同じような脆弱さを持っていたのだそうです。
アルゼンチンはフォークランド諸島の領有をあきらめず、第二次大戦後の植民地独立の流れに棹さして、国連に提訴します。イギリスは先占を主張することはできず、長期間の実効支配と島民の自決権の尊重(島民はイギリス人であることを希望)を主張しましたが、斜陽のイギリス経済にはこの島を維持する負担は大きく、交通・教育・医療などのサービスを島民に充分に提供できてはいませんでした。アルゼンチン側は、それまで空港もなかったこの島にがアルゼンチン負担で仮設滑走路を設置して空路を開設したり(イギリスからは国際便、アルゼンチンからは国内便の扱い)、奨学金を与えたりなどしたので、イギリスも島民が西ヨーロッパ起源のアルゼンチンの白人社会に同化してゆくのではと期待し、将来は主権をアルゼンチンに委譲するかわり長期に租借するという、名を捨てて実を取る方式も考慮されました。しかし島民のイギリス国籍であり続けたい希望は強く、またこの南大西洋の片隅の島に注意を払ってバックアップするイギリスの政治家もいなかったので、アルゼンチンとの交渉は長引くばかりでなかなか妥結にいたりませんでした。アルゼンチン側でも、1972年のペロンの帰国とペロニストの政権獲得をきっかけに、主権を棚上げにした穏健策が放棄されることになりました。
軍政下のアルゼンチンでは国民の不満をそらず目的で、フォークランド諸島の武力による奪還が計画されました。インドのゴアのポルトガルからの解放などの例を見て、帝国主義の残滓であるこの島を実力で取り戻しても国際社会からの非難を受けないだろう、またイギリスが軍隊を派遣して奪還しに来ることはないだろうと、アルゼンチン側は考えていたのだそうです。7~10月の厳冬期の派兵を予定していましたが、サウスジョージア島での事件をきっかけに4月に実施することになってしまいました。
イギリス外務省が将来の主権の委譲も視野に入れていたとはいっても、侵攻した側が利益を受ける決着をサッチャー首相は望まず、閣僚の賛同をなんとか取り付けて機動部隊を派遣することにしました。国連安保理でアルゼンチン軍の即時撤退を求める決議は採択されましたが、アメリカのヘイグ国務長官や国連事務総長の和平の斡旋を、侵攻を受けたまま譲歩したくないイギリスも、三軍の寄り合い所帯で譲歩できないアルゼンチン政府も受け入れませんでした。アメリカ大陸の国であるアルゼンチンと、西側同盟国のイギリスとの間でアメリカ合衆国は中立を表明し、イギリス機動部隊は上陸作戦を実施します。
巡洋艦ヘネラル・ベルグラーノの撃沈で、アルゼンチン海軍は出撃を控えました。また、アセンション島から空中給油を繰り返したバルカンによる爆撃や特殊部隊による駐機中の機体の破壊などが行われ、アルゼンチン空軍は本土の飛行場からの作戦を余儀なくされました。燃料の余裕がなく、フォークランド上空ではシーハリアーが優位に作戦できました。それでも、イギリス艦船は空襲による多数の被害を受けました。空対艦ミサイル・エグゾセの在庫数が限られていたことと、航空爆弾に不発が非常に多かったことで、イギリス艦隊はなんとか作戦をつづけられました。アルゼンチンは触発に設定を変更できる信管を使用していましたが、製造元のアメリカの企業がその説明書を禁輸措置で渡さなかったのだそうです。こういった目立たないかたちでのアメリカによるイギリスへのサポートはほかにもたくさんあったそうです。ただ、アルゼンチンの三軍の中では空軍が最も勇敢に戦ったことはたしかで、上陸船団に対する航空攻撃をみたあるイギリス人軍医は「一流のF1ドライバーを生み出す国は優秀なパイロットを育てることもできる」という感想をもらしたとか。
地上戦も順調に進んだように思っていたのですが、寒さと悪天候下に沼地や山道を行軍するなど苦労が多かったそうです。樺太の北部くらいの緯度の島の初冬ですから、野営するのはきつかったことでしょう。また、充分な数の車輛を揚陸できず、弾薬や食糧などの補給はヘリコプター頼みでした。大型ヘリコプターを輸送して来たコンテナ船の空襲被害でそのヘリコプターも不足していたのだそうです。そういった悪条件にもかかわらず、数的には優勢だったアルゼンチン軍に勝利することができたのは、兵員の質と士気の差が大きかったからのようです。イギリス軍が職業軍人で構成されていたのに対し、アルゼンチン兵は徴兵された人たち。出征前にイギリスのある特殊部隊員は、大口径の火器に対するのは初めてだが、小口径火器の洗礼は何度も受けていると言ったそうです。イギリスは第二次大戦後もスエズなど海外に出兵していますし、また北アイルランド問題に軍隊が投入されたことがありましたから。それに対するアルゼンチン側は、一個旅団を一ヶ月ほど駐屯させれば解決するだろうという目論見で兵站を計画していたのに、イギリスの派兵に対応して増強し、1万人以上を3ヶ月も維持しなければならなくなり、補給の状況がとても悪くなっていたのだそうです。ただでさえ指揮や訓練に問題のあった徴集兵たちからなるポートスタンレー守備隊はわずかな抵抗で降伏し、島民に多くの死傷者が出ることはありませんでした。
ざっとこんな風に、フォークランド紛争の始まりから1982年の戦闘までわかりやすく解説してくれる好著でした。英語的には、Max Hastingsさんの書いた部分は軍人・兵士の様子や戦闘を扱っているので面白くどんどん読めましたが、Simon Jenkinsさんの表現は倒置・比喩・引用などに富んでいて読みにくい感じがありました。また、戦闘の翌年に主にイギリス側の資料をもとに書かれた本なので、アルゼンチン側の政治家や兵士やアルゼンチン国民の様子などについては物足りない感じではあります。しかし、340ページの本文のほかに、この戦役での叙勲者リストやら、参加した航空機・艦船のリストやら、イギリス人ならニヤニヤして眺めそうな付録もついています。まあ、イギリス政府には30年ルールがあり、2012年の今年から当時の秘密資料が公開されることになるそうですので、もっと詳しい史書がこれから出て来ることになるのでしょうが。




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