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2012年1月30日月曜日

木簡による日本語書記史【2011増訂版】



犬飼隆著
笠間書院
2011年10月30日 
増訂版第1刷発行

郡評論争に決着をつける決め手となるなど、日本史の分野での木簡の重要性は知っていたつもりです。しかし、日本語研究の分野でも重要な史料となっているということは本書を読んで初めて知りました。本書の中に取りあげられた木簡の例は面白いものばかりです。また著者の指摘はとても勉強になったので、その中からいくつか例を挙げてみると、
日本語史の研究は記紀万葉語がすなわち上代語とは言えない時期に入ったと筆者は考えている。王朝文学語がすなわち平安時代語と言えなくなって久しいが、八世紀以前についても同様の認識をもつ必要がある。訓点語や古記録語を見ずして平安時代語を語ることができないのと同じく、出土資料を見ずして八世紀以前を語ることはできない。
万葉集や古事記などの文献史料や金石文ももちろん大切な史料ではありますが、出土した木簡は当時の日常的な文字・書法の実態を知らせてくれるという点で非常に画期的な史料なわけですね。
ここで述べようとするところをたとえをもって提示してみたい。欽明朝から推古朝にかけてを明治維新期にたとえ、天武・持統朝から藤原京時代を明治三十年代にたとえることができるかもしれない。あるいは、七世紀後半を現代にたとえることができるかもしれない。
古い時代には漢字を文字として受容するにとどまり、その後に当時の文語中国語である漢文の使い方に習熟するようになったので、かえって後の時代の方が正格に近い漢文がつかわれることがあったのだそうです。もちろん、中国語として習得できた人は稀で、漢文訓読レベルの人が多かったでしょう。その点、近代の英語の受容のたとえは分かりやすく感じました。
中国中原の本来の字義と異なる意味用法を、従来は、日本に輸入してからの和習ととらえた。今後は、東アジア一帯における漢字受容の一環としてとらえなおす必要がある。
日本への文字・書記の伝達に朝鮮半島の人の果たした役割は大きく、古い時代には朝鮮半島出身者が日本語を書き、日本の原住民にその技法を教授した場面があったと思われます。日本で出土する木簡にみられる中国に由来しない特徴的な書法は日本独自のものだけではなく、朝鮮半島由来の部分が少なくなかったということですね。
古事記が清濁の書き分けや一字一訓などの晴の書法をとったのは、一行十七文字の楷書で書かれた可能性が高く「漢字列の均一性・等間隔性に規制されながら、日本語の構文を書きあらわし、その一義的な読解を可能にするための必要な処置であった」。

行書で書かれた書簡や木簡には、文意に従って字の大きさが変化したり、意味上まとまりをなす漢字列が筆致の上でもまとまっていたりなど、読みを助ける視覚的なキューがそなわっていた。木簡にみられる褻の書記法と古事記にみられる晴れの書記法の違いの一因がこういうものだという著者の主張は非常に説得的ですね。
七世紀末、宮廷における典礼の一環として「歌」が確立した。さらに、それらは、漢詩の影響を受けて、日本語による文学作品になった。
典礼で歌を詠み記録することも律令官人たちの仕事だった、典礼に備えた歌の手習いのために習書した難波津の歌の木簡が多数出土している、旧来のうたから「歌」が制度化され、その中のすぐれたものが文学作品としての和歌に昇華したということが述べられていて、これも目から鱗の意見でした。

上代特殊仮名遣い・8母音・母音調和という現象は確固たるものなのかと思っていたのですが、木簡にみられる表現からは必ずしもそうでもないようで、驚きました。



本書の内容と直接は関係ないことですが、日本語学の世界では「木簡ども」「『歌』ども」という表現を当たり前のようにつかうのでしょうか?ちょっと不思議に感じました。
また、木簡や削りクズは燃料として使われてしまったりはしなかったのでしょうか?多くは燃やされてしまったが、多くの木簡が出土しいる遺跡は燃やさない特別な事情(木簡を扱った担当者の流儀とか、付け札としての木簡を一定期間保存する習慣があったところとか)があったところだけなのでしょうか?

