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2011年12月31日土曜日

環境から解く古代中国

原宗子著
大修館書店 あじあブックス065
初版第一刷 2009年7月1日
象形文字の「象」が示すように、古代の中国には象が住んでいました。森の中の動物は殷の王の狩猟の対象となり、あたりでは稲作も行われていたのだそうです。しかし、それとは対照的に、現在の黄土高原は黄砂をとばし、黄河を黄色く染め、断流もしばしばの状況です。こういった変化がどうして起きたのか。気候の変化とそれに対する農業などの産業の対応を、殷代から明代までの史料からさまざまな興味深いエピソードを示しながら説明してくれる本でした。たとえば、
ファンの多い『三国志演義』に描かれた「三国鼎立」の状況から、曹操が最終的に抜け出したように見えるのも。実のところ、曹操の軍団には「寒さに慣れた人々」が多く参加したことがポイントだったように思われます」黄河の凍結がおこるなど、三国時代が最も年平均気温が低かった。 
やがて温暖期を迎えた環境条件の下、唐代の国際交流ーシルクロード交易は盛んになりました。中央アジア地帯への雪解け水の流入量が温暖化によって増したようで、オアシス都市を結ぶ隊商の活動も活発化したと考えられます。
こういったエピソードに示されるように、温暖化、寒冷化という気候の変化は大きな影響を持っていたようです。中国では王朝の交替がいくつも行われましたが、王朝の衰退の原因としてこういった気候の変化があったのだろうと感じます。また、乾燥した中国の内陸部では灌漑すれば農業生産に利するとばかりは言えず、畑作灌漑が耕地のアルカリ化をもたらすことも指摘されていて、勉強になります。それに対して、中国のことではありませんが、
稲作は、イワシや貝、アラメなどの海草類、といった海の所産によって何百年も支えられてきたのです。これらは、人が食料として摂取するだけでなく、限られた土地で連作を続ければやがて収穫率の落ちてゆく穀物生産を継続するのに不可欠な、肥料として使われてきました。貝塚を残した縄文人以来、基本的に牧畜をしないで、主たる蛋白質源は海産物だったのですから、人糞尿だってエコロジカルに考えれば日本では海の所産です。
と書かれています。海草や干鰯、鯡粕が肥料として使われたことは周知のことですが、物質循環にまで目を向ければ、たしかに人糞尿も海の所産といえそうで目から鱗の指摘です。日本はエコロジカルには有利な位置にあるわけですね。それに対して海の恵みを期待できない内陸中国で地力維持の役割を果たしていたものについては
養蚕の産業廃棄物ー蚕矢の耕地への投下は、穀物生産による地力減退から、何とか華北の大地を救ったのです。絹はいうまでもなく、前近代屈指の「世界商品」でしたが、中国から輸出される絹の生産こそ、中国の大地を沙漠化から護ったものでもあったのです。
と書かれていました。シルクロードを通して輸出される絹製品は主に山西省あたりで製造されていて、その原料を製造する養蚕業の廃棄物が山西省の農地の維持に役立っていたこと。時代が移って明代になると西域を支配することができず、絹製品の輸出は海路が主になり、絹織物業やその原料を生産する養蚕業も沿海部に移動してしまったこと。絹織物業養蚕業の衰退した山西・陜西地方では、桑の木が減って表土飛散・水土流出をもたらし、養蚕業の廃棄物が投入されることがなくなった農地は有機物を失い団粒構造をとらない荒れ地となったこと。したがって、黄土高原の森林喪失は明代に始まるというのが著者の説明でした。
これまでこういう説を知らなかったのでとても勉強になります。ただ疑問に感じる点もあります。蚕矢は有機物を耕地に供給する意味だけで、さなぎという形で窒素肥料を供給するという意味がなかったのかという点がひとつ。また、養蚕業自体の持続性はどう保証されていたのかということです。養蚕業は桑の葉に含まれるタンパク質・アミノ酸を、蚕に絹糸タンパク質という形に変換・濃縮させ、生糸・絹織物の原料の繭を生産する産業です。桑の木は土壌に窒素が供給されなければアミノ酸・タンパク質を豊富に含んだ葉っぱをつけることができないと思います。稲妻で合成された窒素酸化物が雨に溶けて降ってきたものだけが原料で充分だったのか、それとも放牧した動物の糞などもつかっていたのか。物質循環はどうだったのかというあたりです。
あと、本書の扱っている範囲からは外れますが、長江流域から華南にかけての地域には農地の持続可能性に支障はなかったのでしょうか。日本と同様に降水量が多く湿潤なので、木を伐っても自然とまた生えてくるし、農地が荒廃するような条件もなかったということでいいのでしょうか。宋代以降の中国は長江流域から華南にかけての産業に依存していたのだと思うので、この点も気になりました。

2011年12月29日木曜日

律令制研究入門

大津透編著
名著刊行会
2011年12月19日 第1版第1刷発行
2010年に発行された東方学会の英文紀要が律令制の比較研究を特集していて、そこにおさめられた4本の概括的論文が本書の元となったそうです。本書の第一部はその4本の論文、第二部には律令の各論についての論文4本、そして第三部には編者による律令制の研究史のまとめなどが収められています。
一読してみて、本書が「律令制研究入門」で「律令制入門」でないという印象を受けました。特に具体的な領域を扱った第二部の論文は、古代の日本についての知識をある程度もっていることが前提として書かれています。また、論証のために引用されている条文には、返り点が付されていますが、読み下し文はありません。読み下し文がないと、私の場合はかなりゆっくりと確認しながらでないと読めませんでした。でもどの論文も論旨は明解なのでなんとか理解できたかなと思います。
第一部は外国人向けに日本の律令制の実態を紹介する論文なので分かりやすいし、第三部の研究史のまとめともあわせて、専門的な知識がない私には基礎的な事項がとても勉強になりました。たとえば、
  • 日本が律令法典を編纂し、体系的な律令制の摂取が可能であったのは、唐朝の冊封を受けていなかったことが大きかった
  • 天武・持統朝における律令法典の編纂、律令制の体系的摂取とは、主に唐朝との軍事的な緊張関係による軍国体制形成のためになされた
  • 792年、桓武天皇は返要の地を除き、軍団兵士制すなわち徴兵制度を廃止した。これ以降、編戸制・班田制・租庸調制といった諸制度が次第に衰退してゆくことになるが、それは社会変動のためだけではなく、何よりも軍国体制の放棄によって徴兵制度に深く結びついていた諸制度を維持する必要性が失われたことも大きい
  • 北朝隋唐の均田制は、大土地所有を制限する限田制的要素と公民一人一人に一定額を支給する屯田制的要素とを持っていて、熟田だけでなく、未墾地や園宅地も含めて規制し、荒廃と開墾の繰り返しである現実の再生産過程を包括的に規制できる弾力的な制度であり、給田額正丁一人百畝の応受田額は理想ないし上限であり、均田制は一種のフィクションを内包していて、実際に全額支給されるわけではなかった。それに対して日本の班田制は、屯田制的要素だけを受け継ぎ、男一人二段の規定は全員に現実に支給する額なのであり、熟田だけを集中的・包括的に規制する制度である。園宅地も未墾地も律令国家の規制の埒外に放置されていた
などなどです。第三部の最後には「北宋天聖令の公刊とその意義」が載せられています。唐令は散逸していて日本令などからの復元研究が日本人の手で行われていました。しかし1999年に寧波の天一閣で唐令の情報を豊富に含んだ北宋の令の写本がみつかった(世紀の大発見)のだそうです。これまでの研究とあわせて唐令の復元や日本令の散逸した部分の復元や日本に特有な部分の研究がさらに進む可能性が示されていて、面白く読めました。

2011年12月24日土曜日

湾岸戦争大戦車戦 上・下

河津 幸英著
イカロス出版
2011年7月10日発行(上下巻とも)


もうこの湾岸戦争も20年以上前のことになります。当時、GPSという高度な装置の存在を知らされたり、テレビで誘導爆弾の命中する映像をみせられたりなどして、ハイテクを利用した戦闘でアメリカ軍がイラク軍に圧勝したという印象を受けました。でも本当のところはどうだったのか、著者は本書で、アメリカの公刊戦史や当事者の回想録などを資料に、上下巻合計で750ページ以上を費やし、アメリカ(多国籍軍)に勝利をもたらしたハイテク装備、兵站、部隊の練度・士気と、それらを利用した作戦、実際の戦闘の模様が多数の図・写真とともに解説してくれています。例えば、各戦闘に参加した部隊の編成を示すのに、M1A1が何輛、M3が何輛と文字で記すのではなく、M1A1のアイコンを編成に含まれている数だけ並べて図示するなど。そういう表現は近年のビジュアルな雑誌・ムックで多用されていますが、本書は雑誌に連載された記事をまとめたものなのだそうです。 背景説明や機動・戦闘の様子を示す地図もたくさん載せられていました。そんな本書を読んでの感想は以下の通り。
イラクは多数の東側兵器をもつ世界的にも有力な陸軍で、しかもイランとの戦争で実戦経験も豊富で、自信を持ってクエート防衛に兵力を配備しました。対するアメリカは相応の損害を覚悟して、かなり時間をかけて本国とヨーロッパから航空機、ヘリ、多数の戦車・歩兵戦闘車・支援車輛などを多数送り込んで準備しました。しかし実際に戦いが始まってみるとアメリカ軍の圧勝で、装備の質の差が大きく影響したようです。たとえば、イラク軍の主力戦車T-72は装甲防御でも徹甲弾の貫徹力でもアメリカのM1A1に大きく劣り、特にサーマルサイトによる暗視能力に大きな差があることもあって、遠距離から知らないうちに撃破されてしまうことがほとんどだったそうです。それにしても、装備の質の差は織り込み済みだったはずのプロの軍人どうしの予想が実際と大きくかけ離れてしまった理由は、本書を読んでも腑に落ちません。アメリカの軍人は大げさに考え、イラクの軍人は自軍の能力を過信していたというだけのことなのでしょうか。本書は丁寧に書かれていますが、史料の欠如からかイラク軍側の様子がほとんど触れられていません。その結果、アメリカ軍の圧勝だったという記憶を確認してくれただけという印象は否めません。とても本書の帯にあるような7000両の戦車が「激突」なんていう風には読めませんでした。

捕虜になることを希望して投降する者が多数出現して対応に困るほどだったそうですが、イラク軍兵士の士気はどんなものだったのか。イラク軍兵士の捕虜と戦死者の比率は推定戦死者数2万5千人に対して捕虜が8万6千人あまりだったそうですから、当時報道で危惧された不必要な虐殺行為が横行したわけではないようです。また、イランイラク戦争でもこの湾岸戦争でもフセイン大統領がヒトラーのように独裁者として振る舞い、陸軍の将校は積極性・自発性を発揮できなかったことも大敗の原因としてあげられていました。それなら、もっと士気の高い兵士がもっと能力の高い将校の指揮を受けて守っていればアメリカ軍の被害はもっとずっと増えたと言えるのか、その点についてはもっと突っ込んで解説してほしかったところです。

また湾岸戦争が、イラクの装備していた東側の兵器に対する評価を大きく下げたことは確かだと思われます。それら兵器を生産・装備するロシアや中国に与えた影響はどんなものなのでしょう。その後の20年で、アメリカの兵器に匹敵するようなものに更新してしまって、もう影響は残っていないのでしょうか。


さらに、本書を読んでいると、誤射誤爆同士討ちで少なからぬアメリカ軍人が損害を受けています。アメリカ(イギリスも)の戦死傷者の原因はイラク軍によるものと比較して誤射誤爆によるものがかなり多く、アメリカの戦死者の四分の一は同士討ちだったと述べられていました。両軍の武器にハイテクで格段の差があった湾岸戦争でこの結果ですから、もしかすると第二次大戦などでも誤射誤爆による死傷は無視できない数だったのかも知れないと感じました。

