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2010年11月23日火曜日

中立国スイスとナチズム


黒沢隆文編訳 京都大学学術出版会
2010年10月発行 本体9000円
1990年代半ば、第二次大戦中にナチスの略奪金塊をスイスが購入した件や、ホロコースト犠牲者の休眠口座の問題などで、アメリカ発の国際的なスイス批判が拡がり、スイスは外交的な圧力を受けることになりました。対策として、スイス政府はこれらに関する歴史研究のために、資料閲覧のための特別な権限を与えられた独立委員会を設置しました。5年間の調査・研究の成果としてまとめられた報告書の翻訳が本書の第一部で、また報告書を日本人がより良く理解するために歴史背景などを説明した5本の論考が本書の第二部になっています。一般的なハードカバーの本に比較して紙面の天地左右の余白が少ないレイアウトが720ページも続く大冊であり、特に第一部は公的な委員会の報告書ということで無味乾燥なものを予想してしまうかも知れませんが、そんなことはありませんでした。
第二次大戦期のヨーロッパに関しては、戦争それ自体の方に関心が向き、中立国スイスの事情についてはほとんど何も知りませんでした。それだけに、この研究の発端となった難民の受け入れ拒否やホロコースト被害者の休眠口座の問題などに関することよりも、それ以外の話題に新たな発見がたくさんあり面白く読めました。勉強になった点を少しだけ紹介すると、
  • 28ページ:「スイスの大手武器輸出企業、エーリコン・ビューレ株式会社の場合には、よりにもよって1939年から1945年の年次報告書が今日失われているが、これが偶然であるとはほとんど考えられない」日本の文献ではエリコン社と書かれていることが多いと思います。本書を読むと、エリコン社以外に武器自体の輸出を行っていた会社はごく少数しかなかったとのことです。
  • 181ページ:「表1 武器・弾薬・信管の輸出」に対日輸出額が1943年まで記されている。上記のエリコン社から導入した20mm機銃が、ノックダウン生産その後ライセンス生産されてゼロ戦など海軍機に装備されていました。でも1943年になっても対日輸出ができていたのでしょうか。もしそれが可能だったのなら、どうやって輸送したのか興味あるところ。
  • 48ページ:世界恐慌による金融危機→「国による再建支援に対する直接・間接の対価として、銀行界は、初の連邦銀行法の制定に同意せざるを得なかった」→「同法には銀行守秘義務条項が盛り込まれ、秘密保持を旨とする業務慣行が刑法上の罰則を伴う保護を獲得して大幅に強化され、外国政府による当該国市民の資産状況調査に対して防衛戦が引かれたのである。これによりスイスの金融センターが国際的な資産管理拠点としての地位を高めたことは、長期的にみて両大戦間期の最も重要な変化であった。」エンターテインメント作品などでもスイスの銀行の秘密保持は有名です。19世紀からの伝統もあったのでしょうが、刑法を含めた秘密保持の仕組みができあがった時期が戦間期だったとは。
  • 86ページ:「我々の敵がスイスを金融取引の拠点に選んだのは、単にその地理的な位置によるのではなく、スイスの銀行法や業務慣行が、身元を隠したり、取引を秘密にしたりしたがる者にそれを許すようにできているからでもある。」そして、その秘密保持の制度が大戦中にはドイツとの取引を許し、そして戦後には連合軍の追及や、休眠口座所有者の遺族の調査請求を拒む理由となてしまった。
  • 75ページ:「スイスの非常に多くの住民が、衣類や住居の確保の心配と言った、より実態にみあった問題よりも、難民の受け入れによって食糧確保が難しくなることを危惧していたとしても、なんら驚くべきことではなかろう。」ボートは満員という比喩が使われていたそうですが、当時のスイスの食糧自給率が50%程度だったということなので、一般の人たちがそう感じていたのも不思議はないし、実際に戦中には大規模な開墾が実施されたとのことです。ただ、戦中・戦後の調査ではスイス人の栄養状態は周辺のヨーロッパ社会と比較すると「楽園のよう」だったのだそうですが。
