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2010年5月18日火曜日

スターリン 青春と革命の時代




サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ著
白水社 2010年3月発行 本体5200円
生い立ちからロシアの10月革命の時期までを描いたスターリンの評伝で、以前に紹介したスターリン 赤い皇帝と廷臣たちの時期的に前編にあたる本です。これまで、スターリンがグルジア人で神学校を中退したということだけは知っていたのですが、どういう経緯でソ連の指導者になれたのかについては全く知りませんでした。その点で、とても勉強になった本です。
彼は子供の頃から集団のボスになれる魅力と能力を持っていた少年だったそうです。神学校でも当初はトップの成績でした。また聖歌隊で活躍したり、結婚式で歌うバイトをしたり、歌がとても上手で、これはこの後もいろいろな場面で披露されます。さらに文学的才能もあって、彼の詩が地元の新聞に掲載されたこともありました。しかし在学中にマルクス主義に目覚め、ロシア社会民主労働党に入党します。20歳で神学校を飛び出すことになります。
コーカサス地方で非合法活動に参加することになります。印刷所を設けて新聞を発行したり、論説を書いたりなどに加えて、労働者を煽動(指導)してストライキを組織したりなど。1902年にバトゥミ(バクーからの石油を受け入れ、ヨーロッパ向けに積み出す黒海岸の都市)で組織したストライキは大規模で、弾圧により13名に死者を出すほどでした。
国外のレーニンのために資金を獲得することも彼らの仕事でした。コーカサス地方のボリシェビキの組織は、ヤクザに似たところがあって、富豪や石油会社などからみかじめ料を得ていたそうです。またこれに加えて、海賊行為や銀行強盗も行っていました。1907年にチフリス(トビリシ)での現金輸送馬車襲撃は爆弾で多くの死者を出し、世界的にも報道されました。日本でも戦前の共産党が資金獲得のために銀行強盗を行いましたが、単に思いついてやったというわけではなく、スターリンというお手本に学んだのでしょうね。
彼はレーニンの著作に惹かれてボリシェビキの立場に立つこととなり、こういった非合法活動を通してレーニンの知己を得ます。やがて、ロンドンなど国外で開催されるロシア社会民主労働党にも代議員として参加するようになり、ボリシェビキの有力者になっていったわけです。
こういった活動はロシアの秘密警察(オフラーナ)の注意を惹くことになり、彼は何度も逮捕されています。ロシア帝国というと、後進的な専制国家で弾圧がきびしかったという印象を持っていたのですが、本書を読むと、政治犯に対する処遇が手ぬるいように感じてしまいます。スターリン自身も帝政の寛大さを軽蔑して、「監獄はむしろ保養所に似ている」と述べていたそうです。スターリン時代の強制収容所の処遇の厳しさは、帝政時代の監獄をや流刑を反面教師としているようです。
戦前の日本でスターリン級の大物が逮捕されたらきっと死刑にされてしまったのではないかと思うのですが、どうでしょう。また、流刑でさえ刑期が最長5年で、しかもお金を外部から送ってもらえれば比較的文化的な生活が送れました。また、その気になれば簡単に脱走することもできました。そのため、 彼は何度も流刑になったわけです。
スターリンがオフラーナのスパイだったという説もありますが、著者はそれを採りません。しかし、ボリシェビキの内部にオフラナのスパイがいたことは確かで、革命後にそれが発覚した高位の人物もいます。スパイの存在とスパイ対策の必要性がもともと非合法活動に手を染めていたスターリンの考え方に影響を与え、その後の大弾圧につながった面があるのですね。オフラナはロシア革命の阻止自体には失敗しましたが、ボリシェビキが存在しない裏切り者を30年以上にわたって探し続けさせる成果を上げたとも言えます。
革命後、スターリンがボリシェビキの指導者の一人となっていった理由として、もともと非合法活動でレーニンに貢献し知己を得ていたことに加えて、「彼の背後に地方出身の無数のリーダーたちが控えていること」が挙げられます。基本的に国内で活動し続けたスターリンは地方のボリシェビキ指導者の突出した典型だったわけです。この点、ユダヤ人でスター性のあるトロツキーとは革命以前から相容れない存在でした。
以上の政治的な事柄に加えて、スターリンが魅力的で女性にもてたこと、複数の子供を儲けていたことなども書かれていて、興味深く読めました。本書はソ連崩壊後に利用できるようになった公文書館の史料なども加えて叙述している点が特色なのですが、侵すべからざる最高指導者のゴシップや庶子の存在を示す史料まで保管している公文書館が存在しているロシアの国柄には感心しました。

2010年5月9日日曜日

トレイシー




中田整一著 講談社
2010年4月発行 本体1800円

日本兵捕虜秘密尋問所というサブタイトルがついています。なにも拷問などが行われたから「秘密」というわけではありません。本書を読めば分かるように アメリカの日本兵捕虜に対する待遇は、日本の捕虜収容所のそれに比較して数等上でした。ただ、普通の収容所での捕虜に対する尋問と違って、このトレイシーにあった施設では盗聴も行われていて、それがジュネーブ条約に違反するので、近年まで秘密にされていたということです。

