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2011年5月22日日曜日

iPad2 一日つかってみて

うちのiPadは64GBのWi-Fiのみバージョンの黒です。iPadもiPhoneもディスプレイの周囲は黒でないと落ち着かない印象で、白いiPadは却下です。iPhoneも3GSの白はディスプレイの周囲がちゃんと黒かったのに、白いiPhone 4ではディスプレイの周囲も白くなってしまいました。あのディスプレイン周囲が白いデザインは私の感性にはあいません。あわないというか、どうしてアップルがあんなもの売ることにしたのかが不思議。
iPadは主に寝っ転がって使うつもりで買いました。今まではiPhoneをつかっていましたが、さすがにブラウザを利用するにはiPhoneだと小さいのです。またiPhoneのSafariを側臥位でつかうと、しょっちゅう縦画面と横画面が勝手に切り替わってしまうのが不便でした。iPadだとソフトウエアのスイッチで縦か横のどちらかに固定できるようになっているのがいいですね。これはiOSのバージョンアップでiPhone 3GSでも使えるようにしてほしいと思います。でもアップルがその気ならすでに実現しているでしょうから、期待薄ではあります。
うちに届いたiPadのドックコネクタの差し込み感は、iPhone 3GSのドックより固い感じで、力を入れないと入りにくくなっていました。個体差があるのかもしれませんが。
iPhoneをスリープから起こすには、手に持ってホームボタンを押します。iPadを起こすには、置かれたままの状態でホームボタンを押したくなるときがあります。iPadの短辺は185.7mmもあるそうなので、置いたままの状態だとホームボタンを指で探してしまうことになりがちなことに気づきました。これは何日か使っているうちに慣れて上手に押せるようになるのでしょうか。
iPhone用のAppをiPadでつかうには、そのままの大きさでつかうのと、縦横2倍にして使うモードとがありました。iOSのフォントは等倍だと素敵なのですが、2倍モードだと美しくは感じませんでした。

2011年5月21日土曜日

iPad2が到着

アップルのオンラインストアにオーダーしてあったiPad2がようやく届きました。
販売開始日にお店に並ぶなどという贅沢なことはできず、4月29日に近くの量販店でサンプルをいじってみました。iPadに比較して薄くなり、かなり持ちやすくった印象だったので、オンラインストアでぽちりました。出荷予定は1-2週となっていました。この1-2週というのは営業日なのでしょう。5月の連休をはさむので、5月19日出荷、22日配達予定とのこと。この日程を見て出荷から配達まで3日もかかるのはなぜなのかなと不思議に感じました。

5月18日にアップルから出荷したよのメールが届きました。予定より一日早い出荷でした。もしかしたら19日にも届くのかなと期待しましたが、配達状況をチェックしてみると、出荷場所はなんと中国の深セン。これなら配達までに3日を見込んであるのも納得です。ここ数日、アップルのオンラインストアは爆寸になっていることが多く、どこまで輸送されてるのかがなかなか確認できなくてやきもきしましたが、当初の予定より一日早く届いたので、一安心。パッケージはiPad2ではなくて、iPadなんですね。これから開封して、ゆっくり遊んでみようとおもいます。