  • 85ページ:「スイスにおいて、戦中・戦後の間にはっきりした連続性がみられるという事実は、スイスが歴史的な審判に十分に堪えたという広く共有された印象と関連していた。この肯定的な国内政治でのイメージは、1943年以降の連合国、とりわけアメリカ人の間でのスイスに対するマイナスイメージと鮮烈な対照をなしていた。戦争終結時には、中立の評判は最低の水準に達しており、戦勝国はスイスを厳しく批判していた。」敗戦後の日本では、東洋のスイスを目指せと言われた時期もありました。日本からみると、大戦中のスイスは中立を守り、難民を受け入れ(本書からも実際に多数を受け入れたことが分かるし、Sound of Musicみたいなエンターテインメント作品もあるし)、赤十字国際委員会があって戦時中も日本とは交渉があったし、などの理由からまぶしい存在でしたし、存在です。しかし、ドイツと戦争している連合軍からみると、ドイツを助ける存在、戦争を長引かせた存在などと見なされていたという点が、言われてみれば当たり前ですが、言われないと認識できない私にとっての盲点でした。
  • 96ページ:「1933年から1942年の間に、ナチスの迫害を受けた人々にとってのスイスの重要性が根底的に変化したのは、明らかである。1930年代には、スイスは迫害された人々の数ある逃亡先のひとつに過ぎなかった。しかし1942年には、国境にたどり着いた人々にとってスイスは、多くの場合最後のチャンスとなっていた。」だからこそ難民の受け入れに関しては、責任を問われる国になってしまったということですね。
  • 103ページ:「1942年12月に国境から10kmないし12kmの幅の地域として定義された国境地帯を越えることができた者は、通常は送還されなかった。これは、地域住民がこれらの難民の送還に反対して、繰り返し抗議を行ったからである。」食料の心配をしながら、こういう行動をとった人が少なくなかったことは素晴らしい。人口430万くらいのスイスに、終戦時には11万人以上の難民が暮らしていた。
  • 114ページ:「とりわけ開戦前の数年間、スイスの難民政策は、ドイツのメディアから頻繁に非難されていた。しかし、難民政策を理由に、ドイツから外交的要求や軍事的脅迫などの圧力を受けたわけではなかった。」ドイツのこういう態度については全く知りませんでした。スイスはポーランド人やフランス人の元兵士なども受け入れていたそうです。
  • 166ページ:「連合軍が西方と南方から接近するのに伴い、スイスの物資供給状況は1944年から翌年にかけての冬に悪化した。というのも、連合軍の司令官は、長い交渉の末合意された大陸外からの物資供給の約束を反故にしたからである。そのため、1945年になっても、ドイツとの経済関係を維持しなければならない十分な理由があったのである。」戦時中の連合軍のスイスに対する見方が伝わってくるようなエピソード。
  • 169ページ:「スイスの対独貿易収支は、1943年を除き、赤字であった。」クリアリング協定というのが結ばれていて、赤字分はスイスからの貸しになっていた。
  • 174ページ:「ドイツの同盟国は、やはりスイスで戦争物資や機械を購入するために、スイスフランでの支払いを要求した。例えば、ルーマニアは、ドイツとの経済条約締結の条件にスイスフラン建決済を盛り込んだ。スイスフランはまた、スウェーデン(船舶)やスペイン・ポルトガル(タングステン購入)等の中立国との貿易でも用いられた。」これも、私なんかがなかなか気づかないような点で、とても勉強になる指摘です。
