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2010年6月29日火曜日

グローバル化と銀


デニス・フリン著 山川出版社
2010年5月発行 本体1500円
三つの文章と解説が収められた小冊子です。一つめのテーマはグローバル化は1571年に始まったというもの。1571年はマニラが建設された年で、アメリカ大陸から銀が太平洋を越えて輸送され、中国の絹と交換され始めた契機としてとりあげられたものです。私はこの説についてはかなり微妙な印象を受けました。それまでもアメリカ大陸の銀はスペイン経由でアジアに送られていたわけですから、太平洋を経由する貿易が始まったことをそれほど重要視するのもなんだかなと感じるわけです。ただ、著者が触れているように、グローバル化にははっきりとした定義がないわけで、各々の論者が自分なりの定義で論じているわけですから、著者なりの定義に従ったグローバル化の開始を1571年にすることもありだとは思います。
中国に銀が輸出されたのは、ヨーロッパ(と日本)が輸入を希望する絹などの中国産品の代価としてだけではなく、他の世界と比較して中国での金銀比価が銀に有利だったからだとも著者は主張しています。そのため、銀は中国に流入し、金が流出する現象もみられたのだとか。中国の金銀比価が世界の他の地域と等しくなるには、およそ100年かけて数万トンの銀の流入が必要でした。これほど長期間かかったことで、銀を輸出することのできたスペインはヨーロッパで長期の戦争を続けることができたし、日本では徳川幕府の覇権獲得・維持に役立ったとも著者は主張しています。これはある意味、納得できる話です。
中国で銀が高く評価された原因は、明朝が紙幣制度を混乱させてしまい、銀を金融・財政システムの基軸に据えたからでした。このシステムが順調に動くためには、国内での産出の少なかった銀を輸入することが必要でした。この銀の輸入は中国に経済成長をもたらしたにもかかわらず、経済発展を阻害したというのが三つめの文のテーマです。著者の定義では経済成長は総生産高の成長を意味し、経済発展は社会全体の富の量の増加を意味します。総生産高は増加しても、銀輸入の対価として生産物の一部の輸出を余儀なくされます。なので、紙幣制度が維持されていた場合と比較すると、銀による通貨制度は経済発展を阻害したと著者は主張しているのです。これもその意味では正しいのだろうと思います。ただ、銀本位制度が維持され銀の輸入が続いた20世紀まで、中国の経済発展が阻害される悪影響を及ぼしたとする主張に対しては誤りではないのだろうけれども、本筋からはずれた議論だと感じます。経済発展に越えられない天井をもたらしたのは、資源獲得の限界にあったとするThe Great Divergenceのような議論の方が本筋でしょう。

2010年6月26日土曜日

江戸図屏風の謎を解く


黒田日出男著 角川選書471
2010年6月発行 本体1800円
明暦の大火(1657年)以前の江戸を描いた歴博本江戸図屏風と江戸天下祭図屏風とを対象にした本です。まず、江戸初期を描いた屏風を論じるために、命令の大火以前の江戸の様子を示し、複数残されている寛永江戸図について、誤字や描写などからその系譜を明らかにし、古い寛永江戸図については確かに明暦の大火以前に版行されていたことを論じています。
歴博本江戸図屏風については、描写の様式から後世に作られたものではなく、また家光の姿が描かれていること、きれいな姿で伝来していることから、家光の御成りの際に家光に見せるためにつくられたもの、おそらく知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が作らせたものだろうとしています。
江戸天下祭図屏風は、山王祭りの行列が江戸城内を練り歩く様子と見物する人々、大名屋敷を描いた屏風です。こちらについては、画面に取りあげられた大名屋敷の中で紀州藩上屋敷が中央に大きく描かれ、そこには初老の男女が主人公の様な姿で見物しています。著者はこの男女を紀州藩初代藩主徳川頼宣とその正妻瑤林院(加藤清正の娘)としています。そして、この屏風は明暦の大火後に紀州に戻る頼宣が江戸に残る妻に対して贈るために作成したものとしています。瑤林院は加藤清正夫妻とともに日蓮宗の信者で、京都の本圀寺に縁がありました。この屏風はその本圀寺に伝来したものですが、妻の死去後に遺品として本圀寺に贈られたのだろうと推測しています。
これらの屏風に関する先行研究はあまりないそうですが、その少ない先行研究に対して率直な批判を加えながらの立論は、説得的ではあります。ただ、これらの作品に対しては、作成を指示した人・絵師・作品を享受した人・伝来などについても明らかにすべしという著者の主張はどんなものでしょう。幸い、この二つの屏風には、作成の時期や主人公などを示唆する情報が多いのでそれも可能でしょう。しかし、ただの花鳥風月を描く作品だったら困難。作成を指示した人・絵師・作品を享受した人・伝来についてまで語ろうとしたら、まずそういった議論にふさわしい作品だけを論じる才覚が必要ですし、それをし難い分野の専門家もいるでしょうし。でもまあ、謎解き洛中洛外図に続いて、面白く読める本でした。