2012年1月21日土曜日

長州の経済構造

西川俊作著
東洋経済新報社
2012年1月5日 発行
本書の中でも引用されているトマス・スミスの日本社会史における伝統と創造などの著作を通じて、幕末の長州に防長風土注進案という有名な史料があることは知っていました。しかし、それに関する論考を系統的に追ったわけではないので、どんなものなのか詳しくは知りませんでした。本書によると、江戸期の長州藩の支配領域は「宰判」と呼ばれる地域に分けられていました。風土注進案ですから、その宰判の位置・地形・土地の利用・戸数・住民数などの情報があることはもちろんですが、それに加えて宰判ごとの米・雑穀・豆・商品作物などの農業生産量、年貢や肥料・牛馬飼料などの農業生産にかかる経費、住民の消費支出の内訳と金額、林産・海産・製塩・木綿織り・商業・サービス業の規模・売上高・従事者数・経費なども記されているのだそうです。本書はこういった防長注進案の細かな情報を使って、当時の長州の経済構造を明らかにしてくれています。勉強になったところがとてもたくさんあるのですが、特に私の目を惹いた論点を抜き書きしてみると、
  • 宰判と呼ばれた藩内各地域の実態が鮮明となるにつれ、特産物という形態をとった地域間分業がはっきりとしたかたちで成立していたことを強く意識するにいたった。内陸の宰判だから低開発といっている限りわからない、その地域独特の換金作物があって、それでもて不足する米を買い入れていたり、あるいは広範囲の市場向けの特産物ーー木綿や紙や塩などーーがあったりするという事実、それゆえにそれらの地域を結ぶ廻船の交易があったりする、そういう地域間分業の発見である。それらは産業連関表の上でみれば、農業部門と工業部門の取引であったり、あるいは繊維産業と繊維産業の取引であったりして、工業化経済の一つの指標である部門間の相互取引(中間財取引)のウエイトを高めたわけではなかったかもしれないが、市場経済の進展という観点からは重要な変化である。しかもそのほとんどが、筆者がかねてより分析的に重要と考えてきたところの、農家兼業という形態をとっていたところに、この時代の特質があった。
  • 近代以前とはいえ広範に展開していた、ただし農業兼業によるところの非農業就業の多様な姿
  • 産業部門間の相互依存関係の存在  地域間の交易が存在していたからといって、そのすべてが部門間の中間取引とはかぎらない。しかし、徳川時代の製造業はほとんどが農家兼業であったから原料栽培からの一貫生産と考えるのは正しくなく、言葉の正確な意味での部門間取引の比重が一定のレベルまで到達していたということも明らかになった。
  • 農民の生活水準は、注進案にしばしば登場する表現どおりの『且且渡世』というわけでは必ずしもなかった
  • 従来の通説では、これら副業・兼業の収入は『しがない』補助収入とみなされ、副業収入に対する課税はほとんど無税といっても良い程度であったことには注意を払わず、もっぱら重い米納年貢のみに焦点を合わせ、ひたすら農民の窮乏化を語ってきた
  • 三田尻宰判の非農産業所得はやや農業所得を上回る、まさしく五分五分。加調米・出稼ぎを考慮すると46:54
  • 年貢は著しく重農主義的で、田畠石盛の4割という重税であった。しかし産業所得が5400貫余もあったうえに、産業活動への課税は薄税であったから、家計収支は相償うどころか、実に大幅な黒字になっていたのである。可処分所得に対する消費支出の割合は67%、また所得合計に対する税率は24%で、今日と大差なく、むしろやや低い(!)
  • 平均消費性向は67%と近代経済成長前の経済としては低い比率である 貯蓄率は33%とやや高い比率 エンゲル係数(=飯料/所得計)は31%で、工業化以前の社会に一般的な水準に比べれば十二分に低い水準である
  • 文房具や紙類の支出見積もりがほぼ全村記録されているのは、島内の識字率の高さを反映しいていたものと見てまちがいなさそうである
    薬剤・筆墨・線香などへの支出を見ると、この時代の島民の日常生活が、いわゆる飲まず食わずの窮迫状態にあったとはとうてい考えられない。衣服の新調、医師や寺子屋への謝金、その他サービスへの支出は捉えられていなかった消費支出であったと考えるべきである。
などがあげられます。私も1970年代までは、過去の農家の生活が「 且且渡世(かつかつとせい)」だったのだと思いこんでいました。それは、マルクス主義史学にもとづいた著作が手に入りやすく、それらを読んで影響されていたからですね。江戸時代の農家が且且渡世だったのはもちろん、昭和の敗戦後の農家の姿も且且渡世だったと私は思っていました。その頃、典型的な農民像として印象づけられていたのは今井正監督の「米」で、厳しい労働と苦しい生活を送る望月優子演じる農家のお母さんでした。その後、著者をはじめとした数量経済史の本や、日記やいろいろな史料に基づいた実証的な本(マルクス主義史学が実証を疎かにしていたとは思いませんが、研究の方向がはっきりし過ぎていたとは思います)を読むようになって、印象が変わりました。本書でからもそれを再確認できた感じです。そして、読み終わっての感想としては、
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外の農作物やサービス業・手工業(製塩・木綿織り)に対する低率課税・非課税が併存していたのは何故か。防長注進案のような史料をつくらせた長州藩当局は非農生産額がかなり大きいことを認識していたはずですから、そこから税を徴収しようとはしなかったのか、それともできなかったのか。稲作については年貢を納めるのが当たり前という共通認識があったのに対して、雑穀や麦は百姓の食糧として課税を避ける慣習が中世からずっと継続していたからだけでしょうか。また、サービス業・手工業は稲作と違って生産額の把握が難しい・税を忌避しやすかったからでしょうか。
  • 米に対する年貢率の高さと、それ以外への低率課税・非課税が経済構造に与えた影響はどんなものか。この構造って、米作産業からそれ以外の産業への補助金みたいな役割を果たしたんでしょうか?江戸時代の経済発展にはこの構造と、参勤交代で江戸へ資金と商品がが流入する構造がかなり効果があった気がしますがどうなんでしょう。
  • 農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことが記されています。農・非農という分け方は、近現代の産業の分類につかわれる第一次産業というくくりとは違い、非農には林業・漁業なども含まれています。こう分けたのは、史料の分け方がそうなっているからか、それともこの時期には農・非農と分ける方がふさわしいと考える理由があるのか。
  • この時期の農業所得と非農産業所得が五分五分に近いことは、明治初年以降の経済統計との整合性はどうなのか。本書は防長注進案の分析なので明治以降の統計数値は触れられていません。でもおそらく、整合性のあることは誰かが実証しているのでしょうね。
  • 米の移入に頼っている地域がかなりあること。西ヨーロッパのプロト工業化では穀物生産に不向きな土地での農村工業化と食糧を生産する地域に分化したのだと思います。長州の場合には町場や塩田村の米購入は別として、紙生産を行う山間地の村にその傾向を見ることが出来るのかどうか。さらに、防長注進案がつくられたのは天保の危機への対処という意味があったそうですが、食糧の購入は飢饉が長いことなかったから可能になったのか?または天保の飢饉の被害は東北地方に大きく、長州では食糧の移入に頼る経済構造に破綻を来さずに済んだから、天保末の実態がこうだったのでしょうか。
などなど。勉強になり、しかもいろいろ妄想させてくれる本でした。