  • 178ページ:「スイスの対独輸出に対して資金を前貸ししたおかげで、他にも多くの点でスイスの利益が実現した。西側勢力が「コンペンセイション・ディール」と呼んだ取引によって、戦争遂行上重要な物資を、ドイツ占領地域を経由してイギリスやアメリカ合衆国に発送することが可能となったのであるが、これは、スイスにとって長期的にも重要な、ドイツ側からの譲歩であった。」フランス敗北後は枢軸国に周囲を完全に囲まれてしまったスイスですが、それでも対連合国貿易が可能だった。具体的にどう実施されていたのか、知りたいところ。日本語で気軽に読める解説はあるのだろうか。
  • 197ページ:「ドイツの軍備拡大に対するスイスからの輸出の効果を、戦時期に関していくぶん高く見積もろうと、あるいは低めに評価しようと、我々の研究の主要な結論に影響はない。それよりも重要なのは、スイスが1933年以前に果たした役割、すなわち、他のヨーロッパ諸国と同じく、ドイツの密かな再軍備の拠点として果たした役割である。この事前準備がなかったならば、ナチスドイツは、かくも短期間にヨーロッパ全体を席捲することはできなかったであろう」ベルサイユ条約でドイツが禁止じられた軍備の研究は、ソ連・スウェーデン・オランダなどでも行われていて、スイスの貢献度はそれらの国より低いかなと思います。これらの国はベルサイユ条約の締結国ではないし、少なくともナチスの政権掌握前の事柄に対してスイスを非難するのは行き過ぎかと感じます。
  • 199ページ:「電力は、金融サービス、鉄道による通過交通、軍需品供給と同様の重要性を有していた。」 軍需品供給は目につきやすい点ですが、電力、金融サービス、鉄道による通過交通(ドイツ・イタリア間はオーストリアのブレンネル峠経由は単線でスイス経由の方が輸送能力に優れていた)もドイツにとって重要だったというのは言われないと気づけなかった点です。
  • 358ページ:「1939年8月30日のいわゆる「全権委任決議」によって、議会は政府に、「スイスの安全・独立・中立の保持のために必要な(全ての)措置」を講ずる権限を与えたが、それには、当時の憲法に抵触する権限も含まれていた。」第一次大戦時に倣ってスイスも全権委任体制をとりましたが、独裁制にはつながりませんでした。
  • 476 「本書に示した研究結果は、それぞれの調査対象領域の間にある事実関係の相違を考慮に入れたとしても、経済的・政治的な自己利益のいずれか、あるいはその双方が、当事者たちの行動を支配しており、これが、民族社会主義者の時代の初めから戦後に至るまで、迫害された人々の扱いを一貫して規定していたことを、はっきりと示している。周囲を枢軸国に包囲された小国が直面した侵略の脅威やそれに対する危惧によっても、あるいは、ホロコーストについて何をいつ知ったのかという問題によっても、民族社会主義国家の犠牲者に対する疑問の余地ある行動様式を、うまく説明することはできないのである。」独立委員会の総括は正しいけれど辛口だなと私は感じます。本書を読み通してみれば、 スイスの人たちも国もまずは自分たちのために行動したというだけで、非難されるべきとは思えません。可能な範囲で難民も受け入れたし。戦後の行動(休眠口座の扱いなど)に関しては非難されるべき点が少なくありませんが。
  • 503ページ:「開戦半年前の1939年4月、連邦は、ハーグ条約でも認められていた民間企業による交戦国への「戦争物資」の輸出を政令で禁止した。しかし軍備が不十分なまま戦争に突入した英仏両国の圧力を受けて、開戦1週間後の1939年9月8日、連邦は上記の政令を撤回し、民間企業による武器輸出に道を開いた。枢軸国による包囲で連合国向けの輸出が困難となり、またドイツが姿勢を変えて兵器輸入に関心を示すようになる翌年5月までの間は、スイスからの武器輸出はもっぱら連合国向けであり、しかもその製造にはドイツからの輸入原材料が用いられていた。」連合国側にもこういうご都合主義的な行動をとった履歴があったことは初めて知りました。大戦末期になって連合国はスイスにドイツとの貿易など中止させますが、これもご都合主義。