2011年12月18日日曜日

江戸城 本丸御殿と幕府政治

深井 雅海著
中公新書1945
2010年5月30日 5版
江戸時代の大名を類別する際に一般的に用いられるのは、将軍との親疎関係により親藩・譜代・外様の三つに分ける方法である。しかし、江戸幕府が大名をこのように分けた史実はなく、大名の家格としては存在しなかったのである
では史実ではどうなっていたのかというと、武鑑の毛利家の項を例に、江戸城に登城した際の控えの間=出席する大名たちの殿席と官位によって大名が類別し統制されていたと述べられています。大広間詰とか帝鑑之間といった言葉については知っていたので、本書もそういった説明で終わる本なのかなと思って読んでいくとそうではありません。江戸城の本丸御殿の絵図が示され、大広間や帝鑑之間といった部屋の大きさがどのくらいでどこにあり、将軍のいる奥との距離はどうかといったことが図示されていて、幕府の大名に対する扱いが客観的かつ具体的に理解できます。
また、老中の執務室である御用部屋とが時期によって変遷し将軍のいる奥から離れていったこと、老中が出勤して執務室に歩いてゆくルート、老中が執務時間中に部下たちの勤務場所を歩いてまわる「廻り」を毎日行って情報交換をしていたことなどが絵図上に示されています。老中・若年寄を表の長官・副長官とし、奥右筆を政務秘書官と呼んでいることともあわせて、理解しやすく工夫されています。
このように、江戸幕府の政治の仕組みとその動き方を54のテーマにわけて、表と奥と大奥に分かれた江戸城本丸御殿の構造・部屋割り、幕府の各部署に所属した人の数・出身・在職期間といった客観的な証拠から、説明している本でした。 本書には以前に読んだことのある旧事諮問録からもいくつか引用されていますが、本丸御殿の内部が示されているだけに一層理解が深まります。本書には本丸御殿と幕府政治というサブタイトルが付されていますが、まったくそれにふさわしく、しかも斬新な内容の本で、とても感心させられました。本書の方法は、例えば発掘された平城宮などの構造から朝政・朝儀の様子を考えたり、日記や記録類に加えて内裏の建物や部屋の配置図を平安時代の政治活動を理解に役立てたりすることと、似ている感じですね。現在でも、国会や地方議会の議事堂の内部構造には似ている点が多いし、裁判所の法廷も類型化されているので、そういった材料から、政治活動や裁判の実際の進められ方を論じることもできそうです。

その素晴らしい本書ですが、収録されている図版が小さくて説明に付されている文字が小さくて読みにくいという点だけが欠点です。収録されている図版は著者の他の著作などに収められていて、それらはもっと判型の大きなものだったのでしょう。新書版の小さなスペースに収まるように図が縮小されたので、文字も小さくなってしまったものと思われます。あらためて本文の文字と同じくらいの大きさで説明を入れ直してくれている図もあるのですが、 老眼の私が近視用の眼鏡をはずして、ようやく文字を読み取れるという図版がいくつもありました。
「小姓」が本書の中では「小性」と書かれています。「小性」と書くこともあるとは知りませんでした。そんなことも学べます。

2011年12月17日土曜日

読書雑志

吉川忠夫著
岩波書店
2010年1月27日 第1刷発行
中国の史書と宗教をめぐる十二章というサブタイトルがついていますが、その通りに、史記、漢書、三國志、高僧伝など中国の仏教、道教に関する書物とそれをめぐるエピソードを紹介した文章が集められています。あとがきで著者は「一般の読者を対象として執筆した文章」が集められているとしています。たしかに、それぞれの章で対象としている書物、その章に登場する人物やその時代背景などがもれなく説明され、また対象の書物からの引用も、白文ではなく読み下し文になっています。なので、門外漢にも一通りは見通しがつくようになっていました。ただ、とても面白いと感じて読むには、中国史・漢籍についてのある一定の基礎知識が必要のようです。勉強が足りないのか興味の方向が違うのか。 少なくとも現在の私は著者のいう「一般の読者」の域には達していないことが分かりました。残念。

2011年12月14日水曜日

Pacific Express

William L. McGee編著
BMC Publications
2009年発行
本書はAmphibious Operations in the South Pacific in WWIIという三部作の第3巻です。第1巻は上陸用舟艇について、第2巻はソロモンキャンペーンを扱っていますが、この第3巻はロジスティックの重要性について扱っています。
著者は徴兵適齢以前に、溶接工としてリバティ船の建造に従事し、その後、Naval Arms Guardの一員としてガダルカナルへの輸送船に乗り込みました。著者の乗り組んだ船団はガダルカナルで日本海軍の空襲を受け、著者も持ち場の20mm対空機銃で応戦しましたが、僚艦のLSTとAKが沈没しました。また帰路では潜水艦の雷撃でやはり僚艦のAKとDEが沈没するという経験をしていて、本書の中でもこの体験がなまなましく綴られています。また、ガダルカナルは高齢者にはきつい、ガダルカナルとツラギ基地の初代司令官は54歳だったが肺炎で後送され、2代目も50歳で障害を負って帰国したことなど初めて知りました。さて、その著者がこの第3巻で取りあげた主なテーマは
  • 開戦前の標準船の計画から、リバティ船・ビクトリー船をはじめとした戦時の急速建造とその実施主体となったMaritime Comission
  • 港湾・兵站・支援機能の乏しい南太平洋地域での作戦を可能とした支援艦艇
  • Seabeaの沿革、編成、ソロモンキャンペーンでの建設・港湾荷役任務での活躍
  • 急速に拡張されたアメリカ商船隊。不足する商船を陸軍・海軍・レンドリース・民間貿易に振り分けたWar Shipping Administration
  • 商船の防衛用の砲・機銃を扱うNaval Arms Guardの活躍
  • 大戦中に拡張されたアメリカ陸軍の船隊
などです。こういったテーマについては戦争中から戦後60年のあいだに語り尽くされている感もあります。ですので、本書におさめられている文章は著者があらたに書き下ろしたものではなく、アメリカの政府文書やこれまでに書かれた戦史から抜粋してきたものです。重要性の高い史料から選ばれたものだけに、私のような外国の門外漢にとってもとても勉強になりました。
例えば、戦前に策定した標準船を大量建造したかったのですが、タービン、ギアなどの供給が海軍艦艇優先政策で不足し、商船には入手可能なレシプロ機関を載せたので、速度の遅いリバティ船で我慢しなければならなくなりました。設計に時間の余裕がなく、石炭炊きを重油炊きに、船橋を一つになどの変更はされましたが リバティ船はイギリスの設計に準拠したものだったのだそうです。また、現在の眼で見るとアメリカ西海岸は東海岸に劣らないように見えるのですが、当時の工業施設の分布はそうではありませんでした。伝統ある造船会社は北東部に集中し、そこでは海軍艦艇の建造が優先されました。商船は新たに船台を設けて建造することになりましたが、人手や資材の供給を容易にするために、西海岸に多くの新造船所が設けられました。船台の増設は比較的容易だったので開戦後も造船計画は次々と拡張され、最終的には鋼板の供給がネックとなりました。鋼板不足で手空きの造船所が生じたことと、戦争目的と終戦後の利用を考えてもっと速い貨物船が望まれていたこともあり、リバティ船より速度も速くましなビクトリー船が建造されるようになりました。
戦前には、開戦後の輸送船には海軍が乗組員を提供して、陸軍部隊や資材を輸送する予定でした。しかし、開戦前からの海軍艦艇の新造で乗組員が不足し、計画は破綻しました。さらに陸軍が陸軍の計画にそった配船・輸送を希望したことや、新造船の配分などで陸海軍の合意がなかなかできず、 希少な資源である輸送船を有効活用するために、大統領の命令でWar Shipping Administrationがつくられたのだそうです。アメリカ陸軍は、輸送船・上陸用舟艇・タンカー・哨戒艇・タグボート、雑役船など多数の船舶を所有・運用することになりました。もちろん、海軍艦艇に比較すると小さな船ですが、隻数としては海軍の艦艇数を大幅に上回っていたのだそうです。
戦争中に1000総トン以上のアメリカの商船733隻が撃沈され、6700名の船員が死亡、670名が捕虜となったと書かれていました。日本の船員は6万名ほどが亡くなったのだそうで、10倍ちかい差があります。商船隊の規模を考慮すれば、その差はもっと大きいはず。こんな風に、造船でも護衛でも、アメリカが日本に比較してずっと贅沢な状態だったのは確かですが、日本と似た事情があったということも本書から学んだ点です。予算の面から日本海軍が戦闘艦艇優先で建造しなければなりませんでしたが、アメリカ海軍も1925年から1940年までに駆逐艦・巡洋艦・空母の数を倍増させましたが、補助艦艇の数は同じままでした。1940年の両洋艦隊法で新造の決定した125隻の戦闘艦に対し、補助艦艇は12隻だけだったのだそうです。また、機関の調達問題から性能の劣るリバティ船を建造しなければならなかったことは日本の第二次戦時標準船と似ていますよね。さらに「空母」まで所有したと揶揄される日本陸軍ですが、アメリカ陸軍も多数の船舶を所有していたということを知り驚きました。陸海軍と民需とで乏しい船舶をとりあっていた日本ですが、はるかに大きな商船隊をもつアメリカでも決して運用に余裕があると感じてはいなかったことが分かります。全体的にやさしい英語で書かれていますし、この分野の基本的な知識を得るためには悪くない本だと思いました。

2011年12月3日土曜日

贈与の歴史学

桜井英治著
中公新書2139
21011年11月25日発行
「おわりに」で著者は「本書における叙述の大半は中世後期、とりわけ15世紀の約百年間に集中することになった」こと、またその理由を「贈与が日本史上もっとも異様な発達をみせた時代だから」と書いています。たしかに本書に載せられている興味深いエピソードの多くはその時代のものなのですが、神に対する贈与が税に転化していった例として、初穂から租、調へが書かれているように、中世以前のかなり広い範囲にわたって目が配られています。また、本書は細々と多数の史料を並べて実証しなければならない専門誌や専門書の論文とは違いますから、わずか200ページあまりの中に興味深いエピソードと論点が本当にたくさん取りあげられています。800円でこれだけ内容の濃いものが読める本書はとてもお得だと思います。
例えば、 本書の帯にも書かれているエピソードですが、 貞成親王から送られた八朔の返礼を、後小松天皇は翌年にしたり二年分まとめて贈ったりしていました。その後小松天皇が重病になり死の近いことを自覚した10月に、当年の八朔の返礼を2ヶ月目という早い時期に自筆の書状とともに送ったのだそうです。借りを残さずきれいにしてから死にたいということだったんでしょう。このエピソードは貞成親王の看聞日記に書かれていたから分かったことです。おそらく史料がなくて究明不能でしょうが、後小松天皇が死を前にしてしたこと、他にも整理したことがなかったのか気になってしまいます。
また、土地をokoすことは土地にikiを吹き込むことだとむかしむかし講義で聴いたような記憶があって、徳政の起源に土地と本主の一体観念、復活・再生をみる学説が一般的なのだと思っていました。でも本書の中には「有徳思想にもとづいて有徳人に窮民救済という公共的機能を履行させたところに徳政の本質があった」という学説が紹介されていて、動産の取り戻しはこちらの方がうまく説明できるとのことで、勉強になります。
時間の経過とともに信用経済は深化してゆくものだとばかり思っていたので、 15世紀末から16世紀初頭に中世の信用経済が崩壊して割符が流通しなくなることは以前から不思議に感じていました。これは文書主義が蔓延し経済関係・人間関係までも証文化して譲渡可能にしていた職の体制の時代が終わったことと関連付けて理解すればいいわけですね。
贈与という行為に対する中世の人の考え方の多くは21世紀に生きる私にも理解可能だなと感じる点が少なくなかったのですが、へぇーっと感心する点はほかにもたくさん載せられています。
不用意な贈与が先例となり税・手数料と化すことがあるので先例化の回避がこころみられたこと
定例化して手数料のようになった贈与=役得は受け取りを遠慮しないことが望まれた。一旦執務の人である現職が、職に伴う役得を受け取らないと、次ぎにその職に就く人たちも受け取れなくなる不利に被るので
贈答品の流用・換金が当たり前で、贈与の相殺がなされていたこと
銭が贈答に用いられれるようになり、金額を記した折り紙を贈られ、銭そのものは後日送られた。銭の送付が遅くなると催促されるようにもなったこと
などなど、贈答が幕府・朝廷の財政に果たした役割や、貴族や寺社や武士の間の贈答の実際など、ほかにもいっぱい。ほんとに内容の濃い本でした。