2011年5月15日日曜日

経営者の時代

経営者の時代 上
A・D・チャンドラーJr著 東洋経済新報社
1979年10月発行 本体5600円
経営者の時代 下
A・D・チャンドラーJr著 東洋経済新報社
1979年11月発行 本体5400円
邦題は経営者の時代となっていますが、原題はTHE VISIBLE HANDです。目に見える手というのは、アダム・スミスの「見えざる手」。つまり市場による自動調節機能と対比して、企業の管理者・経営者による財貨の流れの調整を著者がおしゃれにこう表現したんですね。本書はそのThe Visible Handの歴史的な出現経緯とどんな役割を果たしたのかを明らかにしてくれます。
自分の生まれ育った時代から現在までのアメリカのことを考えると意外なのですが、独立後しばらくアメリカ合衆国は農業国でした。南部のプランテーションに加え、1840年代には商業などでも専門的な企業が生まれ、また繊維産業で工場制が広く採用されましたが、企業の所有者がごく少数の雇用者とともに管理すれば充分な規模の企業ばかりで、 複数の単位からなる近代的な企業は存在しませんでした。
著者によると、この状況に変化をもたらしたのは石炭と鉄道と電信です。新たな炭田の開発で無煙炭が豊富に供給され、鉄道や産業で利用されるようになりました。鉄道は運河や既存の陸上輸送に比較して輸送速度が速く、しかも天候や季節による予定外の遅延の発生が非常に低くなりました。電信は情報の伝達速度を格段に上げました。鉄道会社は従来の企業より資本の規模が大きく財務部門をもち、駅などの施設は広い地域に分散して存在するので電信を利用しての管理を行う部門があり、また安全な運行のために車輌や線路の管理を行う部門を必要としました。こうして、まず鉄道会社がライン・スタッフ制の複数単位制の企業として成長し、電信会社がそれにつぎました。
鉄道と電信と石炭の利用が可能になると、製造業・流通業でも大量生産と大量流通が可能になり、一企業が成長するかまたは水平統合によって複数単位制の大産業企業がみられるようになりました。製造業では大量生産に適する業種とそうでない業種があり、例えばアメリカン・タバコ社は紙巻きタバコで独占的な地位を占めましたが、大量生産に適さない商品である葉巻では占有率の向上に失敗しています。技術が大量生産に適せず、その流通が専門的なサービスを必要としない産業では、大量販売業者が生産者から消費者への財貨の流れを調整する役目を担うようになりました。
鉄道・電信などのテクノロジーによって「マネジメントの目に見える手が、経済を通ずる財貨の流れを調整するうえで、市場の諸力の見えざる手に比べより有効であることが明らかになってのち、初めて生存能力ある制度となった」複数単位制の大企業では、生産と流通の管理から利潤を上げるために、各単位の管理を行うミドル・マネジメントに多数の常勤の俸給管理者があたりました。
しかし20世紀初頭の段階でのトップ・マネジメントは、主に企業の所有者が行う企業(企業家企業)と俸給管理者が主に担う企業(経営者企業)とがありました。第一次大戦後の不況への対策として、長期的な需給の観点から資源配分・計画立案を行うことの重要性が明らかとなり、専門的な知識を持ち、日常的な活動の責任から解放された俸給管理者である本社の最高経営責任者がトップ・マネジメントにあたる経営者企業が大多数となりました。 また新分野への進出などにより多くの製品を抱える企業を主に事業部制的分権組織をもつことの有効性も明らかとなりました。その後、現在に至るまで事業部制組織をもつ管理者企業が継続して大企業として活動を続けてきているのです。
アメリカ合衆国でこうした管理者企業が先駆的に出現した理由として、軍事支出との関連を挙げる論者もいますが、政府が軍事支出を含め大きな顧客となったのは二次大戦中以降なので、時期的に遅すぎて関連はないと思われます。アメリカの国内市場は成長が早く同質で大きかったことが、経営者企業の出現がヨーロッパ日本より早かった理由であると著者は考えています。また、複数単位制の大企業が成長しにくい分野の例として著者は繊維産業をあげていますが、日本の中でも工業化の早かった紡績業でもたしかに寡占は進まなかったことを思い起こしてしまいました。
ざっとこんな内容が上下あわせて900ページほどにわたって展開されていますが、論旨が魅力的かつ説得的でぶれずに展開されていますから(日本語訳は上等とは言えませんが)、一気に読めてしまいました。さすがに、いろんなところで参照文献として挙げられるだけのことはあり、名著だと思います。原著は1977年に書かれていますが、日本ではまだまだ独占とか金融資本主義とか帝国主義といった観念の遊びを続けている人が少なかった時代だったでしょうから、当時はきっとインパクトがあったのでしょう。本書を読んでアメリカの経済史を学んでみたくなりました。古典を読むのもいいですね。