ほかにも学んだ点がたくさんありますが、メモを途中からとらなくなったのでこのくらいで第一部の紹介はおしまい。
第二部に関しては、第一章多国籍企業・小国経済にとってのナチズムと第二次大戦がいちばん面白く読めました。スイスには第一次大戦前から多国籍企業が少なからず存在し、しかも第一次大戦時にスイスが中立を保ったにもかかわらず、在外子会社が連合国や同盟国の地に存在したことで企業活動に支障を来した経験がありました。スイス出身の多国籍企業がその教訓から第二次大戦にどういう対応をしたのかが詳しく例示・説明されています。特に、ネスレの話の中には第三次大戦を危惧した行動をとったことまで書かれていて、びっくりしました。第二次大戦下で中立と占領下とに分かれたスイス・スウェーデン・デンマーク・オランダ・ノルウェーの事情に、第一次大戦時に中立を保てたかどうかが影響しているという鋭い指摘も。本書に対応するような、スウェーデンの第二次大戦の経験について書かれた日本語の本があればぜひ読んでみたいですね。
さて、編者あとがきには「今日の時代状況の下で、本書がどのように読まれるかは、編者の予測を超えている。翻訳を着想した時代に編者が想像した一般的な読まれ方とは違って、あるいは本書は東アジアでの「戦後処理」に「教訓」を与えるような作品としてではなく、むしろ、自国の「公序」や価値観と相容れない巨大な隣国への「抵抗」と「順応」の間で揺れた社会が、自らの屈曲の歴史を振り返った作品として読まれるかも知れない。」と書かれています。この文章の意味が理解できなくなるような、そんな幸せな東アジアになってほしいとは私も思いますが、難しいのかも。ただ、そうは言っても本書はやはり「一般的な読まれ方」で読まれるべきものでしょう。中立国だったスイスが大戦終了後半世紀近く経って批判をあびることになった大きな理由は、冷戦終了によって国家同士のやりとりではなく、個人が声を上げる環境になったからです。日本に関しても、20世紀も終わりに近くなってから従軍慰安婦・強制連行などなどで声を上げる人が出てきたのは同様の事情だと思います。冷戦を利用して、例えば日中国交正常化の際にも無賠償で済ませてしまうようなずるいことを日本もしました。本来なら日本も本書をまとめた独立委員会のようなものをつくってでも、事実を隠蔽せずまとめておくべきだった(これからまとめてもいい)、そして個人賠償も含めて済ませておくべきだったと私は思います。損して得取る(徳もとる)ってことがどうしてできないのかな。それをしないで、何度謝罪すれば済むのかなんて言っていてもダメですね。「国益」を真剣に考えるなら、被害を受けた側に納得してもらうことが国益につながるいちばんの方法です。そうでないと何十年・何百年たっても、これらのことは日本についてまわるでしょう。元寇から700年ちかく経った第二次大戦中にも「神風」なんて言っていたのと同じように。
本書で疑問なところ、メモしたものだけ
  • 9ページ:プリーモ・レーヴィの説明に「1944年から1949年までアウシュヴィッツに収容されたが」とあります1945年まででしょうか。
  • 15ページ:「1946年5月のワシントン条約」というのは議会での批准を必要とする条約だったんでしょうか。Washington agreementというのがありますが、それのことでしょうか。228ページやそれ以降では「ワシントン協定」と書かれています。
  • 62ページに「恐慌イニシアティブ」、63ページに「危機イニシアティブ」というのがあります。どちらも1935年6月に否決された提案とのことですが、これらは同じものでしょうか。
  • 87ページ:「ドイツから略奪された金の購入に対する和解金」これは「略奪された金のドイツからの購入に対する和解金」と訳さないと誤解を招くのでは。
  • 191ページ:人名「マルドゥル」=「マンドゥル」?
