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2010年12月31日金曜日

古語の謎


白石良夫著 中公新書2083
2010年11月発行 本体780円

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ

私でも暗唱できるくらいに有名な、この人麻呂の和歌。 万葉集では「東野炎立所見而反見為者月西渡」と表現されているそうです。万葉集には読み下し方は書かれていませんが、平安時代から江戸時代の初期までは、
  • あづまのの けぶりのたてる ところみて かへりみすれば つきかたぶきぬ
と読まれていました。その後、契沖の業績を踏まえて、荷田春満が前者の読み方を示しました。この読みは定着し、それまで和歌の中で使われる言葉ではなかった「ひむがし」を詠み込んだ歌がたくさんつくられるくらいポピュラーになったのだそうです。
このように、日本の古典学である古学(いわゆる国学、著者は古学・いにしえまなびと呼んでいます)によって江戸時代以来あげられた成果の例が本書には紹介されています。しかし、古学を単純に素晴らしいものとしているわけではなく、その成果を相対化してみる必要があることを指摘しています。例えば「ひむがしの~」という読みも、本当に人麻呂がそう詠んだという証拠はないのです。
作者自筆本が残っていないのはなぜかという話から、古学の中にある、オリジナルを求める精神にも警告を与えています。パソコンのなかった時代に紙に書かれた作品だと、作者が最初から決定稿として完成して他者に読ませることができたわけではないでしょう。誤字だってあるだろうし、繰り返し推敲もされただろうし。なので、伝本自体、その形になって伝わったことを一つの歴史的事実として、受け止め研究する対象になるわけです。また、偽書でもそう。史学で偽文書自体をとりあげて、作られた目的などなどを研究するのと同じ感じでしょうね。
紹介されている例自体も面白いし、文章も理解しやすく読みやすいし、良い本でした。ただ、タイトルは内容にそぐわない感じ。こういう新書のタイトルは、著者でなくて出版社の編集者が考え出すのかなって感じるくらい。

2010年に読んだ本のベスト3

今年は事故で脳挫傷を経験したこともあって、例年より読んだ本の数が少なくなりましたが、それでもいろいろな本に出会いました。興味深い本がたくさんあって、ベスト3でも選ぶのは難しいのですが、とくに勉強になった本といえば以下の3冊でしょうか。順不同
マーク・C・ベイカー著 岩波現代文庫G247
2010年12月発行 本体1420円
生成文法ってどんなものなのか、分かりやすく教えてくれる好著
黒沢隆文編訳 京都大学学術出版会
2010年10月発行 本体9000円
大戦中も中立を守り、日本人からすれば仰ぎ見る存在であるスイスの、もう一つの面を教えられました。
和田一夫著 名古屋大学出版会
2009年9月発行 本体6510円
日本の製造業で互換性生産・大量生産が定着してゆく課程を紹介してくれる本。しかも、専門書とは思えないくらい読みやすい本です。
今日はきらきら陽射しのある冬らしい日です。このまま明日も晴れて、初日の出と富士山が拝めるといいなと思います。

2010年12月29日水曜日

言語のレシピ


マーク・C・ベイカー著 岩波現代文庫G247
2010年12月発行 本体1420円
日本語と英語はとても違った言葉のように感じます。しかし、動詞と直接目的語・句・節の前後関係、名詞と修飾する句との前後関係、名詞とともに前置詞・後置詞のどちらをつかって名詞句を作るか、主動詞と助動詞の前後関係などの点で、英語は主要部が先行する性質、日本語は主要部が後続する性質を持っていて、この一つのパラメータでふたつの言語の関係をきれいに説明できるのだそうです。読んでみて、目からウロコ的な感想を持ちました。本書はこんな風に、日本語、英語、モホーク語といった相互に無関係のように思える言語どうしが、いくつかのはっきりとした特徴・パラメータをつかって関連づけ・分類ができることを教えてくれます。
ヒトの言語を作り出すレシピにはいくつかのパラメータを選択する余地があり、塩を入れるかどうか、イーストを入れるかどうかといったパラメータを選択してできあがった各言語はとても違ったもののようにみえます。それでも同じレシピからできている、これが重要。とても違ったように感じられる各言語をそれぞれの土地の子供がたやすく習得できるのは、ヒトには生まれつき言語を習得する能力が備わっているから。逆に言えば、ヒトの言語はヒトに生来備わった機構・レシピからつくりだされたものと考えられるわけです。そして、ヒトには生まれながらにしてその大まかなレシピが身についているので、周囲のつかう言葉を耳にして各言語を特徴づけるパラメータに気づくことができれば、その言語を習得できることになります。そういったパラメータが存在することのエビデンスとして、各々の言語を特徴付けるパラメータを実際に子供が選択して身につけて行く過程から実証する研究も説明されているので、私は本書の内容、レシピが存在するという考え方を信じることにしました。
言語学ってどんなことをしている学問なのか、ほとんど知らなかったのですが、 生成文法ってこういうことだったんですね。とても分かりやすい入門書でした。特に、地球上の言語の中でそれぞれ40%ほどをしめる主要部先行言語と主要部後続言語の代表として、英語と日本語が例として説明されていることが多く、その点で日本人の読者は本書を読みやすく、理解しやすくて得な感じです。とにかく、とても面白かったので、これからこの分野の本を探してもっと読んでみたくなりました。