2011年5月9日月曜日

近現代日本を史料で読む



御厨貴編著 中公新書2107
2011年4月発行 本体880円


タイトルは「近現代史を史料で読む」ですが、「読む」ことが主眼ではなく、近現代の日記史料をそこに書かれた有名なエピソードなどを示しながら紹介している本です。日記の書き手の略歴・写真などの紹介があるのはもちろんですが、そういった事典的な事項ばかりが書かれているわけではありません。例えば、伊東巳代治の翠雨荘日記については
伊東の栄光と得意も皆かつて伊藤とともにあった。だから本当は伊藤のもとに帰りたいのである。だが伊東の矜持がそれを容易には許さない。この日記は、その葛藤の記録でもある。
とか、また松本剛吉政治日誌については、彼を元老の情報源・連絡役、政界の通人として紹介した後で、
最晩年の彼はそれまでの労を報いられて貴族院勅撰議員になった。任命の日、彼は自らの勅撰に配慮を試みてくれた人々の名前を感謝を持って日記に記すと同時に、反対した人物の名前を書くことも忘れなかった。自らをめぐる情報をも掌上で転がす感触はいかばかりのものであったろうか。
というように、著者による評価もまじえて面白く読めるように工夫されていました。
サブタイトルに「大久保利通日記」から「富田メモ」までとあるように、とりあげられている史料は明治から昭和後期にまで及びます。タイトルには明示されていませんが、編著者が御厨貴さんであることから推測されるように 、紹介されているのは政治家・官僚・軍人・宮中関係者などの政治史関係の史料がほとんどで、原敬日記が12ページ、木戸日記、佐藤榮作日記が10ページというように、政治史的に重要な史料はその背景やその史料によってどう研究が進められたのかも含めて詳述されています。一方、万年野党の政治家や反体制方面の人、経済人、文化人などの史料はほとんど触れられず、植木枝盛、徳富蘇峰くらいでしょうか。また、政治学者の岡義武日記がとりあげられていますが、これも一時は東大法学部で同僚だった矢部貞治日記との対比のために紹介されただけのようです。
採りあげられた人は有名人なので、どこかで顔写真を見た覚えのある人ばかりですが、私にとっての例外は原田熊夫で、本書ではじめて彼の顔を知りました。どちらかというと醜男だし、西園寺公望と一緒に映ったもう一枚の写真でも西園寺と比較して背は低いし猫背で頸が短くて太っていて風采が上がらない印象。彼が表舞台で政治家とならずに秘書役に徹したのはそのせいかな、また文章で明示せずにそれを理解させるために著者はああいう写真を載せたのかな、とも感じてしまいました。また正装している写真の載せられた人が多い中で、ひとり目を惹いたのが牧野伸顕の写真です。中国服を着ているようです。でも、なぜこの写真が選ばれたのかは分かりませんが。
素人である私が歴史を好きなのは、現在への関心が基底にあり、現在をよりよく理解したいから歴史を学びたくなるのだと思います。本書を読んでいると、過去の指導的な政治家はやはり立派な人が多かったと感じます。というより首相や党首といった地位に就くことのできた人の数がずっと少なく、選ばれた人しか指導的地位につかなかったから、結果的にそうだったのかも知れませんが。現在だと、権力闘争が好きだから政治家になった人ばかりで、首相になったらなったことだけで目的は達成という人ばかりのような感じ。濱口雄幸日記のところに
1990年代以降の日本政治は好むと好まざるとにかかわらず新たな政治のあり方を模索し続けている。政党政治をどう創るかはふたたび現在の課題であり、終わりのない課題でもある。浜口は「試験時代」という言葉で政党政治をいかに改善していくかを問い続けた。このような恒常的な課題への取り組みを感じさせるところに日記史料の面白さがあり、浜口が「命懸け」と記した政治を、民主政治の下でともに担う私たちが、本史料から学び得ることは多い。
と書かれていましたが、研究者が歴史を研究する際にも、現在から過去をみているのだなと感じさせられました。あと、現在とのからみでいうと、日記・書簡などの文書類以外の史料、PC上の文書やメールやtwitterなんかを政治家などは保存する措置を執っているのでしょうか。そういう史料なしだと将来の歴史家が困ることにならないか心配。

2011年5月8日日曜日

日本文学史早わかり

丸谷才一著 講談社学芸文庫
2004年8月発行 本体1200円

冒頭には、文庫本で80ページほどからなる「日本文学史早わかり」が載せられています。ヨーロッパの流儀を真似てそれまでに書かれていた講壇型の日本文学史には政治史にならった時代区分などの胡散臭い点があると感じた著者は、日本の文学状況の特徴である多数の勅撰集の存在に着目し、これらの勅撰集を目安にして時代を分ける文学史を提案しています。まったく、頭のいい人だな。

  1. 八代集時代以前(宮廷文化の準備期)
  2. 八代集時代(宮廷文化の全盛期)
  3. 十三代集時代(宮廷文化の衰微期)
  4. 七部集時代(宮廷文化の普及期)
  5. 七部集時代以後(宮廷文化の絶滅期)

現代でこそ詩・詩集・詞華集はまったく流行りませんが、江戸時代だって、庶民が手にする文学作品の多くが、勅撰集の歌や源氏物語を下敷きにしていたわけですから、宮廷文化の普及期だと言われれば、たしかにその通りと頷かされます。そして、天皇が恋歌を詠まなくなった私たちの時代が、宮廷文化の絶滅期という著者の指摘は鋭い。もちろん時代区分だけではなく、その時々で最高の批評家兼詩人を選者として勅撰集が、単にすばらしい歌を集めた詞華集であるというだけではなく、収められた歌の集団が絵巻物のように編まれていたことなど、詞華集が日本文学史で果たした役割にかんする著者の見解もとても興味深く読めました。
その他、和歌に関する4つとその他に関する評論がいくつか収録されています。解説・年譜・著者目録をふくめて240ページあまりのうすい文庫本で1200円というのは高い気がしますが、売れる数を考えるとやむを得ないところなのでしょうね。でも、丸谷さんの評論はどれも面白いのでおすすめではあります。この本、しばらく前に近所の書店をチェックした時には置いてなくて、新宿のジュンク堂にもなくて、オアゾの丸善に寄った時に買いました。ところが、今日近所の書店に行ったらなぜか置いてありました。