  • 451ページ:「優勢的にユダヤ人であると考えられている」という文章がありますが、意味が分かりません。優生的にかな?それでも意味不明。

2010年11月12日金曜日

鉄道の世界史


小池滋他編 悠書館
2010年5月発行 本体4500円
四六版で751ページと厚めの本ですが、対象となる国が多数なのでそれでもページ数が少ないと感じるほど。 ヨーロッパ、北アメリカだけでなく、南アメリカ、アフリカ、東南アジアなどまで含めた50カ国ほどの鉄道の略史が地域別に収められています。各国の鉄道を創業から最近の事情まで、非専門家にも読みやすく紹介するとともに、世界の各地域ごとの特徴が分かるように工夫されていると感じました。イギリスやフランス・ドイツなどの初期の鉄道の歴史は有名なので知っていたこともありましたが、その他の国の鉄道の歴史については未知のことが多く、それを面白く読めたことは収穫でした。それに加えて、鋭い指摘もいくつもありました。例を挙げると
戦後の鉄道の発展史をみると、無傷の英米の鉄道が衰退の道を辿ったのに対し、破壊されたフランス、ドイツ、日本などの鉄道は、設備更新と近代化が進んだおかげで衰退を免れ、前進することができたのは皮肉な現象である
これはドイツの項119ページにありましたが、こういう見方もできるんですね。
現在のポーランドの鉄道路線網をみると、地域ごとに鉄道敷設密度が違っているのは、その部分の鉄道を建設・運営した「国」が異なっているためで、ポーランドの国土形成の複雑な歴史を如実に反映している。
これはポーランドの項、252ページにありましたが、白地図上に記された路線の密度が、旧ドイツ、旧オーストリア、旧ロシア領では確かにはっきり違っていて、その差の大きさに驚かされます。
多くの国の事情を解説した本ですから、執筆者も多数です。多くの人は、制約あるスペースの中で、非専門家でも読みやすいように、物語を書いてくれています。なので、読みやすい。でも、第10章ロシアのように、日付や地名の羅列に終始していて、非常に取っつきにくく感じる部分もありました。また、141ページのスペインの項には「1826年にブラジルなどの領土を失い」と書かれていました。こういう事実誤認が、ほかにもあるのかも知れません。とはいえ、楽しく読むことのできる本でした。おすすめです。

2010年11月6日土曜日

イタリア20世紀史


シモーナ・コラリーツィ著 名古屋大学出版会
2010年10月発行 本体8000円
熱狂と恐怖と希望の100年というサブタイトルの通り、冒頭は1900年7月の国王ウンベルト1世の暗殺で始まり、1999年に左翼民主党の首相がユーロの誕生を祝うところまでの一世紀が描かれています。単に20世紀史というタイトルがついていますが、基本的には政治史の本だと感じました。私は別にイタリアについて詳しい訳ではなく、また日本のことが常に頭の片隅にありながら読みましたが、そういう意味で学んだ点・気づいた点を上げてみます。
1861年のイタリア王国の成立から40年近く経って20世紀を迎えた訳ですが、この時点でも国民としての帰属意識・ナショナリズムが強くなく、また南部の後進性はこの頃から意識されていました。
イタリアの識字率はとても低かったとのことです。。ヨーロッパ史をひもとくと、プロテスタントの地域に比較してカトリックの地域の識字率の低さが指摘されますが、イタリアも建国時には70%以上が読み書きできなかったのだそうです。
ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいましたが、これは攻守同盟ではなく、同盟国が攻撃された時に自動的に参戦する規定だったそうです。それをたてにイタリアは第一次大戦に一年ほどは参戦しませんでした。資源に乏しく工業用原燃料の多くを輸入に頼っていたので、中立を保った期間中も、日本のように貿易で漁夫の利を得られた訳ではありませんでした。そして、連合国側での参戦後も、未回収のイタリアの問題があって一時的には国民の共感を得たものの、食料などの不足や戦場での敗北が続き厭戦気分が一般的になったそうです。日露戦争時の日本と比較すると不思議な気がしますが、その時点までのナショナリズム布教の成否が影響したのでしょう。