2010年6月24日木曜日

内奏




後藤致人著 中公新書2046
2010年3月発行 本体760円
サブタイトルが「天皇と政治の近現代」となっていて、古代と幕末は話の枕として触れられているだけです。本書の前半は主に大日本帝国憲法下の事例について説明されていて、主に昭和天皇のエピソードが中心です。後半は敗戦後・日本国憲法下での事例が取りあげられていますが、これも平成より昭和の方が主な対象となっています。
戦前は憲法に両議院が上奏する権利を持つ旨の記載がありましたが、その他の機関については憲法による規定はなかったそうです。ただ、公式令・軍令などや政治的慣習にしたがって、天皇に対する上奏・奏上・内奏などが行われていました。上奏・奏上・内奏などの区別についても必ずしも規定があったわけではなく、例えば軍は帷幄上奏を行えたわけですが、陸軍は上奏したのに対し、海軍は上奏よりも扱いが軽くて済む奏上と呼ばれる行為を行ったのだそうです。官僚制のなんたるかが表現されているようで、面白いですね。
昭和天皇は張作霖爆殺事件の田中義一首相の上奏(天皇は上奏と受け取ったが、田中首相は裁可を伴わない上奏=上聞と考えていたらしい)に対して不快を表し、辞職に追い込んだことがありました。これを反省して、自分が反対意見をもつ上奏に対してもかならず裁可することにしたのだそうです。しかし、上奏以前の段階の内奏に対しては、率直な御下問を行い、内奏する側の軍などはそれへの対応に苦慮した点があったそうです。
敗戦後、芦田首相は天皇への内奏を廃止して天皇を元首ではなく象徴として遇したい意向を持ち、また昭和天皇の退位も望んでいたそうです。しかし昭電事件で退陣を余儀なくされました。続く吉田首相は首相や閣僚による内奏を復活させ、その後の内閣の下でも内奏やご進講を行う職種は増えていきました。昭和天皇が内奏に対して御下問という形で意見を表明するのは敗戦前と同様で、政治家はこれによる影響を少なからず受けたようです。
本書には「上奏が日本国憲法施行後に消滅するのに、なぜ内奏は残るのだろうか。これが本書の基本的な問題意識であった」書かれています。それに対して、昭和天皇が在位し続け、しかも内奏という慣習にこだわったからだと著者は解答しています。私もこれが正解だろうと思います。
敗戦後に昭和天皇は退位しませんでした。私が思うに、昭和天皇は大日本帝国憲法下でも立憲君主であったと自身をみていたこと、輔弼機関の上奏に対しては基本的にすべて裁可する方針だったこと、また憲法第三条には天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスとあることなどから、敗戦に対して責任を負う必要を全く感じなかったのでしょう。また日本国憲法下でも、象徴という名前の立憲君主であり続けるもりだったでしょうから、憲法に定められた国事行為を行うためにも、内閣による内奏というかたちの助言があって当然と感じていたのでしょう。また、敗戦後から高度成長期の政治家は、天皇を現人神として感じた経験のある人たちだったので、象徴という名前の立憲君主に対して内奏を続けることに違和感を感じず、御下問という形の天皇の意見を可能なら尊重しようと考えたのだろうと思います。

2010年6月22日火曜日

iOS 4 の壁紙

今日はiOS 4の解禁日。iTunesにつないでみましたが、「お使いの iPhone ソフトウェアは最新です。 iTunes は 10/06/25 にもう一度アップデートを自動的に確認します。」と表示されるだけでした。でも、アップデートを確認のボタンを押すと、アップデートできました。うちではだいたい13分くらいで終わりました。



ロックを解除して見てみると、こんな感じに、これまでロック解除時の画面の壁紙にしていたものが、ホーム画面の壁紙としても表示されています。ホーム画面にも壁紙を表示できるようになったのがiOS 4の特徴ですが、私はもともとの黒いバックの方が落ち着いていて良かったと感じます。なので、240x360の大きさの真っ黒なイメージをつくり、iTunesでiPhoneに転送しました。設定ボタンの壁紙を使うと、ロック中の画面とホーム画面の壁紙は別々に設定できるようになっています。ホーム画面は元通りの黒バックに戻しました。
まだそれほど多くのアプリをつかった訳ではありませんが、いまのところどれも問題なく動きます。また、iOS 4にアップデートして遅くなったと感じることも、今のところはありません。

2010年6月21日月曜日

海軍護衛艦物語





雨倉孝之著 光人社
2009年2月発行 本体1800円
日本海軍の対潜水艦戦の歴史を扱った本です。第一次大戦で地中海に派遣された駆逐艦隊から説き始め、戦間期、そして太平洋戦争での破局に至るまで、とても分かりやすく解説されています。日本海軍は艦隊決戦主義に凝り固まっていて、海上通商保護についてはまったく等閑視していたものと思ってしまいます。確かに、財政的な問題もあって、実際には大した施策は実施されず、多くの海軍軍人が通商保護については無視していたのは確かです。しかし本書を読むと、第一次大戦中の経験や戦間期においても、海上通商保護の重要性を認識して、その強化を訴える海軍軍人(将官にも)がいたことがよく分かりました。
また太平洋戦争中、護衛艦の艦長や幹部の多くは兵学校出の海軍将校ではなくて、海軍予備員だった予備将校が任じられました。予備役の海軍将校と、本来は商船に乗り組んで仕事をしている海軍予備員とは全く違うものでした。イギリスに倣って明治時代に設けられた海軍予備員制度ですが、太平洋戦争の開戦まで、定期的な教育などのまともな能力向上の施策が行われていませんでした。こういったことも本書には分かりやすく説明されています。
太平洋戦争開始後、しばらくしてから商船・船員の被害が増え始めるわけですが、そのあたりを読んでいると、もっと早く降伏できなかったのかと感じてしまいます。まあ、特攻や大和の沖縄行きまでさせてしまう人が指導していた国だから無理なのは分かりますが。
クルマにはねられて脳挫傷になり、しばらく入院していました。退院後もいくつか症状が残っているのと、気力・根気の面で硬い本を手に取る気にならない状態なのですが、それでも比較的、気軽に読める本でした。大井篤さんの海上護衛戦を読む際の基礎知識も得られるので、おすすめです。