2011年5月7日土曜日

長い20世紀

ジョバンニ・アリギ著 作品社
2009年2月発行 本体5200円
長い20世紀というのは、もちろん単に長く感じられる20世紀という意味ではなく、ブローデルのいう長い16世紀などと同じ意味の使い方で、アメリカ覇権の時期を指しています。このアメリカの覇権の時期の特徴を明らかとするために、まず著者は資本主義の蓄積システム・サイクルという考え方を提示します。 本書は分量的には長い20世紀についての本というよりも、資本主義の蓄積システム・サイクルを過去の3つもふくめて説明している本という感じです。
イタリア都市国家の繁栄をもたらした13世紀から14世紀初期のユーラシアの交易拡大の終了後に出現した第一サイクルでは、領土主義的な組織であるイベリア半島の政府と政治的な交換の関係に入ることにより、保護を受けることに成功したジェノバの金融業者のネットワークが主役となりました。第二サイクルは、権力を指向する政府組織をみずから保持することにより保護コストの内部化・節約を行い、アムステルダムを世界の倉庫とすることに成功したオランダのサイクル。第三サイクルは、生産過程の組織化と合理化をはかる産業主義で生産コストの内部化を実現し、世界の工場と中継地とを両立したイギリスのサイクル。そしてその後に、垂直統合・経営管理により取引コストの内部化に成功した企業資本主義のアメリカの第四サイクルが出現しました。著者は、
私たちの蓄積システム・サイクルという考え方の基盤は、資本主義世界経済のあらゆる主要な発展の成熟には、その前触れとして、商品の交易から金銭の交易へ特有の移行が伴っていたというブローデル説である。
と述べています。蓄積システム・サイクルは、生産拡大の局面とそれに続く金融拡大の局面とから構成されているわけです。本書は本文540ページほどなのですが、最初の370ページは第一から第三サイクルの解説に当てられていて、第一から第三サイクルにおいて金融拡大の局面が新たなサイクルの出現の予兆だったことを明らかにしてくれます。なぜこうなるのかというと、
金融拡大の需要と供給の諸条件が、このように繰り返し、大よそ(ママ)一致することには、貿易の拡大に投下される資本への収益が低下し、同時に資本主義的組織と領土主義的組織の両者に競争の圧力が強まる傾向が反映されている。この諸状況の組み合わせによって、ある主体(一般的に資本主義的)は、現金の流れの方向を貿易システムから信用システムに転じて、貸し付け可能な資金の供給を増やそうとする。別の主体(一般に領土主義的)は、いままで以上に競争的な環境で生き延びるために、必要な追加的資金源を借金によって追及し、貸し付け可能な資金の需要を増やそうとする。
からなのだそうです。こんなに長い前説が必要だったのは、第四のアメリカ・サイクルでも同様のことが言えると主張したいからですね。第二次大戦後の復興に続く繁栄と拡大の四半世紀のあと、ベトナム戦争での失敗、オフショア金融市場の拡大、金ドル本位制の放棄、変動相場制への移行などは第四サイクルが金融拡大局面にはいったことを示しているのだと著者は述べています。そして「終章 資本主義は行き延びるか」の中でこのアメリカ・サイクルの危機に対する結末として

  1. 資本主義の歴史の流れで金融拡大期間に管制高地の番人が交替したが、アメリカがそれに抵抗して真に地球的な世界帝国を形成して真本主義の歴史に終止符を打つ
  2. 東アジア資本が資本蓄積のシステム過程の管制高地を占拠する
  3. 冷戦世界秩序の消滅に続いて起こった暴力のエスカレーションの恐怖の中で燃え尽きてしまう。混沌の中で資本主義の歴史も終わりを迎える
の三つを提示しているのです。ただし、終章では東アジアに資本蓄積の中心地がシフトしていることが強調されていて、原著執筆時にも2番目のシナリオを著者はあり得べきものとして想定していたのでしょう。原著は1994年に出ているので、その段階では東アジアを日本を中心とする「資本主義群島」と描いています。歴史的にはそれで正しいと思いますが、その後の十数年で様相は大きく変わり、次のサイクルの主役となりうる東アジアの代表は中国に違いありません。本書は日本では2009年に発行されたので、日本語版序文には
現在進行中のグローバル政治経済の変化からみて『長い20世紀』を書いた13年前以上に、東アジアを中心とする世界市場というシナリオの方が、ありえそうだ。
と著者の弁明が述べられていました。本書を手にしたのは、著者の新著「北京のアダム・スミス」を書店で目にして、まずこちらからと思ったからでしたが、「北京のアダム・スミス」の方にはその点もっと詳しく述べられているのだそうです。いずれにせよ、著者の主張の当否を判定するためには、いまのサイクルの再構築の結果がどうなるかを見届けるまで長生きしなければならないわけですが、年齢を考えると私には不可能そうです。