2011年12月2日金曜日

帝国海軍の最後

原為一著
河出書房新社
2011年7月30日 復刻新版初版発行
本書の帯には「アメリカ、フランス、イタリアで翻訳されベストセラーとなった名戦記が待望の復刊!」と書かれています。それは単なる謳い文句というわけではないようで、私が本書の存在を知ったのも、アメリカのとあるウォーシミュレーションゲームのフォーラムで、推薦図書の一冊として挙げられていたからです。それを知った当時、日本では絶版になっていたのですが、この夏、日米双方で復刊されたようです。
著者は天津風の駆逐艦長として開戦を迎え、南方攻略作戦、ミッドウエイ作戦、ソロモンキャンペーンに参加しました。ソロモン戦の途中で第27駆逐隊司令に昇進して引き続き多数の輸送任務に従事し、また海戦でも活躍しました。その後、本土の水上特攻隊の司令として過ごした後、巡洋艦矢矧の艦長として戦艦大和の沖縄特攻の護衛を行い、最後は撃沈されました。この沖縄特攻では出撃前から死を覚悟せざるを得なかったでしょうが、さらに漂流という本当に死を予感させる体験もして生還した方なのですね。アメリカで本書が出版された理由のひとつは、ソロモンキャンペーンの戦闘に何度も参加し、しかも大和特攻も体験したという著者の経歴があるからなのでしょう。


本書を一読してみての私の感想ですが、「名著」とは言い難いところ。 当事者が書いた作品ではあっても一次史料ではない本書は、読者をひきつける魅力・おもしろさという点でも弱点があります。この戦争も70年近く前の出来事になってしまったわけで、興味深く読める作品をということであれば、本書自体を手に取るより、一次史料と本書のような当事者の著作などをもとにして読みやすくまとめた作家・ライターの作品を手に取るべきだと感じます。
本書の初版は1955年で、戦後しばらくしてから書かれたことが本書の記述からも明らかです。また152ページの記述から著者が従軍中ノートをつけていたことも分かり、そのノートを元に本書は書かれたのでしょう。しかし、そのノートがどれだけ詳しいものだったのか、少なくとも本書が臨場感あふれる作品に仕上がっているとは言えません。また戦後しばらくしての著作なのに、事実関係にも問題がないわけではないようです。
例えば、96ページから記載のあるコロンバンガラ輸送作戦。一般にはベラ湾夜戦(Battle of Vella Gulf)と呼ばれているそうです。この海戦で著者座乗の駆逐艦時雨は敵艦に魚雷を一発命中させたと記してあります。海戦後のアメリカの戦果の発表について「比較的正しく発表し」と評価しながら、時雨の与えた魚雷の被害についての発表がないことを「自国の損害一隻を忘れたのは、双方ともにありがちなことであろう」としています。実際には対戦したアメリカの駆逐艦には被害がありませんでしたが、著者は「その後の調査によれば、ムースブラッガー中佐指揮する駆逐艦六隻であった」としているだけで、アメリカ側の被害の有無についてはそれ以上触れていません。本書のアメリカでの評価が高いということですから、もしかすると英訳本ではこういうあたりには注がついていたりするのかもしれませんが。
しかし、当事者ならではの経験談、感想が多数載せられていて、勉強になります。例えば、比叡などが撃沈された第三次ソロモン海戦に天津風も参加し、アメリカの巡洋艦に魚雷を命中する戦果を与えましたが、舵が故障して落伍してしまいました。翌日ようやく追いついたところ「貴艦はいまのいままで沈没となっていた。生還おめでとう」と手旗信号で返されたそうで、乱戦というのはこういう状況になるわけですね。また、第二次ベララベラ海戦のところには「すぐに追いつきたいが、艦底の汚れた時雨、五月雨は30ノット以上の速力はでない」と書かれてあって、駆逐艦を入渠整備させる余裕のなかった日本海軍の実情が判明。さらに、舵や探針儀にも不調が出現した時雨はラバウルから本土へ入渠整備のために向かうことになります。ついでに輸送船2隻を護衛する任務を与えられたのですが、一隻の輸送船は魚雷を命中させられてしまいました。。探深儀が不調ということはあったかもしれませんが敵潜水艦の所在が分からず「消えかかった魚雷の航跡をたどり、発射の起点と思われる付近に、いきなり爆雷六個をたたき込んだ。しかしその効果は不明であった」と書かれているあたりに、日本海軍の対潜戦のレベルがにじみ出ています。

2011年11月30日水曜日

李鴻章

岡本隆司著
岩波新書 新赤版1340
2011年11月18日 第1刷発行
むかし、同じ著者の近代中国と海関という本を読んだことがあります。もちろん海関に関して史料を示して論証した本なのですが、素人の私は実証的な部分よりも、清朝側の交易取引と関税徴収を一体化して牙行という商人に任せる仕組みが西洋諸国からは特権商人による独占・桎梏と受け取られたこと、清朝の認識としては洋関(海関)・関税と内地関・厘金が大きくは違っていなかったこと、貿易量の拡大に伴って必要な資金が増えて牙行→保商制度+外洋行→外国商社+買弁という体制へ変化し、それにともない広東にとってかわって上海が成長したこと、外国人の総税務司がお互いに都合が良かった点、などが分かりやすく説明されている点に関心しました。西洋諸国(と西洋諸国の流儀になじんだ現代人である私)が不思議に感じた清朝の制度と、その不思議が解消されることになった経緯を、素人にもわかりやすく整理する手際が非常に鮮やかで、この人はとても頭が切れる人だろうなと思ったのです。本書はその著者によるものですから、単に李鴻章を紹介するだけにはとどまらず、対外関係に影響されて変化する清朝中国の様子が、李鴻章を軸にすっきりと整理されています。以下、ざっと学んだ点をまとめます。
清朝盛時にも治安・取引・財産などを保証する政府サービスの提供は不十分で、かわりに中間団体が自ら秩序を維持するようになりました。社会矛盾が反乱に結びつき、多数の武装した中間団体が反政府運動に組すると正規軍だけでは鎮圧できません。政府側もこれら中間団体を団練(地方民兵制度)として組織し、反乱軍に対抗させました。その有力なものが曾国藩の湘軍と、李鴻章が郷里で組織した淮軍でした。 李鴻章は科挙に合格して進士になった後、曾国藩に師事することがあって、南京付近で湘軍が太平天国軍と戦闘している最中に、危機の迫った上海に曾国藩の推薦で派遣されたのが淮軍でした。李鴻章はここでの勝利で頭角をあらわし、豊かな江南デルタをおさえ軍事力をバックに、外国からも交渉の相手として選択される存在になったわけです。その後、直隷省を脅かした捻軍の反乱も処理してさらに名声は高まり、天津教案を機に李鴻章は北洋大臣に任命されました。
朝貢する自主の属国という存在は西洋諸国の条約体制にはそぐわず、問題が起きましたが、新疆はロシアとの条約で確保でき、ベトナムはフランスとの条約で名を保つことができました。しかし琉球・台湾・朝鮮を窺う日本は相も変わらず倭冦であり脅威であると、北洋大臣の李鴻章は考えていたようです。本書では日本と清朝の間の紛争が、他の西洋諸国との問題と並べられ見通しよく整理されていて、勉強になります。
日清修好条規は日本側の用意した不平等条約の案を退けて、李鴻章麾下の馬建忠の草案にしたがって結ばれました。この条約は両国の所属邦土の尊重を謳い、清朝としては単なる不可侵条約ではなく清朝の朝貢国朝鮮や琉球の保全を保証するものと考えていました。しかし、化外を言質にとっての台湾出兵やその後の琉球処分など、日本には清朝の所属邦土(属国)に朝鮮・琉球が含まれるとの認識はありませんでした。ドイツから定遠・鎮遠を購入し、日本へのデモンストレーションの航海では大いに日本人を恐れさせましたが、西洋からの科学技術の導入と軍事力強化による国防に清朝内部の方針が統一されていたわけではありません。李鴻章は自らの求める洋務・海防が進まない現実に、明治維新以来の君民一体となった日本の西洋化と軍備を脅威に感じ、淮軍や北洋艦隊が日本に劣ると判断していたのだそうです。したがって日本とは戦わずに済ます途を求め、特に壬午事変に際しての出兵と速やかな撤兵による事件収拾は鮮やかで、朝鮮をめぐる日本との関係は小康状態が続きました。しかし甲午農民戦争への出兵は対抗する日本の出兵を招き、これが日清戦争につながりました。本書では戦争に至ったこの経緯を李鴻章生涯最大の失策と評価しています。日清戦争後、日本対策として三国干渉を働きかけ、露清同盟を結んで東三省にロシアの勢力を引き込むことになりましたが、振り返ればこれがその後の東アジアの歴史に大きく影響することになった訳です。晩年、完全に失脚したわけではなかった李鴻章は義和団事件の際の東南互保を支持ましたが、その後、中央政府から列強との講和交渉を委ねられて北京議定書を結び、1901年に死去したのでした。
外国との関係から洋務の必要性を痛感しながら、国内事情のために全きを得なかった悲劇の政治家、しかも悲劇をもたらした主役の一人は日本だったという印象で読み終えましたが、それを予告するように、本書の巻頭は下関での遭難から始められています。巻末には、年譜と並んで、参考文献についてという節が付録していて、李鴻章の全集2つと日録1つ(いずれも中国語)、それに日本語の文献4つが紹介されています。著者の主に紹介したかった文献が中国語という点に、李鴻章に対する日本の関心度と著者の意図と両方が見えるような気がしました。