捕虜秘密尋問所は、東海岸にもドイツ兵向けのものがあったそうです。そして、この種の施設を設けること、尋問のテクニック、盗聴などの技術は、もともとイギリスが対独戦で使用していたものがアメリカに供与されたものだそうで、イギリスの手練手管には感心するばかりです。それに対して、生きて虜囚の辱めをうけるなということのみ強調し、実際に捕虜になった際の対処法を教育しなかった日本軍の非合理性が浮き彫りにされ、情けないかんじがしました。緒戦の日本兵捕虜の士気の高さが強調される一方、サイパン玉砕頃から日本兵の士気の低下がアメリカ側にもはっきりわかったそうです。その後の戦いでも死ぬまで戦ったのは、捕虜となることが許されず、死ぬほかに道がなかったということなのでしょうね。

なので、たまたま捕虜となる機会があれば、鬼畜と教えられてきたアメリカ人から比較的寛大に扱われることで、いろいろと尋ねに応じてしゃべるようになったことはやむを得ないと思われます。それにしても、皇居の中の建物の配置や、日米開戦後に開設された飛行機やエンジン工場の様子などまでアメリカ側が知っていたとは本当に驚きです。

とても面白い本でした。このトレイシーを経験した元日本兵捕虜で近年まで生存している人が複数いて、90歳台の彼らのインタビューまで試みていることには脱帽します。

で、130ページに操縦士がゼロ戦について証言していますが、携行弾数が20ミリ機関砲一基につき200~300発、7.7ミリ機銃一基につき70発と書かれています。これは逆ですよね。20ミリ機関砲は大威力だけれども携行弾数が少ないのが欠点だったはずですから。故意に捕虜が嘘を証言したのか、アメリカ人尋問者のミスか、この本の著者の間違えか、どれでしょう。

2010年5月5日水曜日

帝国日本と財閥商社



春日豊著 名古屋大学出版会
2010年2月発行 本体8500円

恐慌・戦争下の三井物産というサブタイトルがついています。生糸、石炭、砂糖、金物、機械など有力な商品をラインナップに持ち、1920年代には遊資をかかえるほど三井物産は安定していました。しかし、世界恐慌の影響による最重要商品である生糸の価格の低下、日中戦争で重化学工業化や日本国内の統制の動き、日独伊三国同盟・第二次世界大戦の影響、日米通商航海条約の破棄、対英米開戦などの時代の変化に対応を余儀なくされていきます。

ただ、三井物産は傘下の企業数、信用力、資金力、支店ネットワークなどの点で他の商社に比較して有利でした。このため、世界的な不況に対しては国内市場での拡大を図ったり、統制の動きに対してはカルテルへの参加や生産者に対する投資などで対応したり、太平洋戦争開戦後にも植民地での投資や占領地での活動を慫慂されたり進んで行うなど、戦争末期まで事業規模を維持・拡大させ続けたというところが本書で述べられていることでしょうか。

他の主要商社に比較して三井物産が不況の1920年代にも安定した利益をあげていたのは、石炭、機械などが高い利益率だったからだそうです。特定商品の取り扱いに特化した商社と総合商社という対比からすると三井物産は総合商社だったのかも知れませんが、実態としては複数の有力な分野を持った商社だったように読めました。また、東南アジアからアメリカへのゴムや錫の輸出、麻原料・麻袋のインドから満州への輸出、満州からヨーロッパへの大豆の輸出など、三国間貿易で少なからぬ利益を出していた点などは三井物産の力量を示していますね、たしかに。

ただ、弱点もあったはずで、比較的高学歴・高収入の社員が多かったことからくるコスト髙の影響などもあったのではと想像されますが、どうなんでしょう。また、メーカーに対する融資や資本参加によって原料の一手購入、製品の一手販売権を得るのが三井物産のやり口だったわけですが、東芝の自販への志向に苦慮していたことや、生糸の有力メーカーだった群是・片倉の製品を無口銭で取り扱ったというエピソードなどが書かれています。恐慌や戦争の影響が大きかったこの時期に限らず戦後も含めて、長い目で見ればメーカーの成長によって商社の仲介が不要となる分野は多いのでしょう。

第二次大戦開戦後にドイツの希望するシベリア鉄道経由の貿易をイギリス・カナダによる報復的禁輸を恐れて当初は控えたということ、アメリカの資産凍結後は従来少なかった南アメリカへ食い込みを計ったことなど、興味あるエピソードです。あと、591ページに中国四大産品として生糸・茶・桐油・鶏卵で、鶏卵加工品が中国第二の輸出品と書いてありますが、鶏卵の輸出がそんなに多かったとは驚き。

日中戦争開始後の統制の強化に対応して、統制組織の中に入り込む努力がなされました。また、日米開戦後は中国占領地や南方で物資の収買や軍受命の活動が多くなされました。そして、対日期待物資の供給が不可能となる太平洋戦争後半の時期には、中国占領地・満州・朝鮮などで生産事業会社の設立に出資することまで求められるようになっていったそうです。

敗戦の予想というか、出資が全て無駄になる予感はなかったんでしょうか。文書として残せるような事柄ではないので、史料からは読み取りにくそうではあります。また、実際に占領地で仕事をした人たちからの聞き取り、オーラルヒストリーも敗戦後65年も経過しているので、生物学的に不可能なのかも知れません。でも、そういう人たちの残した記録類もあるはず。本書はその方面に関してはほとんど触れていません。そういう種類の本は他にあって、本書は三井文庫の史料を活用するためのものだと言われればそれまでですが。

「本書は、断続的に発表してきた論考を大幅に修正・加筆し、それに新たに書き下ろした論考を合わせて」とあとがきに書かれています。しかし、単に既発表の論文をまとめただけではないというわりに、同じ事項が繰り返し書かれている傾向があって、読んでいて多少うんざりする感じを持ちました。800ページちかい大冊なのですが、そうすればもっと短くなったのでは。