日本人からみると、毒入り餃子とか尖閣諸島中国漁船衝突事件での対応など気になる点はありますが、中国の指導者はおおむね自制的な人たちなのは確かでしょう。でも、とても民主主義国とは思えないし、メラミン樹脂粉ミルクとか下水再生食用油とか海賊版などにみられる中国の市民の民度などを思うと、中国がリードする世界に危惧を感じないわけにはいきません。また、少子高齢化・国内での地域間階層間格差・流民現象など中国の抱える問題も少なくなく、移行がスムーズにいくのかどうかもとても心配です。イギリスからアメリカに覇権が移行する過程で、イギリスをはじめヨーロッパの人たちはどう感じていたのでしょう。アメリカ合衆国はヨーロッパ、とりわけアングロサクソンの出店ですから、それほど不安は感じていなかったのか、または二つの世界大戦でそれどころではなかったというのが真相かな。

2011年5月3日火曜日

源頼朝の真像

黒田日出男著 角川選書490
2011年4月発行 本体1800円
教科書の口絵などによく載せられていた神護寺の伝源頼朝像がじつは足利直義の肖像なのだという米倉迪夫さんの説は、その伝源頼朝像をカバーに載せた「肖像画を読む」(黒田日出男編、角川書店、1998年)におさめられた米倉さんの「伝源頼朝像再論」を読んだ時に知りました。とても説得的な説ので、すでに定説化しているのかと思っていたのですが、本書のプロローグや第一章によるとそうではないのですね。本書には、米倉さんがその後この説に関する本を書き、それがいまでは平凡社ライブラリーで読めると紹介されていたので、近いうちに読んでみようと思います。御説自体は本当にその通りという気がしますが、 足利尊氏・直義像が、いつ頃、また一体どうして平重盛・源頼朝像とされてしまったのかについても興味があるので。
著者は米倉説支持派なのですが、神護寺の伝源頼朝像が頼朝の肖像画ではないとすると、ほかに頼朝の面影を偲ばせてくれる作品はないのか、という点が本書のテーマです。肖像画の方はというと、現在残されている頼朝の肖像画は神護寺の伝源頼朝像を模写したものばかりで役に立ちませんが、彫像には鎌倉時代に造られたものが2点あります。そのうち、東京国立博物館蔵の伝頼朝像の方を、著者は北条時頼像だとしています。論拠がいくつかあげられていますが、建長寺に所蔵されている北条時頼像と顔つきがよく似ているという指摘は、本書所収の写真でみても、たしかにその通りです。
残るもう一体の頼朝像は甲斐善光寺にあります。甲斐善光寺は武田信玄が信州善光寺の本尊阿弥陀如来像などを移して開山したお寺で、その時に頼朝像なども一緒に持ってこられたものなのだそうです。戦乱から保護すると称して、信玄が信州善光寺から僧侶たちと寺宝をごっそり甲府に遷した行為はひどいことのようにも思えますが、寺宝などを博物館に収蔵し公開する現代のやり方と、考え方はそんなに違わないのかも知れません。


本書所収の写真によると、この善光寺の像は熟年のおじさんで、中小企業の社長さんといった感じのあくの強そうな顔をしています。理知的な印象を与える神護寺の伝源頼朝像とは違い、まったく上品そうには見えないし、写実に徹している印象を受ける彫像です。この像が頼朝の「真像」なのかどうか。その鍵となるのが、この像にある胎内銘ですが、現状では非常に判読しにくくなっています。著者は十数年かけてこの胎内銘の読みに挑戦したのだそうです。