2011年11月26日土曜日

日本書紀成立の真実

森博達著
中央公論新社
2011年11月10日 初版発行
12年前に出版された同じ著者の日本書紀の謎を解く(中公新書1502)を読んだことがあります。日本書紀は中国語で書かれていますが、その中に見られる倭習と呼ばれる単語や語法の誤用や、歌謡の中国語字音による表記の特徴などから、著者は日本書紀をα群とβ群に分け、前者は渡来中国人が二人で分担して、後者は日本人がその後を書き継いだもの、しかもそれぞれを担当した人の名前まで推定されていました。読みながら、筋道の通った謎解きの過程にひどく感心したおぼえがあります。なので、森博達さんの著者が近所の書店の平台に積まれているのを見て、早速購入しました。
本書も前著の延長線上に、江戸時代に懐徳堂の五井蘭洲が日本書紀の漢文の誤用・奇用に気づいていたこと、倭習の源の一つが古代韓国の漢文表記の特徴にあること、誤用・奇用の目立つ部分が中国人の書いた巻にもところどころ集中して存在し日本人による後になっての修飾が想定されることなどがあきらかにされています。そして、乙巳の変の前後に日本人による修飾の多いことから日本書紀編纂の主導者を藤原不比等とし、また彼の急な発病と死により未完成なままの撰上にいたったことが推定されていました。前著と同じく、証拠をきちんと示して論が進められているのでとても説得的だと感じます。説明されてみれば当たり前に感じますが、古代の文語中国語に堪能な著者ならではの議論だと感じました。江戸時代の日本人にも漢文が良くできる人がたくさんいたからおかしな表現は指摘できたのでしょうが、史料批判の考え方の点で今一歩だったんでしょう。
国語学会では著者の説はすでに定説となっているそうです。史学の分野でも日本書紀を材料に論じるためには、著者の説にそのまま従うか、または漢文の知識で著者の説の当否を明らかにしてから議論をする必要があるのは確かですね。読んでいて、一つだけ気になったのは十七条憲法に関してです。著者は
『憲法十七条』は偽作だと私は考えている。拙著『日本書紀の謎を解く』では、憲法から十七項の倭習を掲出した。さらに前稿では、五井蘭洲が憲法の文章に加えた十六項の添削を紹介した。私は、憲法について『文体的にも文法的にも立派な文章』『正挌漢文』と見なす通説を批判したのである。 
憲法には正挌漢文から外れた誤用や奇用が満ちている(A)。憲法の誤用や奇用は、β群に共通する倭習である(B)。私はこれらの事実を総合して、憲法を偽作だと判断したのである。
と、本書の中で述べています。これだけだと、偽作とする論拠が弱いように感じて、前著を読みなおしてみると
以上、憲法から十七例の倭習を摘出した。憲法を『文体的にも文法的にも立派な文章』と見なす通説は誤りである。果たして、憲法は太子の真作なのか。幕末の考証学者、刈谷棭斎の『文教温故批考』は、書記には作者の全文を載せた文章がないことを理由に、憲法を「日本紀作者の潤色」と見なした。私も偽作説に立つ。ただし、棭斎の根拠だけでは薄弱である。憲法の倭習は、その大半が憲法以外の巻二二の本文にも現れていた。巻二二だけではない。β群に一般的な倭習なのである。金石文などに残された推古期遺文や白鳳期遺文にも、倭習の勝った文章がある。しかしそれらは概して、憲法やβ群の文章に比べて古色を帯びているように感じられる。憲法とβ群との倭習の共通性は無視しがたい。憲法の制作年代は、β群の述作年代に近かったのだろう。かなり新しい時代のものと推測される。少なくとも、書記の編纂が開始された天武期以後であると私は考える。
と書かれていました。私も著者の言うとおりに、十七条憲法が聖徳太子の作だとは思いませんし、日本史の研究者の多くも偽作と見なしていると思います。著者は日本書紀の記述の特徴、語法から論じている人なので、十七条憲法偽作説もその観点から実例で論証してほしいなと感じます。特に、著者は誤用・奇用といった特徴から日本書紀αβ両群のそれぞれ複数の筆者を識別したり、風土記の述作者の能力を推し量ろうとしています。十七条憲法の倭習が、推古期にはありえないもので、単に十七条憲法の起草者(聖徳太子??)の書き癖ではないことを示して欲しいのです。例えば、現存する推古朝期の文字史料に見られる倭習は朝鮮半島からの影響が色濃い百済習的な倭習なのに、日本書紀の中の十七条憲法の文章に目立つ倭習は天智・天武期の日本人の書いたものによくみられる倭習なので後になってつくられたものだとかいった具合に。そうでないと、十七条憲法は日本人のつくったものだから、倭習紛々たる文章なのは当然だと主張する人が出てこないとも限らない気がします。

2011年11月25日金曜日

Time Capsuleのファームウェアをバージョン7.6にアップデート

昨夜ふと気づくと、Time Capsuleのステータスランプがゆっくりオレンジに点滅しているのに気づきました。ネットには問題なくつながっていて、ほんとに何気なく見たら点滅していたのです。2008年3月の稼働開始以来、もう3年半以上が経つので、そろそろ寿命なのかなと感じてしまいました。

とりあえず、AirMac ユーティリティでチェックしてみると、「Time Capsule 802.11n(第1世代)が問題を検出していることが報告されました」、「新しいファームウェアバージョンにアップデートする必要があります」とのことです。アップデートのボタンを押すと、Time Capsuleの再起動もあわせて数分で終わりました。でも、Time Capsuleがこうやってファームウェアアップデートの必要をオレンジの点滅で知らせてくれたのは初めての経験です。もしかするとこれまでにも知らせていてくれたのかもしれませんが、気づいたことがありませんでした。
このアップデート7.6では、セキュリティのほかに、重複するワイヤレスネットワークのパフォーマンスに関する問題も解決してくれると書かれています。WiFi機器を利用している人がとても増えているようで、iStumblerというツールでみると、今この時間だけでも17軒のネットワークが検出できます。Logitecが2軒、coregaが3軒、Buffaroが5軒などで、Apple製はうちだけのようです。
まあ、シェアはおいといて、これだけ周囲にWiFiステーションが増えると問題があるのかもしれません。うちでは、夜10時以降くらいになると、Time Capsuleから一番遠い部屋でiPadが接続がぎこちなくなります。もしかすると、これが「重複するワイヤレスネットワークのパフォーマンスに関する問題」なんでしょうか?これまでは、(技術に疎いので、意味のある行為かどうかは不明なまま)周囲で使われてなさそうチャンネルを割り当てて対応していましたが、このアップデートで解消してくれるなら幸いです。

2011年11月23日水曜日

日記で読む日本中世史

元木泰雄・松薗斉編著
ミネルヴァ書房
2011年11月20日初版第1刷発行
以前、編者の一人の松薗斉さんの書いた王朝日記論(2006年、法政大学出版会)を読んだことがあります。日記の家、日記をはじめとした文書・記録類の保管法として文車の利用が紹介されていたり、日記をつけることを止める時、公事への日記の利用の終焉など、かわった視点でまとめられていてとても興味深く読みました。日記という史料は面白いんだなという感想を持ち、同じ方が編者となっている本書が近所の書店で平積みになっていたので、即買ってきました。
本書は、院政期以降の16の日記について記主の略歴とその特徴や面白さを、各日記の研究者が紹介してくれています。材料が豊富な日記という史料の性格もあるのでしょうが、どの章もとても面白く読めました。残念なのは、索引や史料を除いた本文は300ページ弱しかないので、どの日記についてももっと分量があればと感じたことだけです。各章末にはきちんと参考文献が紹介されているので、「もっと」と感じた人はそちらを読んでくださいということなのだと思います。
勉強になった点を紹介すると、たとえば明月記。日本史の分野で史料としてつかわれているのを目にすることが多い日記ですが、文学作品として評論の材料に使われた堀田善衛さんの定家明月記私抄・同続編(ちくま学芸文庫)も面白く読んだ記憶があります。定家明月記私抄で最初に取りあげられているのは、かの有名な「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」です。堀田さんはこの文が治承寿永の内乱に関連したものと考えて著作を続けていますし、私も当然そうに違いないと思っていました。ところが、現存する明月記が後に清書されたものであることから、この文は承久の乱後に承久の乱と絡めて書き加えたものという説があるとのことです。まあ、本書の明月記を担当した筆者はその説には与しないとのことですが、それにしても史料の解釈って難しいし、また新説を提唱した方の柔軟な考え方にも感心しました。
そして、看聞日記。記主の貞成親王は「落ちぶれゆく宮家の皇子(それも嫡子ではない)」と書かれているくらいで、40歳になってようやく元服し、兄の死で46歳で宮家を嗣いで親王になった人です。この人の日記が残ったのは息子さんが後花園天皇になるという僥倖をつかんだからでしょう。この看聞日記については、横井清さんという方の書いた室町時代の一皇族の生涯(講談社学術文庫)を以前読み、文人として生活していた様子や、将軍義教に対する恐怖や、先々帝の意向に逆らって息子から太上天皇の尊号を贈られたたことなど、興味深いエピソードが書かれていました。ただ、一つ腑に落ちなかったのが、貞成親王が40代になるまで出家もせずに部屋住みみたいな身分を続けていたことです。貞成王は琵琶の修行に励んでいて、彼を養育した今出川家が「貞成の音楽に対する『器量』(才能)と『数寄』(関心)」をかっていたからだろうと本書には説明されていて、納得できました。
直筆の日記が残されているものはそれほど多くはなく、また直筆とされる日記でも、後になって清書されたものが多いのだとか。自分のためだけではなく、自家の存続のために行事などを細かく記録したわけで、子孫がさらに利用しやすいように整理して清書したのでしょうね。でも、清書されていない直筆の日記も残されていないわけではないでしょう。例えば、本書の取りあげている日記とは時代がずれますが、御堂関白記を展覧会で目にしたことがあります。きちんと罫線を引き、濃い墨色のしっかりした文字で日付などが記入されている具注暦に、薄い墨色で大胆というかへたくそというか、暦の文字よりずっと読みにくい字で書かれているのが印象的でした。あれは、直筆のままかなと思います。墨は磨ると腐るから長持ちはせず、毎日磨るものですよね。家の召使いではなく、自分でいい加減に磨ったからあんなに墨の色が薄いのかなと感じました。直筆の日記が残っている人については、そのへんがそれぞれどうなっているのかも知りたいものです。その人の性格も分かりそうな記がするので。また、日記はいつ書いたんでしょう。深夜まで行事が続いたりお酒を飲んだりすることも少なくなかったのでしょう、貴族の方々は。記主によっても違うとは思いますが、帰宅してからその日のうちに疲れた体で日記をつけたのか、それとも翌日落ち着いた気持ちでしっかりと墨を磨って書いたのかも気になります。

2011年11月20日日曜日

工場の哲学

中岡哲郎著
平凡社選書2
昭和46年12月25日 第3刷発行
機械化、オートメーション化、コンピュータの利用、流れ作業などで大量生産が可能となった高度成長の時期に書かれた著作です。技術の進歩と大量生産の実現で労働時間の短縮が可能となり、やがては労働の止揚につながると楽観的に考えた人もいた時代だったようで、それに対する異論、新しくなったように見える生産現場にも古くからの問題が残っていることを指摘しているのかなと感じました。日本国内でモノの生産に従事する労働者の数はこの著作の時代に比較すると減ったでしょうが、モノをより安くつくれるとされている中国などに問題ごと生産現場は移動していったわけですから、著者の問題意識は現在にも通じるところがあるのだと思われます。工場での話が主にとりあげられているのですが、市役所の書類発行窓口業務や、コンピュータのソフトウエア製作、病院での外科手術などのサービス業にも目が配られていて、こちらの方は現在の日本にももちろんたくさんあるわけですし、事情が変化しても現在の日本が労働する者の楽園になってないのは確かです。というより、職にありつくことの難しい人が少なくない現在の日本では、本書のテーマよりももっと原初的な、失業、格差・差別の方が問題としては深刻になってしまっている感もありますが。
控えめですが、マルクスの著作からの引用があり、文化大革命期の中国に対する期待が表明されたり、社会主義に優位性が期待されたりなど、この時代の雰囲気を伝えてくれる史料としての意味は充分に感じ取れました。しかし、この頃もまた現在でもこの分野に関する著作に接したこと・接しようとしたことも・考えようとしたこともほぼ皆無の読者なので、内容を咀嚼しての評価が私の能力を超えているのが残念です。