第一次大戦後、戦勝国となってはみたものの、インフレの亢進・巨額の対外負債などの経済社会問題やロシア革命の影響もあり、赤い二年間(1919~20)という北部での農民と労働者の社会闘争の盛んな時期を迎えました。これに対して戦士のファッシというグループが懲罰遠征と称して暴力的に労組や左翼党組織を襲い、放火や殺人にいたる事件が頻発しました。左翼の勢力拡張を快く思わない人たちが少なからず存在し、こういった暴力事件を地方自治体・警察などがきちんと取り締まらない状況が続き、左翼はやられっぱなし。日本で昭和戦前期に右翼のテロが共感を呼び、減刑嘆願書みたいな現象がみられたのと似ているのでしょうか。1922年にムッソリーニはファッシの行動隊を集めてローマ進軍を行いますが、これに対しても警察や軍隊は戒厳令を発して真剣に阻止しようとはしませんでした。そして、国王エマヌエーレ3世はファシズムと妥協する途を選び、ムッソリーニを首相に任命してしまいます。議会での議席数もヒトラー政権獲得時のナチスよりもずっと少なかったのに。このファシスト政権獲得の経緯は読んでいて本当に不思議。
イタリアが第二次大戦に参戦し、ギリシア・北アフリカ・地中海で敗戦が続いたことはよく知られています。それでも、ファシスト党の一党独裁はすでに20年以上も続いていたのだから、国内の基盤は盤石だったのではと思ってしまうところです。しかし1943年7月の連合軍のシチリア島上陸後に、ファシズム大評議会でムッソリーニの全権を国王に返還する決議が採択されて政権交代に至りました。日本で東条英機が政権を逐われたのは、かれが独裁党の首領だった訳ではないので不思議でも何でもありませんが、このイタリアの政変は不思議。政権獲得も不思議だし、ファシズムって何だったんでしょう。本書を読んでさらに謎が深まった感じ。ドイツや日本と違って、イタリアはすすんで大戦を起こした訳ではないし、戦争に対するイタリア国民の意識が健全だったということなのでしょうか。
20世紀後半の大部分は、共産党という有力な政党は政権から排除する形で、キリスト教民主党を中心とした連立政権が続きました。これは、日本で自由民主党の政権が続いた、党内の派閥が疑似政権交代と呼ばれるような首相交代を繰り返したのと似ている感じです。また、イタリアでは南部への政府資金の移転、日本では地方へのばらまきが政権維持のために行われるなど、まっとうな政権交代のないことによる弊害が積み重なった点も同じ。その結果、イタリアでも1990年代に政界再編が始まることになりました。西側の先進国と呼ばれた国々の中で、ある一定以上の大きさの共産党が存在した、イタリアと日本、そしてフランス。日本では共産党よりも社会党の方が大きかったと言う違いはありますが、東西冷戦のもとで共産党・社会党が政権を担うことの困難さがあった点では似ています。ただイタリア共産党のユーロコミュニズムに向けて変革の試みの方が、日本の社会党や特に共産党の変化のなさに比較すれば大胆だったのかな。日本の現在を見るにつけ、1960年代の日本の社会党の変革の欠如というか変革への志向の阻害がいかに有害だったかを思わざるを得ません(日本の共産党にはそもそもそんなこと期待できない)。
参照文献を示す50ページにわたる註がついています。ふつうこういう註の中の文献には日本語訳された本が含まれていて、日本での出版社や出版年などが付記されることが多いのですが、本書の註にはそれはなし。この分野の文献や書籍に日本語訳されたものが全くないということなのでしょうね。
本書は20世紀の通史なのですが、イタリアでは専門書として出版されたのでしょうか(しっかりした註がついているから専門書なのかな)?というのも、名古屋大学出版会は私の好きな方の出版社なので決して批判するつもりではないのですが、名古屋大学出版会からハードカバー本体8000円で発売される日本では、本書が一般人が気軽に買える書店においてもらえるとは思えない気がするので、なんとなくそれが惜しい気がします。
本書には著者によるはしがき・あとがきや、訳者のあとがきがありません。どうしてなのでしょう。監訳者さんは、22ページにもわたって解題という名の独演会を載せているのにね。