この胎内銘の解読はこれまでにも試みた人やグループがあって、その解読案が本書にも紹介されています。第7章では、それらこれまでの案も材料に、著者が自らの解読を行っていく過程を紹介しています。文字が消えたりかすれていてとても読めず、空白としてのこされていたような部分にまで、各種史料から導いた著者独自の説にもとづく言葉、たとえば「尼二品殿」などをあてはめてしまうところなど、この第7章が一番面白く読めるところでした。
できあがった解読試案と他の史料からわかることをまとめると、源頼朝・政子夫妻には善光寺信仰があった、頼朝の死後に政子は頼朝像をつくらせ彼女が善光寺に建立・寄進した御堂にその像を安置させた、御堂は鎌倉三代将軍御影堂と呼ばれるようになった、善光寺には大火が何度もあり頼朝像も火災から頭部だけが救い出されて躰部を補う修復を受けその時に胎内銘が書かれたと、著者は主張しています。たしかに、写実的な顔とは対照的に衣服など躰の表現の硬さが素人の私にも感じ取れ頭部と躰部が別に造られた印象を受けるなど、著者のストーリーには大きな矛盾がなく、それだけでも説得的ではあるのですが、さらにその説得力を増してくれているのが、源実朝像の存在です。
甲斐善光寺には源実朝像があり、これもやはり信州善光寺から遷されたもので、もともとは鎌倉三代将軍御影堂に安置されていたと思われます。写真で見ると優しそうな表情で、頼朝像とは違ってイヤらしくないふつうの日本人という感じがします(うちの患者さんの中にも一人とてもよく似た人がいます)。そしてこの源実朝像は、京都国立博物館蔵の公家列影図に載せられている実朝に、顔が似ているんですね。そろって伏し目がちの表情をしていて。ですから、善光寺の彫像の方も京博の肖像画の方も、本人の顔を写しているのは確かだと思われます。公家列影図を描いた人は京都の人でしょうから、実朝の顔を見たことがあるの?と不思議に感じましたが、この頃はこういう作品を、デッサン(紙形)をもとに造ったのだそうです。これは初めて知りました。彫像の作者にも肖像画の作者にも伏し目がちな表情のデッサンが渡されれば、似た顔になるのは当たり前ですね。
本書所収の写真をみると、実朝像と頼朝像の顔もかなり似ていることがわかります。著者は「面長で頬骨の出たその顔の特徴は、頼朝像のそれと似通っているということであった。親子の間の肖似性を感じるのだ。つまり、この両像はたんに同じ寺に伝わってきたというだけではない。両像は少しの時間をおいて、続けて造像されたのではあるまいか。そう感じられるような両像の近さなのである」と書いています(肖似性という用語があるのを初めて知りました)。二つの像の顔は規範的な表現がなされたというわけではありませんから、本人たちの顔の特徴をとらえているからこそ、ふたつの像が似ることになったと考えるのが自然ですね。
夫の像を造らせただけではなく、母親が息子の死後に息子の像を造らせ供養させたというのはとてもありそうなお話しだと思います。鎌倉三代将軍御影堂とう名前からわかるように、現在は失われていますが、かつては頼家の彫像もあったのだそうです。頼家の死と政子との関係のことがあるので、著者も断言はしていませんが、頼家像も政子がつくらせたものだろうと推測しています。頼家の死後しばらくたって、母親が夫頼朝と同じように追善供養するために彫像をつくらせたというのは、ありそうなことだと思います。ヒトとは複雑なものです。
おおむね納得させられてしまう著者の説ですが、ひとつ疑問に感じた点。実検すると「源頼朝坐像の頭部と躰部の間に12ミリの隙間の存在を確認した」のだそうです。焼け残った頭部に躰部を補う修理をしたのなら、どうしてそんなに寸法が違ってしまったのでしょうか?躰部の修復後の火災や移動で、こうなってしまったのでしょうか。
私は専門家ではないので、著者の新説の当否の判断はできません。でも、刺激的な新説を素人にもわかりやすく、しかも説得的に展開しているという点で、本書はおすすめです。黒田さんの本はどれも面白く読めますが、本書もその例外ではありませんでした。日本史の分野にも、新たな視点で新たな遊び場を見つけることがまだまだ可能なことがよく分かる感じ。例えばこの先には、ほかの歴史的人物の肖像画がほんとうにその人の顔に似せて画かれたものかという研究はどうでしょう。聖徳太子や藤原鎌足や柿本人麻呂などの絵は、教科書やお札につかわれてはいても歴史画としての意味しかありません。でも、似絵の時期以降に描かれた肖像画でも、必ずしもその人に似ているという保証はないでしょう。本当にその人の顔かたちを写して描かれた絵と、想像で描かれた絵とを判別するのも面白いと思います。ただ、素人受けも狙える面白い研究に加えて、もっと大風呂敷を広げる研究が重要なこともたしかです。もっと若い日本史の研究者には、そちらの作品を読ませてほしいとも感じます。