2011年11月18日金曜日

平家物語、史と説話

五味文彦著
平凡社ライブラリー746
2011年10月7日 初版第一刷
本書のまえがきには、平家物語を文学作品として評価するのではなく、「いかなる質の歴史史料であるかを問う」ことをテーマとしている旨が書かれています。平家物語の中に描かれているエピソードを日記など他の史料に描かれているそのエピソードの記録との対比、平家物語に取りあげられたエピソードはどの時期のどの組織・人に関係するものが多いのか、多く登場する人物は誰でその人物に対する評価は好意的かどうか、登場人物同士の交流、などの視点から分析され、そこから原平家物語作成の元となった資料や作者の推定がなされます。徒然草に平家物語の作者として名前の挙げられている信濃前司行長ですが、著者はこういった手法を使って、彼が八条院・九条良輔に仕え九条良輔の死後に出家して平家物語を書いたのだろうことや、また平家物語の資料としては行長の父藤原行隆の日記も使われただろうことを推定しています。
20年ほど前に同じ著者の書いた「吾妻鏡の方法」を読んだことがあります。吾妻鏡の中に記されたエピソードや人物から、吾妻鏡の書かれた目的や作者像を探る手法にとても感心したものですが、本書もその手法がつかわれていて、実は本書の方が先に書かれたものだそうです。作成の意図・政治性や作者のはっきりしていない編纂物を歴史史料として使う場合には、こういった手法による分析が求められるということなのでしょうね。ただ、「吾妻鏡の方法」にしても本書にしても、いろいろな文献からひろく材料を採って著者独自の手法を使って料理するという感じに書かれているので、無味乾燥なんかではなく、とてもおいしく読める本でした。また第三章では、古今著聞集について同様の手法で分析がなされ、史上有名ではなかった著者橘成季について、どんな人かどんな環境で書いたのかが推定されています。史料が少なくとも、鋭い分析と想像力で、かなり豊かに復元されています。
源頼朝が以仁王の令旨を旗印に挙兵したことはよく知られていますが、以仁王がどんな人だったのかはよく知りませんでした。本書の中で「平氏の擁立する後白河から高倉・安徳へという皇統」とは別に、「八条院をバックにした二条から以仁王へつながる皇統」を擁護する勢力があったこと、高倉天皇の皇子の立太子で即位が望みが立たれた以仁王が後白河の平家による幽閉を契機に、源頼政の勧めで蹶起したと説明されていて、納得しやすい構図だと感じます。 さらに「以仁王の元服に関係して解官された行隆は行長の父であった」とここにも行長の関係者が出てきました。



本書には、保元の乱後に実権を掌握した信西についての考察も収められています。官方・蔵人方・検非違使方といった実務機構に息子・腹心を配し、権力を掌握した信西政権は、荘園整理と内裏造営によって「荘園・公領の秩序を画定し新たな『国家』体制を創」ろうとしたと説明されています。特に、京の秩序を保つうえでも平氏の軍事力は不可欠で、中世的な政権の萌芽はここにあるとのこと。その後、息子が蔵人と検非違使をやめた後の補充ができず信西は情報に疎くなり、源義朝の挙兵で最期を迎えます。平清盛の留守を狙っての挙兵でしたが、いったんは南都に逃れた信西が清盛との合流をめざさなかったこと、平治の乱後に清盛がおいしいところをさらったことなどから、清盛の熊野詣は挙兵を誘ったもので、信西も清盛がすでに頼りにならなくなったことを悟っていたのではないかと著者は推測しています。とても魅力的な仮説ですね。
日本には古い史料が豊富にあるので、たくさんの史料に目を通している人には900年前の出来事とそれを取り巻く人びとの関係でさえ、まるで推理小説のプロットをこさえるかのように、追うことができるんですね。脱帽。

2011年11月13日日曜日

日本帝国の申し子

カーター・J・エッカート著
草思社
2004年1月30日 第一刷発行
植民地時代の朝鮮で民族資本による企業として大きく発展した京城紡織株式会社について、その創設者・経営者・発展や拡大の要因・取引先・朝鮮人労働者との関係・植民地当局との関係などを包括的に説明し、ひいては当局との癒着ともいうべき関係が韓国の高度成長にもつながったことを示唆している本です。著者はアメリカ人ですが、京城紡織関係者とのインタビューや会社に残されている史料なども利用して本書を書き上げたのだそうです。
韓国の研究者の中には京城紡織を民族資本・朝鮮の工業技術のみにもとづき、朝鮮人のみを雇用し、朝鮮人の経営したモデル的な企業として描いている人がいるのだそうです。しかし実態がそうではなかったことを、「京城紡織50年」「京紡60年」といった社史をも含めた史料から、著者は明らかにしています。第一次大戦中の好景気を背景に、三・一運動後の朝鮮総督府は方針を転換して、朝鮮人資本家による企業の設立を認めるとともに、その保護育成をはかることにしました。京城紡織もそれをうけて設立され、朝鮮総督府からの補助金は創業後の苦境を乗り切ることに役立ちました。株式の出資者の過半数は朝鮮人でしたが、経営に不可欠な借入金は主に朝鮮殖産銀行にたより、原料の購入と製品の販売は伊藤忠など日本の商社に依存し、また商業金融を受け、製造設備は豊田織機などの日本の企業の製品を使用していました。総督府や殖産銀行などからの便宜の供与を容易にするため、京城紡織の経営者は総督府の高級官僚や殖産銀行の幹部と個人的な友好関係を保つようこころがけていました。日本国内の日本人経営の企業でも同じようなことをしていたと思うので、京城紡織のとった個々の行動について読んでいてちっとも不思議だとは感じません。経営者にとっては企業の発展のためにする当たり前のことだったでしょう。しかし、著者はこういった事実の記述に際して「日本の帝国主義を弁護するものでは決してない」と繰り返し本書に書いています。アメリカ人や日本人が読めば当たり前と感じることでも、朝鮮の読者から冒瀆と非難されることを著者は覚悟しなければならなかったのだと思います。
総説としてはとてもよく書けているし、読みやすく翻訳された本だと思います。ただ、読んでいるともっと知りたくなることが出てきます。たとえば、製品や販路の問題。京城紡織は、東洋紡のトリプルAブランドの広幅綿布に、値段は若干安くした自社の太極星ブランドの綿布で競争を挑んで、東洋紡の高品質とブランドに勝てずに失敗したことがあったそうです。このため京城紡織は競争を避ける戦略をとりました。日本企業の競争力の強かった高番手綿糸をつかった薄い綿布ではなく、より厚手の綿布。日本企業の競争力の強かった朝鮮南半部からは意図的に手を引き、低価格と愛国心の宣伝がより意味を持つ、貧しい住民が多く民族主義的な傾向が強い朝鮮北部に販路を求めたこと。さらには満州へと販路をもとめたことなどが、それにあたります。でも、朝鮮の南部向けと北部向けの販売高、製品の内訳やその製造・販売数はどれくらいだったのか、その数値は示されていません。また日本企業はインドや中国の企業との競争で、綿糸の高番手化・薄手綿布の製造にシフトすることになったと思うのですが、工場法がない朝鮮に立地し日本よりも労賃を低く抑えることのできた京城紡織は、インドや中国企業なみの行動をとったということでしょうか。できればこの時期の日本の紡績企業・兼業織布メーカーとの比較なども含めて解説が欲しいところです。さらに民族企業が必ずしも有利でなかったという記述には興味を引かれますが、「朝鮮の企業の製造した綿布を買って下さい」と宣伝した時の効果の南北での違いについても具体的な説明が欲しいところでした。



あとひとつ本書を読んではじめて知り、驚いたこととして、朝鮮では綿花の栽培を続けていて、朝鮮内の紡績会社(京城紡績と釜山の朝鮮紡)が使用するのに充分な量の綿花の収穫があったそうです。ただし在来種ではなく、アメリカの長繊維種の栽培を奨励していたので、収穫された綿花は高番手糸用に内地に移出されたものが多かったとか。開国前後に朝鮮から綿布を輸入したことは知っていましたが、朝鮮半島には日本より綿花の栽培適地が広かったのでしょうか。それとも日本国内では人件費を含めた栽培経費と機会費用の点でつくらなくなったが、朝鮮では栽培による収益と経費とが見合ったということだけなんでしょうか、不思議。

2011年11月6日日曜日

停滞の帝国

大野英二郎著
国書刊行会
2011年10月初版第一刷発行
停滞の帝国というのは中国のことですが、中国の停滞の様子を主なテーマとした本ではありません。近代西洋における中国像の変遷というサブタイトルがついているように、中国の様子を見たり、聞いたり、読んだりしたヨーロッパの人たちの主張を時代ごとに並べ、ヨーロッパ人の側にどういう変化がなぜ起きたのかを丁寧に跡づけてくれています。
アヘン戦争、太平天国、日清戦争、辛亥革命など中国自体の変化が契機とならなかったわけではありませんが、ヨーロッパの人が中国を停滞、退行の状態にあると判断し、中国人が白人に劣る黄色人種であことから停滞しているのだと考えるようになっていった主な要因は、ヨーロッパの側の変化にあるということが説明されていました。つまり、ヨーロッパ人の中国観を材料としてヨーロッパ精神史が書けるわけで、目の付け所がシャープですよね。
ヨーロッパにはマルコポーロ以前から中国に関する情報が入り始めていたそうですが、本書で主に扱われているのは16世紀以降のことです。はじめに中国に関するまとまった情報をもたらしたのは宣教師たち、特にイエズス会の宣教師でした。彼らは、数々の発明にも関わらず、絵画、活版印刷、鋳造、彫刻などの分野で中国の科学技術がヨーロッパに劣ると指摘する一方で、日蝕の記録からその正確さを確認できる歴史記録がかなり古くから残されていること、科挙と官僚制、物産の豊かなことなどを伝えました。特に、ノアの大洪水以前までさかのぼりそうな中国史の長さは、ヨーロッパの人たちの間で聖書への信頼を揺るがすことにつながることにもなったそうで、説明されてみればそれはそうだなと感じましたが、これまで知らなかったことなので驚きました。本書でも、はじめは中国に宣教・商売・外交の仕事で実際に訪れた人の体験記が扱われ、時期が遅くなるとそれらの記述を元に中国を論じる人も増えます。カントやアダムスミスやダーウィンなどなども中国について発言していたのだそうです。それにしても、ヨーロッパをいいところも良くないところもあわせて相対化できる人・人種の差別をしない人が長いこと出現しなかったことには驚かされます。
中国文明が古来から一定の水準に達していたという認識は必ずしも好意的な評価にはつながりませんでした。遠い過去からしっかりした制度・文化を維持してきた・変化の少なさ=停滞とマイナスに考えられるようになったわけです。実際には王朝がいくつも交替し、文化面でも例えば儒学においては朱子学・陽明学などの革新が行われたわけですが、それらは無視されます。その後も、清朝治世下の中国自体に大きな変化がなかったにも関わらず、18世紀中葉以降には、進歩するヨーロッパに対して中国文明は停滞・退行と認識されるようになりました。これって、古い時代にはヨーロッパよりも中国の方が進んでいたことがあったと考えなければいけないはずなのに、それを停滞と判定してしまうことの傲慢さには呆れる感じがします。西・北ヨーロッパ人にとってもギリシア、ローマの文化は自分たちのもので、自分たちが過去から一貫して中国に劣っていたはずがないという意識していたのでしょうね。
西洋の黄昏、中国の黎明という終章は、ウエーバーからニーダムまで、革命と戦争、新中国の20世紀をとりあげています。スメドレーやスノーに始まる共産党と新らしい中国についての紹介は、16世紀にイエズス会の宣教師が中国事情を報告したのと同じような感じがします。新王朝の実態が外からはよく分からなかったという点でも。しかし「近代西洋における中国の停滞あるいは不変の神話に限るならば、20世紀中葉から末葉にかけて、中国の変貌と西洋自身の意識の変化が相まって、徐々に、しかし確実に消滅していった」と著者が本書を終えているように、その点について変化があったことはたしかですね。