2011年5月1日日曜日

藩札の経済学

鹿野嘉昭著 2011年3月発行
東洋経済新報社 本体3800円
藩札について、その起源から実際の流通事情、明治維新後の藩札整理まで、素人にも理解しやすい言葉で分かりやすく解説した好著です。私には本書で初めて知ったこと・学んだことがたくさんあり、整理も兼ねて以下に紹介してみます。
藩札の起源は伊勢山田地方で発行された山田羽書だとされています。山田羽書は、伊勢山田での宿泊費や飲食・土産物費用支払いの手段として山田御師が地方在住の信者向けに発行したクーポン券で、伊勢神宮の神札に似せてつくったものが始まりなのだそうです。伊勢神宮の御札に似ているというのがみそですね。その後に発行される藩札の多くも、縦に細長い形状を真似ました。伊勢山田地方では「毎年多数の人々が伊勢神宮に詣でることを主因として少額貨幣の需要がきわめて高かったことから、金銀貨という高額貨幣が発行された江戸時代に入ると恒常的に少額銭貨が不足」する状況があり、この山田羽書が銭不足を補うかたちで流通したのだそうです。
江戸時代の貨幣というと、幕府発行した小判・寛永通宝・丁銀などが思い浮かびますが、「関東地方所在の諸藩を除く全国の諸藩においては、多くの場合、金・銀貨に関する限り、正貨よりもむしろ藩札が領内の一般的な交換手段として広く利用されていた。実際、江戸時代において金・銀貨がそのまま貨幣として利用されていたのは江戸・大坂・京都といった大都市に代表される幕府直轄地域内か、藩際取引や藩外旅行にかかわるものに限られ、各藩内での一般士民の日常生活のほとんどは藩札と少額貨幣である銭貨によって決裁されていた」という状況だったのだそうです。
どうしてこうなったかというと、各藩の領域内では小判・寛永通宝・丁銀などの幕府貨幣が不足しがちな事情があったからです。本書には「江戸時代における幣制の下での一領国への正貨供給経路は領際取引に限られ、毎年、民間主体による領際取引を通じて得られた領外余剰のほか、藩政府による年貢米の領外市場での売却や国産物の販売に代表される領外への輸出取引から江戸藩邸の運営費用、参勤交代費用や領外からの諸産物の輸入などを控除した金額だけの正貨が流入するこの流入正貨の累積残高と江戸時代はじめの正貨残高(いわゆる領国貨幣残高を含む)との合計が一領国経済における貨幣供給量であり、これが貨幣需要を下回る場合には通貨不足が発生することになる。そしてまた、正貨の純流入額あるいは領外取引余剰は、資金循環に関する恒等式が示すように、事後的には一領国における民間部門の貯蓄超過と政府部門の財政赤字の合計に等しい」「個々の大名領国経済は、国際経済学でいう『開放経済の小国(small open economy)の亜種として捉えることができる』」と書かれていました。これは何となくそうだろうなと私も昔から感じていたことなのですが、こうはっきり表現してくれているのに出会ったのは初めてな感じ。江戸時代の大商人や各藩の経済政策担当者もこのことを理解していて、重商主義的な政策、特産品の専売制度などをとったのでしょう。また開国後に対外貿易を展開してゆく時にも藩際貿易の経験は役立ったでしょう。