2011年10月29日土曜日

江戸大名の本家と分家

野口朋隆著
吉川弘文館歴史文化ライブラリー331
2011年11月第一刷発行
江戸時代の大名には、特に初期に分家を創出した家が多くありました。その分家と本家との関係について、実際例をたくさんあげて説き明かしてくれている本です。本藩・支藩と呼ばれることもありますが、支藩という用語は同時代のことばではなかったことや、また廩米支給で独自の藩を持たない分家や旗本の分家があったことから、本家と分家というふうに著者は呼んでいます。
「別朱印分家は本家から『自立』的で内分分家は『従属』的という評価が一般的であった」と書かれていて、たしかに私もそういう記述をどこかで呼んだ記憶があります。しかし実際には「別朱印分家・内分分家という区分は、あくまで後の時代から見た場合の分家の形態であるということである。領知朱印状は近世初頭を除き、貫文印知以降、基本的に歴代将軍一代ごとに一回ずつ発給されることから、各大名家の分知時に、分家が領知朱印状を拝領するということはできなかった。つまり、すべての分家は、創立当初は、内分分家からスタートしている」と著者は鋭く指摘していています。
大名とは何か、本家分家とは何かというのが、江戸時代の初めから定まっていたわけではありません。実態を後追いして慣習法、そして一部は幕府の政策的意図も加わって成文法にまでなったわけです。また、家族・親族のことなので本家と分家の当主の個性や、分家派出後の時間の経過によって、各大名ごとに本家と分家の関係がさまざまだったことが予測されますが、本書を読むとその点がよく分かります。一般的には時間とともに疎遠になっていくばかりかと思っていましたが、財政窮乏から分家が本家を頼って、従属的な関係が強まることがあったという指摘には目から鱗でした。具体的な例をたくさん集めてくるのは骨の折れることだと思うので、実態から原則を探ろうとする著者の姿勢には頭が下がりますし、しかもこういう一般向けに読みやすく面白い本を書いてくれたことはありがたいことです。
本筋からは外れますが、本書のタイトル。「江戸大名の本家と分家」というのは「江戸期大名の本家と分家」の方がいいように思えますが、専門家からすると、そうではないんでしょうね。

2011年10月28日金曜日

正倉院文書入門

栄原永遠男著
角川選書55
2011年10月初版発行
正倉院には聖武天皇ゆかりの宝物だけでなく、文書がたくさん収められています。本書は、それらの文書のうち写経所文書を対象に、その由来、研究史(研究の難しい理由も)、研究の成果の例示、写経事業、などについて解説したものです。
写経所文書の多くは帳簿類でした。実務用の帳簿は重要書類ではなかったからなのでしょうが、他で廃棄された文書の紙裏を利用してつくられた巻物に帳簿として記録されていました。この写経所文書は江戸から明治にかけて「整理」を受けます。天保期の穂井田忠友は、写経所文書自体ではなく、その紙背にある奈良時代の公文の方に着目して整理を始めました。公文を取り出すため写経所文書の巻物を切断・分類し、各国の戸籍を復元するような形で、新たな巻物に仕立てたわけです。切断して得た紙どうしを新たな巻物として接続させる方法として、両方の紙の端かぶせるように表と裏両面に新たな白紙を貼りました。公文を見るためにはこの方法での整理でもいいのでしょうが、切断端が白紙で隠されてしまったため、元の写経所文書を復活させることが非常に困難になってしまっているのだそうです。写経所文書の研究は、書かれていることの研究もさることながら、この切断された物から元の巻物を復元することの難しさが加わっていることが本書を読むとよく分かります。正倉院文書の「整理」は元史料に手を加えることの意味・怖さをとても良く教えてくれるエピソードだと思います。
第3章では、苦労して復元された帳簿を元にした研究から、写経所ではどんな手順で仕事が行われていたのか、仕事をする技術者たちへの報酬、お役所仕事としての性質を持っていたこと、落書き・習書などの様子まで書かれています。技術者の一人一人の名前まで書かれていたりして、このあたりは読んでいてとても面白く感じます。また、写経に必要な物品(紙、糊原料の大豆、食糧など)を請求したのに調綿が支給され、その調綿を売却して得た銭で必要物品を購入することがあったことが掲載された史料に書かれていて、銭貨もそれなりに使用されていたのですね。
「はじめに」で「正倉院文書を研究するために必要な知識と方法を示すとともに、正倉院文書についての理解を深めていただくことをめざしている」と著者は書いています。著者には正倉院文書の研究を志す若い人を増やすためという意図もあるのかもしれませんが、本書を手に取った人の大部分は、正倉院文書の研究法の外観をつかみ、正倉院文書についての理解を深めることを求めて読んだのだと思います。実際、文書例が図と本文を組み合わせて、読みやすくかみ砕くように説明されていて、素人の私も躓くことなく読めたし、一般の読者のニーズには充分に答えてくれる本だと思います。そう考えると、本書が角川選書としてハードカバー・本体3300円で発行されたことは残念な感じで、新書やせめて選書版としもっと安く売られていたら、ずっと多くの読者を期待できるんじゃないでしょうか。
それと本題からは外れますが、第一章には「世界中を見渡しても、八世紀というとても早い時期のナマの文書が、これほど大量に残っているところはほとんどない」と書かれています。日本は古文書が多く残されている地域なのだということはよく見聞きしますが、世界中の他の地域には各時代の文書がどのくらい残されていて、具体的に比較するとどうなのかというあたりを知りたくなります。

2011年10月26日水曜日

iPhone 4S、買いました

今日、iPhone 4Sが手に入りました。予約したのが11日なので、2週間+1日で手にはいるという噂はほんとなのかもしれません。
買ったのは32GBの黒です。これまでの経験から私には32GBで充分です。またこれまでは3GS白をつかっていたのに、今度は黒にしました。ディスプレイの周囲が白くなっているデザインはとても変に見えるのです、私には。なのでiPad2もこのiPhone 4Sも黒。
高精細なretinaディスプレイのせいか、 これまで使っていた3GSと比較するとディスプレイが小さく感じられます。また3GSはフィルムもケースもつけずに裸でつかっていましたは、4Sの方は周囲のエッジの感触が手にはっきりと感じ取れます。フィルムは貼るつもりは全くありませんが、バンパーくらいはつけた方がいいのかなと思い始めています。

2011年10月21日金曜日

関ヶ原合戦







笠谷和比古著
講談社学術文庫1858
2009年12月第3刷発行




以前、笠谷さんの書いた近世武家社会の政治構造を読みましたが、その中には関ヶ原合戦の過程・結果が幕藩体制の前提となり、徳川幕府を拘束することになったと論じる「関ヶ原合戦の政治史的意義」という論考が収められていました。本書にはその論考も収められていますが、それに加えてこの合戦の前史・参加者の動向・家康の働きかけとその成果などを典拠とともに記されています。本書の主張は、
  • 多数の豊臣恩顧の武将が家康麾下で戦ったこと、小早川秀秋が内通したことの大きな理由には、北の政所と淀殿との対立、そして石田三成・淀殿ラインが政権を握ることへの危惧があった。
  • 秀忠率いる徳川主力軍が合戦に参加できず、東軍は豊臣恩顧の大名の働きで勝利した。
  • 戦後処理では、没収した土地の80%豊臣恩顧の武将に与えられ、豊臣系の国持ち大名が多数出現した。
  • 合戦後も豊臣秀頼の権威は揺るがず、この時期の家康もそれを尊重する姿勢だった。秀頼の将来の関白就任と矛盾しない形で政権を運営するため家康は征夷大将軍の地位を選んだ(著者はこれを二重公儀体制と呼んでいます)。
など。それに加えて、関ヶ原の合戦は豊臣と徳川の覇権闘争ではなく、東軍の勝利も徳川家の盤石な支配体制をもたらしたわけではないという点で、従来の説とは異なるのだそうです。ただ、笠谷さんの本はどれもそうですが、史料をもとに理解しやすく書かれていて、素直にその通りと思えてしまいます。例えば、小早川秀秋に内通を求める書状には、内通への反対給付が示されていなかったそうです。著者はここから、反対給付などなくても北の政所を守るには家康に与することが当然と観念されていたからだろうと論じていて、目のつけどころがシャープかつ説得的だなと感じました。


また、豊臣家が単なる一大名でなかったからこそ大阪の陣が起こったと考えれば、著者の二重公儀体制論は無理がない感じです。ただ、この時期は二重公儀体制を築くことにしていた家康が、その後になって何故、大阪の陣を起こそうと考えるようになったかは謎だとも述べられています。これに関してもいつか説得的な論考を読んでみたいところです。
本筋からは外れますが、関ヶ原戦につながる対立で、毛利輝元が総大将として担ぎ出されることを承知したのは何故なんでしょう?史実通りの動きしかしないのであれば最初から三成に与しなければ、領地没収なんてことにならなかったでしょうに。また、総大将として動くつもりなら、秀頼を先頭に立てて出陣(淀殿が許さなかったんでしょうね)するなりなんなりしなければ、意味ないでしょうに。輝元は背景の人物としてしか本書では触れられていませんが、単に彼は上に立つものとしての器量がない人だったということなんでしょうね。
あと、織田信長の嫡孫の三法師がその後どうなったのか知りませんでした。成人して秀信と名乗っていた彼は、西軍として岐阜城を守って破れましたが助命され、剃髪して後には高野山で過ごしたと本書には書かれていました。ふーんという感じ。

2011年10月17日月曜日

Uボート部隊の全貌

ティモシー・P・マリガン著
学研マーケティング
2011年7月発行
Uボート部隊の全貌というタイトルを見ると、Uボートの建造や兵装のあれこれ、大西洋戦いをはじめとしたUボートの活躍が描かれた本なのかなという気がします。でも本書はそういった兵器や戦闘に焦点を当てた本ではなく、ドイツ海軍・狼たちの実像というサブタイトルの通りに、Uボートに乗り組んだ艦長・下士官・水兵たちがどんな人だったのかということと、選抜や教育や昇進や艦内での生活などを描いていて、戦争の本というより社会学の本ですね。社会学に関してもまったくの門外漢ですが、以前読んだ職業と選抜の歴史社会学という日本の鉄道員を扱った本に似ている感じがしました。
Uボートに乗り組んでいたのがどういう人たちだったかを明らかにするために、過去の文献や戦争中のドイツの記録や連合軍側のもつ捕虜の記録に加えて、1991年から1994年にかけて元Uボート乗組員1000人以上に対する経歴調査を行ったのだそうです。戦争終結後半世紀近くたってからの調査でかなり遅い気もします。でも、Uボートの乗組員たちも戦後はそれぞれの人生に忙しく、例年の親睦会活動が恒例になったのは1980年代から、つまりみんなが引退した時期になってのことだったそうですから、こういった調査に素直に応じてもらいやすくなるという点では半世紀後の方が良かったのかもしれません。
Uボートに乗り組んでいたのはどんな人たちだったのか、読んでいて面白く感じた点を紹介すると、
  • 「第二次大戦中のUボート乗組員の徴募に影響を与えたのは、軍歴を継続したこれら個々の古参以上に、数量化できないほどの縁故、つまり第一次大戦中に同じ立場で奉職した父親やおじたちだった。」
  • 「こうした血縁は今日まで続き、1997年6月に新造されたU17に乗り込んだ通信兵の一人は、ドイツ潜水艦に乗り込んだ4世代の3代目にあたる」
  • 「烹炊員は階級的には二等水兵だが、民間職ではパン屋か肉屋でもあった。烹炊員がほかの任務を特免されていたのは、求められるものがあまりに大きかったからである。縦70センチ、横1.5メートルしかない空間で休むことなく50人分の温食を用意し、しかもそこには3~4つのホットプレートがついた電気レンジ一基、小さなオーブン一基、スープ鍋一つ、流し一つ以外何もなかった」
  • ティルピッツの海軍拡張計画により志願兵のみで需要を満たすことができなくなり、北ドイツの漁師・船員からの徴集兵を水兵と水雷部門に、内陸部の金属工・機械工・電気工からなる徴集兵を機関室と通信室に配属した。
  • 「海軍士官にはドイツの中産階級、特に上位中産階級出身者が多かった」
  • 機関科将校の「多くが下位中産階級の出身で、兵科将校と同等の地位を与えられることは絶対になく、昇進の機会も限られていた」
  • 第一次大戦中のUボート乗組員の「損耗率51%以上である」
  • 「第一次大戦の艦長457人のうち152人が戦死し、33人が捕虜になった。これらを合計すると40%強の損失となる。一方、第二次大戦のUボート艦長が被った損耗率は46%だった」
  • 「第一次大戦の艦長400人のうち、22人が全連合軍商船の60%以上を撃沈し、全戦果の30%がUボート艦隊のわずか4%の艦によるものだった。こうした現象は第二次大戦でも反復され約1300人中30人の艦長が、連合軍商船の総損失トン数の30%を撃沈したのである」
  • 兵科将校には旧ハンザ同盟都市など北ドイツ出身者が多く、プロテスタントが多く、アビトゥーア取得者が多くて、半数は上流階級と上位中産階級出身だった。
  • 機関科将校は中部ドイツ出身者が多く、中・下位中産階級出身者が多い。人材不足により、下士官からの昇進者も少なくなかった。
  • 下士官、兵も北部ドイツや中部ドイツの工業都市出身者が多かった。また労働者階級、中・下位中産階級の出身だが、父親が海軍で小型艦に乗務していた者、父親が熟練工・熟練労働者だった者が目立つ。金属工が多く、農業従事者は極めて少ない。機関兵は金属工出身者がさらに多い。こういったことから「北ドイツ出身の寡黙な船員と漁師の傍らには、西部・中部ドイツ出身の快活な機械工と産業労働者が立っていた」と言われている。
「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
大戦後期に艦長の年齢が著しく幼くなったりはしていない。また末期の損耗率よりも1941~1942年の損耗率の方が高かった。
艦長の年齢、経験、特質は損耗率に影響しない。連合軍の兵装や戦術の向上がUボートの損失につながったから、艦長の資質で何とかできるというものではなかった。
陸軍とは違って、敗戦近くなてUボート乗組員に10代の水兵が増えたという事実はない。10代の水兵の比率はアメリカ海軍の潜水艦乗組員と比較しても少ないくらい。
第一次大戦時から一般人の持っていたUボート部隊のエリート視、ヒトラーユーゲントなどを経験しての入隊といったことから、大戦後期の経験の浅い若い乗組員の士気も保たれていた。

第4章「Uボート戦のパターン 1939~1945年」にはUボートの戦いの時期別の簡潔な概説があります。またその他の章でも、太西洋の戦いや連合軍のレーダーやソナーや航空機による哨戒の威力、ドイツ側の対抗する兵装や新型艦に対する努力が各所に記述されています。それらの中で面白く感じた点というと、
  • 艦内温度が100度(約37.8度)「熱帯水域では高温によって多くの人員が倒れたのである」
  • 「通信兵の評価は、当直時にどれだけの電信文を聞き逃したかによって大方が決まった。それぞれの電文には通し番号がついているため、それによって聞き逃しが判明したのだ」
  • 潜航時の艦のトリムの維持には「食糧や燃料の重量配分についての正確なデーターー個別日誌への日々の更新ーーが必要となった」
  • 新しい潜水艦の建造が終わると、キールにある加圧ドックで90メートルまでの模擬深度で新造艦の水漏れを検出したり、聴音哨のある海底で無音航行試験を行い、無音航行時の最適速度が決められた(日本の潜水艦もこういった試験をしたんでしょうか?)。
  • 雷撃訓練、集団行動と船団襲撃訓練。未熟な乗員による操艦ミスやイギリス軍の敷設した機雷など、バルト海での訓練中に失われた艦も30隻と少なくなかった。
  • 士気を保つために特権(休暇時に総統からの小包)と厚遇(食事)と高給、哨戒後の帰郷休暇、叙勲が用いられた。総統からの小包は先日読んだRations of the German Wehrmacht in World War IIにも説明があった食品の特別配給詰め合わせです。
  • Uボート乗組員は実働時間の三分の一を港あるいは帰郷休暇で過ごしていた。
内容とは関係ないことですが、この本は縦書きで、かなり多量の原注が章ごとに横書きでつけられています。縦書きと横書きが混在した本ではあっても、本文と注というふうに分かれていますから、そのこと自体では問題を感じません。ところが注の部分を眺めると、一見して変な感じ・違和感をおぼえるのです。日本語は縦組みと横組みで違ったフォントを使うべきなのに、もしかするとこの本の横書きの部分には縦書きの本文の部分と同じフォントが使われてしまったのかなと感じました。

2011年10月13日木曜日

20世紀環境史

J・R・マクニール著
名古屋大学出版会
2011年9月 初版第一刷発行
20世紀の歴史において「人類による環境変化は、世界大戦、共産主義、識字率向上、民主主義の拡大、女性解放より重要であった」という評価で、主に20世紀の環境の変化とそれに伴う歴史的状況が概説された本でした。第I部「地球圏のミュージック」では、岩石圏・土壌圏、大気圏、水圏、生物圏のそれぞれにどんな変化が生じたのか20世紀以前も含めて記載され、第II部「変化のエンジン」では、人口増加・都市の拡大、エネルギー利用技術の変化、政治など環境の変化をもたらした要因が挙げられています。そしてエピローグ「ではどうするか」では、 歴史学と生態学の統合により過去のより良い理解が得られるようになり、それが現在の状況と可能な未来についてのより良い考察をもたらすだろうという著者の考えが述べられていました。マクニールという名前には聞き覚えがありますが、本書の著者はあのH. McNeilさんの息子さんでした。
第I部では、19世紀以来のヨーロッパ、アメリカ、日本といった先進国での環境悪化の事例に加えて、規制の緩い発展途上国への環境破壊の輸出、20世紀末の中国など新興国での環境汚染など、満遍なく取り上げられています。足尾銅山の鉱害、水俣病、イタイイタイ病など日本の有名な事例も扱われています。同時代的に悲惨な状況の報道を見聞きしたものもあって日本の公害は特別にひどいものなのかと感じていましたが、世界中の多くの同様な事例の中に含めて記載されているのを読むと、日本の環境破壊・公害には日本なりの特殊な要因(「科学目的」の名の下に捕獲することによって商業捕鯨モラトリアムから免除された数千頭のクジラは、結局寿司屋で消費されたのである、なんていう辛口の記述もあり)もあったのでしょうが、世界史にみて突出してはいないレベルの出来事だったのだと思えるようになりました。
「1990年代の初期にこの書物に関する研究を始めたとき、20世紀のグローバル環境史を形成している最も重要な力は人口増加であったと、私は信じていた。しかし、研究を終えたとき、私の考えは、化石燃料によるエネルギー・システムが現代の環境史の背後に潜む最も重要な単一の変数であるというように変化した」と書かれていますが、化石燃料の大量使用、化石燃料の中での石炭から石油への転換が環境史に大きな影響をもたらしました。エネルギー源として石炭が中心だった時代には先進国の都市とその周辺の汚染が主でしたが、石油がエネルギー源となると工業都市だけではなく、自動車、農業、森林伐採、鉱業でも広範囲に利用され、タンカーによる海洋汚染、ひいては二酸化炭素濃度の上昇による温暖化がもたらされました。すでに周知のことがらだからなのでしょう、温暖化現象そのものに関する記述は多くはありませんでした。
日本語版への序文には、21世紀になってからのことも少し触れられていて、20世紀の後半にエネルギーの効率的な利用が進められた結果、先進国ではバイオマスを含まない商業的なエネルギーの使用が2000年代には減少し始めたこと、世界全体の総エネルギー使用量も、この数十年間で初めて、2009年に実際に減少したことが書かれています。これで、めでたしめでたし、となるかというとそうではないようです。「この10年で最も重要な経済的・地政学的な変化は、中国の台頭、あるいはおそらく中国とインドの台頭である」「酸性化の主な地域は東アジアに移り、二酸化炭素排出の最大の原因は、今や中国である。世界のコンクリートの半分は中国に注がれている」「急速な環境変化に関連したほとんどすべてのことは中国と関連しているようだ」と述べた後で、「21世紀の環境史のための最も重要な意思決定は、おそらく北京でなされるであろう」と著者は中国の重要性を強調しています。人口や経済規模の大きさの点のみならず、中国が世界システム的な覇権国になりそうなことからも、地球環境の行方を決めるのが中国になるというのはもっともな話だと感じました。著者は「日本と中国のように、お互いに不信感をもつ隣国どうしの協調は困難であることが判明した」としていますが、アメリカと中国の間にある日本は他の国以上に21世紀の舵取りが難しい。
本文中で原子力に関して「商業的に意味のある原子力発電所などどこにもなかった。つまり、原子力発電所はすべて、巨大な補助金という「正気でない」経済学に依存して生き残っている」と言及されていましたが、チェルノブイリを含めても割かれたページ数は多くはありません。しかし著者の姿勢からは、 もしこの本がFukushima後に書かれたものなら、原子炉の事故だけでなく、ウラニウムの採掘・燃料への加工にともなう環境汚染、原子力発電による放射性廃棄物、廃炉の困難性といったことも含めて一項たてられたのだろうと感じます。
世界中を見渡すとどんなものなのかを把握させてくれるという意味で、よくできた概説書だと感じます。日本のFukushima後の状況をみていると、この期に及んで原子力発電を維持・擁護しようとする勢力が日本国内に根強く存在していることに驚きますが、本書はそういう人たちが20世紀の環境破壊・公害を隠蔽・糊塗しようとした努力が結局は成功しなかったことを学ぶ教材としても優れていると思います。


ただし、この本の日本語はお粗末です。理解しにくい、こなれてない日本語というレベルの文章は多すぎるので無視するにしても、あきらかにおかしいと感じる点が少なくありませんでした。気づいただけでも下表の通り。監訳者として2人の名前が掲載されていますが、出版前の原稿に目を通しているのでしょうか。目を通しているのなら無能と呼ばれても仕方がないし、チェックしないで名義貸しだけしているのなら言語道断。また名古屋大学出版会はしっかりした本屋さんのはずなので、こんな状態のままで印刷・発売しちゃうのはまずいでしょう。担当の編集の人はチェックしないのかな?


ページ本書の表現私の意見
7人は化学エネルギーから力学的エネルギーへの変換者としてウマよりも効率的であったので、大型家畜は産業革命以前においては幾分贅沢な者であった 「人」でなくヒトとすべきでしょう、この例は他にも散見
10バイオマス燃焼も常に汚染源であったが、化石燃料はさらに応用的であったため 「応用的」という単語は一般的ではないと感じます。原著ではpracticalでしょうか?用途が広かった、くらいに訳すべきでは
93水文学者に従えば、水使用は灌漑、産業、行政の三つの主要なカテゴリーに分けることができる行政ってどういう意味?水文学特有の用語なのでしょうか
104古川市兵衛このページには5回も古川と印刷されているでので、単純な変換ミスではないようです。こんな有名人の姓を誤るとは!
104鉱山尾鉱はじめてみる単語、意味が分からない
112アドリア海北部およびその他の地域における赤潮の頻度の増加と激しさは、水を濁らせて、特定の海草(Poisidonia oceanica)の生息地となる深海を減少させた 海草の生息地となる深海って?海草は日の光の射さない深海で生活できる?
125パキスタンは1人当たり1600万ヘクタールの灌漑土地を所有していた 1人当たり1600万ヘクタール?
133イギリスの首相アンソニー・エデン 正しい発音はエデンに近いのかも知れませんが、ふつうはイーデンとしてますよね
175492年以降のユーラシアとアフリカへのアメリカの食用作物(トウモロコシ、ジャガイモ、キャッサバ)の到来 1492年の1が抜けている
19820世紀に発生した救急疾患の多くが生物侵入によるものである 救急疾患はemergency diseaseを訳したものか?もしそうなら新興疾患・新興感染症と訳すのがふつう