ともあれ、各藩領国内で幕府貨幣を流通させるには、藩際貿易の黒字などの手段によって領国内に十分な量の幕府貨幣を輸入しなければなりません。藩際貿易の大幅な黒字を計上することのできる藩は例外的な存在で、その他の藩では貨幣不足対策として藩札を発行しました。藩札を発行した藩は西日本に多く、1661年から1707年の藩札発行禁止措置までに近畿以西の諸藩を中心に50余藩が発行しました。「先進経済地域で貨幣に対する取引需要が大きいに西日本地方ほど、通貨不足がより深刻であったことを意味しているのかもしれない」とのことです。また、江戸時代前半には東日本の諸藩での藩札の発行は少なかったわけですが、これは必ずしもこれらの地域の経済的的後進性を意味するのではなく、「東北地方所在の諸藩は古くから銀・鉄などの鉱物のほか、馬、藍、俵物などといった米以外の商品生産が活発に行われており、そうした商品の売買を通じて領外から正貨が流入する結果、藩の財政基盤は確固としており、藩札発行に対する依存度合いが相対的に低」かったからとも考えられるのだそうです。
幕府貨幣の各藩領国内での流通を考えると、金銀貨の流通がほとんどなかったのに対し、藩札と並んで銭貨はそれなりに流通していました。藩によっては、領内での幕府正貨の流通禁止、領内に逗留する旅人・商人に藩札の使用を義務づけるなど藩札の専一流通を命じていたことが一つの原因です。また、藩内の商人が藩際輸出の代価として「大阪で得た銀貨建て純益を領国に持ち帰るに際して、わざわざ銭貨に交換しているのである。このような行動を有力な商家の多くがとった結果、西日本所在の大名領国においては銀貨に代わって銭貨が大量に流入したと考えられる」「商家が大阪との領外取引で得た銀貨を領国に持ち帰るとともに資産として蓄積していた場合、領国大名政府の命令により価値変動の大きい藩札との引換を強制されるおそれが強いため、財産保全を狙いとして銭貨が選好されたと考えられるのである」といった事情があったからなのだそうです。金銀貨よりもましだとはいっても銭貨も幕府貨幣の一種ですから、領国内で充分な量を流通させるにはやはり藩際貿易の黒字が必要になるような気がしますがどうなんでしょう。それとも、銭貨は各藩でも幕府の許可を得て鋳造していたこともあって、ずっと輸入しやすかったからなんでしょうか。
幕末期、藩札が濫発され価値が大きく下落した・通貨インフレをもたらしたという通説があります。たしかに、濫発によって価値を大きく下げた藩札もありますが、明治にいたるまで「慎重な発行姿勢を堅持していた藩や特産物を有する藩が発行した藩札の交換価格は高」かったのだそうです。著者は「第6章 幕末期、藩札は濫発されたのか」で藩札濫発論について統計と経済理論とから論じています。「幕府貨幣の発行急増、銀相場の大幅な下落および輸出品価格の高騰に加え、凶作・社会不安などを主因として幕末にかけてインフレが高進し、名目取引高が大きく膨らんで貨幣に対する名目的な需要が増大した。その結果として、貨幣の円滑な供給を目指して藩札の発行も急増したのである。この点に関連して、藩札の増発により領国内での物価が上昇したと主張されることが多いが、この議論は経済理論的にみた場合、正しくない。物価の上昇・下落とはあくまでも日本経済全体としての一般物価の上昇・下落といったマクロ経済面での事象のことをいい、領内で物価が上昇したのは幕府貨幣の発行増大に伴い日本全国においてインフレが高進したからである。その際、とくに留意する必要があるのは、一般物価の変動に関連する貨幣総量は、藩札発行高ではなく、徳川幕府が鋳造した金銀銭貨の市中在高であるという経済理論からの帰結である」とのことです。藩札はその藩の領域内でしか流通しませんから、ある藩で藩札が濫発されて価値を下落させたとしても、それが日本全国の物価にすぐに影響するわけではなく、日本のインフレの原因としては幕府貨幣の流通量の方に着目しなければなりません。
また幕末期に藩札の発行量が増加した証拠は確かにありますが、「藩札の増発がインフレを誘発したのではなく、万延の改鋳以降に採用されたインフレ政策や開港に伴う財物の需給バランス変化に起因する輸出品価格の高騰が、藩札発行を増大させたのである」と著者は指摘しています。インフレに対応して取引での支払いを順調に行うには、藩札の増加が必要になったというわけです。
さらに、幕末期の各藩財政の悪化に対応して、赤字補填目的で藩札が増発されたという通説に対しても、「藩札は、領国大名政府による財政赤字の補填手段にはなりえない。領国経済における貯蓄投資バランスを考えると、財政赤字の裏側には領外への現金支払いの増大があることがわかる。実際、領国大名政府の財政を圧迫したのは、参勤交代に伴う江戸詰め費用、海岸防衛費用など、最終的には全国に通用する金銀貨で支払わなければならない負担であり、領内でしか通用しない藩札の増発ではそうした支出を賄うことはできない。それゆえ、財政に窮した領国大名の多くは、大阪の有力両替商や地元の豪商からの借入れ(いわゆる大名貸し)で財政赤字を賄っていたのであり、こうした借入れ自体、仮に藩札発行により財政赤字を埋め合わせることが可能であれば、そもそも発生し得ないものである」と説明されています。藩札は藩内での支払いに使えますから、赤字補填目的での発行が不可能というのは言い過ぎでしょうが、藩際取引を決裁するための正貨としての使用が不可能なのは著者のおっしゃるとおりですね。
第7章では藩札の整理について解説されています。「一般庶民や商人が保有する旧銭貨および銭貨建ての藩札債権は鉄一文銭を基準として新貨に換算されたため、2~3割の減額を強いられることにに」りました。しかし、鉄一文銭自体は新貨との交換に際して藩札よりもさらに28%ほど低く評価されることになったので藩札整理に対する不満が相対的に生じにくい事情がありました。また「 廃藩置県に伴い藩札を発行していた藩が廃止されたため、当該債権の早期回収を図るには、維新政府が提示した2~3割の減額を受け入れる方が得策と判断のうえ、一般庶民や商人の多くが藩札整理にも積極的に応じたと考えられるのである」とのことで、比較的順調に藩札整理も実施されたのだそうです。