2011年9月30日金曜日

世界制覇

前間孝則著
上 2000年4月 第一刷
下 2000年4月 第一刷
講談社
本書は、先日読んだ戦艦大和誕生の続編のような位置づけの作品で、大和の建造で力を発揮した西島造船大佐の生産合理化策が応用され、日本の造船業が世界一にまでなった過程を描いています。大和を建造した呉海軍工廠は敗戦後、新造船はおろか船舶の改造工事も禁じられ、沈没している旧海軍艦艇のサルベージと解体、それに引き揚げ船・占領軍艦船の修理を命じられました。佐世保や舞鶴では旧海軍工廠を元に会社がつくられましたが、呉は播磨造船に経営委託されました。表向きは地理的に近いからということでしたが、本当は財閥系でなく大艦を建造した前歴がなかったからだったのだそうです。軍艦は水防隔壁が多いので、浮揚作業をしやすくするためにタ弾(本書の著者はこれに「ゆうだん」と読みがな付していますが、「ただん」が正しいかと思います)で隔壁を破壊したり、沈没艦船十七隻から計一千柱の遺骨を収容し身元の判明した者は遺族の元に送ったりなどさまざまな苦労がありました。また自動車の生産の際にプレス加工に耐えない日本製の薄板の品質が問題となったことは知っていましたが、厚板を使って建造する船舶でもこの時期の日本製の鉄板の品質は劣っていたのだそうです。

旧海軍艦艇の処理が終わった後、呉工廠の施設はアメリカの造船所をもつ船会社であるNBC(National Bulk Carrier)に貸与され、NBC呉という事業所になります。NBC呉では、製作現場本位の設計・部品の標準化・ブロック建造法・早期艤装など、大和や日本の戦時標準線の建造で試みられた技法に、アメリカの優秀な溶接法・溶接機器などを組み合わせて、その時点で世界一大きいと言われたタンカーなどを、日本の他の造船所よりも少ない工数・安い価格で次々と建造して、注目を集めました。
この呉工廠からNBC呉の活動を支えたのは、戦時標準船の建造時に西島造船大佐の元で仕事をした真藤恒さんのリーダーシップでした。真藤さんは古巣の播磨造船所が石川島重工と合併するのを機にIHIに移ります。1960年代のIHIは大型タンカーなどの建造で日本・世界の造船界をリードし、建造量日本一(世界一でもある)の造船会社になった年もありました。真藤恒さんの名前はNTTの社長でリクルート事件にかかわった人として聞いたことはあったのですが、こういう経歴のある人だったとは知りませんでした。
高度成長期は、戦前の安かろう悪かろうの日本製品から、信頼のmade in Japanに変化していった時期でもあります。繊維製品についで、重工業の中では造船業が先陣を切って世界レベルの製品を生産・輸出するようになったわけですが、その秘密を分かりやすく、しかも面白く描いた作品でした。造船会社のことだけでなく、ギリシアの船主についてのエピソードも興味深く読めました。
分かりやすく・面白い作品にするためか、本書での叙述はエピソードをつなぐ形になっていて、各エピソードには人物の会話が多用されています。著者による本書の主人公である真藤恒さんに対するインタビューや、参照文献が本書を構成する主な材料でしょうが、それらからも具体的な細部が分からないエピソードも少なくないはずだと思われます。しかし本書のエピソードは引用符(「」)つきの会話で構成されているものが大部分です。本書は歴史書ではなくエンターテインメントなので、大河ドラマ的なスタイルで書かれているのも仕方ないのでしょう。まあ、「快速巡洋艦「大淀」」とか「アメリカの戦時標準船は粗悪だったために耐用年数が短く」などの気になる表現もなくはないですが、知らなかったことをたくさん教えてくれて、エンターテインメントとしても良くできた読み物でした。

本書は造船業界をとりあげていますが、高度成長期の日本の製造業にはこれと似たような製造技術の革新をなしとげて、世界的な競争力を獲得した業界がいくつもあるのだろうと思います。例えば、以前のエントリーでとりあげたものづくりの寓話では自動車業界がとりあげられていました。ただし、ものづくりの寓話は専門書ですから、叙述の仕方も一人のヒーローの物語としてではなく、オーソドックスなもので、それでいて惹きつける魅力がありました。どちらも勉強させてくれる本ですが、私としてはああいうスタイルの本の方が好きです。

2011年9月26日月曜日

曹操墓の真相

河南省文物考古研究所編著
国書刊行会
2011年9月発行
安陽市の郊外では、レンガ製造所の土取り場に使われて、たくさんの古墓が破壊されたそうです。その古墓の一つから出土した墓誌に、その墓の位置が曹操の高陵からの方角と距離で記されていて、近くに曹操の墓である高陵があることは間違いないことが分かった。その後、近所で大きな墓が発見され盗掘される事態が発生しました。そこもやはりレンガ原料の土取りで掘られて発見されたようです。警備されましたが、盗掘が繰り返され、やむなく発掘されることになりました。発掘の結果、スロープ状の墓道が40メートルも続き、地上から15メートルほどの深さに、前室・後室と4つの側室をともなった広さ740平方メートルの、壁面を塼で覆われた立派な墓室がみつかりました。盗掘を受けてはいましたが、遺物が残っていなかったわけではなく、60代男性のものと見られる頭蓋骨や、魏武王常所用挌虎大戟と書かれた石の札などなどが発見されました。
生前に曹操は魏武王の称号を得ていましたが、死の10ヶ月後、魏の皇帝に即位した息子の曹丕によって、武帝と追尊されることになりました。武帝ではなく武王と書かれた資料が発見されたことで、この墓が高陵である可能性は高いと考えられています。ただ、訳者が解説の中で書いていますが、他の人の墓、特に曹操の死の3ヶ月後になくなった夏侯惇の墓である可能性も完全に否定できてはいないのだそうです。この場合、夏侯惇は曹操の信頼厚かった高官なので、魏武王常所用挌虎大戟を下賜されて自分の墓に副葬したことになります。
近所の書店の平台に置かれていた本書ですが、曹操墓というタイトルに惹かれて買ってしまいました。晩年の曹操が住んでいた鄴の西郊にあたる場所で、21世紀になってから曹操のものと思われる墓がみつかったという話は本書を読んで初めて知りましたが、まだミステリーは解決していない点も含めて面白く読めました。中国の文章を訳した本だなと感じる点もありますが、訳文は読みやすいし、カラー図版もたくさんあって分かりやすくオススメです。
この高陵と推定される墓(西高穴2号墓)の横にはもう一つ同規模の 西高穴1号墓があります。それは置いておいて、この1号墓も調査中なのだそうで、その結果もぜひ知りたいものです。その他の感想もいくつか以下に。
どうして曹操の墓と推定され先に発掘された方を1号墓ではなく2号墓と名付けたのでしょうか?考古学では、位置の関係などで順番の付け方が決まっているのかな。
曹操は乱世の姦雄でしたよね。でも同時代の人(特に同陣営の人)からは悪や駆使されていたわけではありません。彼が悪役というか敵役になってしまったのは、
東晋南朝の時期、中国北方は異民族の手に落ちた。江南に割拠した東晋南朝の君臣たちは、かつての「孫呉」と同様の状況にあることに気づいたのである。この地縁と政治的立場からすると、曹操は北方に雄拠する軍事的敵対者に他ならない。すなわち、曹操を罵ることは、北方の異民族を罵ることと同じ意味を持っていたのである。
という事情があり、また金が中原を占拠していた南宋の時代にも「愛国情緒」から南方の呉・蜀に同情が集まったからなのだそうです。簒奪者のように思われてもいますが、墓から出土した史料には魏武王と書かれていたわけで、けっして簒奪者ではなかったわけですね。
曹操は自分の墓を高いところにつくるよう指示していたのだそうです。でも地下15メートルまで掘って墓室を設けると、地下水に悩まされたりはしないんでしょうか?このあたりはそれだけ地下水位の低い地域、井戸を掘っても水の得にくい地域なのかもしれません。それとも版築で天井と床と側面と全部固めれば、水の侵入はシャットアウトできるのかな?
曹操自身が薄葬を望んでいたそうですが、高陵は立派な墓室のお墓です。でも、副葬品や埋葬儀礼の点からみると、これでも薄葬なのだとか。
1800年ほども安らかにねむっていたお墓が21世紀になって盗掘されるというのは情けない話です。中国でこういうことが起きるのは、沿海部との間に経済的格差が広がっているからでしょうか?沿海部に住むお金持ちの欲しがる遺物を、内陸部の所得の低い人たちが盗掘するような仕組みです。ただ日本でも、土木工事で遺跡らしきものが見つかっても、公にすると時間と費用をかけて調査しなければいけなくなるので、面倒を避けるためにそのまま破壊してしまったりすることがあるそうですから、そんなに事情は異ならないというべきでしょうか。

2011年9月25日日曜日

戦艦大和誕生

前間孝則著
上 講談社+α文庫36-3
2005年12月 第6刷発行
下 講談社+α文庫36-4
2001年4月 第3刷発行
タイトルに戦艦大和誕生とついていますが、大和がどんなに強力な戦艦で、どんな戦績を残したのかといった点をテーマにした本ではありませんでした。上巻のサブタイトルに、西島技術大佐の未公開記録とありますが、西島大佐は大和建造時に呉工廠造船部艤装工場主任・船殻工場主任を歴任した現場の責任者でした。防衛庁防衛研究所戦史室に保管されている海軍技術大佐(造船)西島亮二回想記録をもとに、上巻では呉海軍工廠での大和の建造の過程を描いています。この回想記録は一般には非公開の史料なので、著者は93歳の西島さんに会い閲覧の許可を得たのだそうです。

九州帝大の造船学科(東京帝大と九州帝大にしかなかったとか)を卒業して西島が造船官としての道を歩み始めたのは、艦艇の復元力不足や強度不足による友鶴事件と第四艦隊事件、大鯨建造時の電気溶接の不具合などの造船に関する問題が明らかとなった頃でした。艦船はオーダーメイドで、生産過程の合理化がほとんど緒についていなかったのだそうです。西島さんは使用される部材、例えばバルブとかパイプといったものから共通化・企画化をすすめ、また早期艤装・ブロック建造法といった工夫を艦艇建造に導入したパイオニアでした。大和の建造にもそれが活かされ、大和は予想よりも少ない工数(ずっと小さい長門とほぼ同程度)・価格・期間で竣工することになりました。一番艦大和の教訓を生かして二番艦として三菱長崎で建造された武蔵と比較してみても、大和の法が2ヶ月短く費用も16%安く建造できたのだそうです。日本海軍の艦艇に関する本を読んでも、これまで費用についてこういう風に書かれたものは記憶になく、とても勉強になりました。きっと敗戦時に史料がみんな燃やされちゃって、日本海軍についてはこういう議論を定量的にしにくいんでしょうね。その点、先日読んだBritish Cruisersでは各級の設計時の折衝に価格が頻繁に出てきて、価格が設計に影響を与えていたことまで分かりました。大和の場合に価格を考慮して設計をどうこうしたという記述は本書にはみあたりませんでした。そもそも、大蔵省との交渉で決まった価格の積算根拠は薄弱で、二十数年ぶりに戦艦を建造する海軍としても、価格や工数がいくらかかるか事前に正確に見積もれていたわけではなかったのだそうです。

上下巻あわせて戦艦大和誕生というタイトルですが、下巻には「生産大国日本」の源流というサブタイトルがつけられています。大和で合理化をおしすすめた西島さんは、第二次大戦中、海軍艦政本部が担当することになった商船の建造やその後の一等輸送艦などに際しても部品・部材の共通化標準化、ブロック建造法、実物大模型での検討や治具、電気溶接の採用などで腕を振るいます。戦時標準船は建造能力を持っていた日本の造船会社すべてが参加したプロジェクトですが、この西島さんの薫陶を受けた各社の設計者・技術者・労働者が、敗戦後の造船日本の礎になったというのが著者の見解でした。軍艦に関する本としては毛色の変わった本ですが、面白く読めました。文庫本ですが13ページほどの参照文献リストがつけられていて、そのうち読んでみたくなるものもありました。