2010年12月24日金曜日

明治日本とイギリス


C・チェックランド著 法政大学出版局
1996年6月発行
出会い・技術移転・ネットワークの形成というサブタイトルがついているように、開国前後の時期から第一次大戦の頃まで、日本とイギリスの関で交流を行った人たちを描いた本です。外交官のみならず、海軍軍人、貿易商、ジャーナリスト・御雇い外国人、留学生などなど、イギリスから日本に来た人、日本からイギリスを訪れた人の両方が対象となっています。多くの人が取りあげられている点は良いのですが、個々人について得られる情報はごく簡単なものです。良くも悪しくもイギリス人向けに書かれた本で、日本人がこの分野に関して新たに学べる点は少ない本だなと感じさせられました。
10名の人が分担して翻訳しているのですが、どの章も日本語としては非常に読みにくい表現ばかりです。私は日本人で、日本のこの時期について最小限の知識があるので拙劣な表現でもなんとか理解しながら読めましたが、楽しい読後感は得られません。
法政大学出版局は信頼できる出版社だと思っていたのですが、どうしてこんながっかりな本を出版したのでしょう。監訳者と著者とは面識があるそうなので、ゼミででも輪読した本をメンバーで分担して訳書として出版させたのかな。そんな風に勘ぐりたくなるくらいの本でした。

2010年12月19日日曜日

日本経済史6 日本経済史研究入門


石井寛治他編 東京大学出版会
2010年9月発行 本体5500円
冒頭に、高村直助・石井寛治・原朗・武田晴人さんによる「体験的」経済史研究と銘打った座談会が収録されています。学生時代からの経験が述べられていますが、マルクス主義の影響に加えて、高度成長期以前に大学に入ったことが、この世代には大きく影響しているなと感じられます。日本が貧しかった頃を知っている世代と、私なんかのように貧しさから抜け出しつつある頃にものごころついた世代と、現在のように新たな貧困が問題となって久しい頃に学生になる世代とでは、何を問題とするか、興味の持ち方・切り口が当然異なってくるでしょうから。
また、本シリーズの刊行に当たってという冒頭の文章には、1965年以来、「近代日本についての『経済史らしい経済史』の体系的シリーズが企画・刊行されることはなかった」と書かれています。座談会の中にも「岩波の『日本経済史』(岩波書店1988-1990)を読んでいれば十分で、それ以外は関係ない、という雰囲気なんですよ。それは困るんじゃないか」という発言がありました。門外漢には、経済畑・数量経済史と歴史学の経済史のこういうあたりの分断のされ方はなかなか見えにくいので、率直な表現で教えてもらえてありがたく感じました。
また、「在来産業研究もちょっと先が見えてきたんじゃないか、どうも、あえて行き詰まりの道を突き進みつつあるんじゃないかという感じがします。たとえば谷本雅之さんのように、あんなに近代的発展と切り離して議論してはいけないと思うんです」という発言にも、そういう見方もあることを教えられて驚いています。もっと大きな構図で先を見据えた研究でないという批判のようですが、谷本さんの「日本における在来的産業発展と織物業」はとても面白い本だと私は思いましたが。
斉藤修さんの書いた第3章数量経済史と近代日本経済史研究、杉原薫さんの書いた第4章比較史の中の日本工業化も学ぶ点が少なくない。例えば、第3章では国民総所得・総生産という概念が希薄だった時代があったことを教えてもらいました。また、第4章では工業化の普及に資本集約型と労働集約型工業化の二類型を区別できる、日本は後者の代表例であること、この二類型に世界システム上の補完性を見ています。世界システム論ではA局面で中枢を構成する国・地域と周辺・半周辺との違いが明確化し、B局面ではそれが不明確化して中枢と周辺・半周辺国との入れ替わりが起きますが、この二類型は20世紀末の入れ替わり・アジア諸国の工業化・上昇過程の説明にも使えそうで興味を引きました。
「経済史研究を志す若い世代に贈るガイドブック」と本書の帯には書かれていますが、そのとおりに第5章以降は資料論ということで、資料の探し方、扱い方などが述べられています。また第11章は経済史の技法ということで、研究のイロハから論文の書き方まで指導する章になっています。
医師の場合も、医学生から研修医の頃に文献検索の仕方や症例報告の仕方・書き方を学びます。私のように臨床だけで過ごした医師でも臨床の経験から気づくことがあり、調べて、新たな発見と確信できれば報告するトレーニングを一通り受けているわけです。そして、基礎に行く医師や研究・教育職に就く医師は単なる臨床医以上のトレーニングを受けますが、 経済史を学ぶ学生さんの場合にも、経験から問題を見出すのではなく、自分のそれまでの人生と学習から問題を見出さなければならない点では、研究者としての態度が求められるのでしょう。しかも必ずしも将来、職業としてポストを得られるかどうか不明な点はきびしいのかな。

2010年12月18日土曜日

漢文と東アジア


金文京著 岩波新書新赤1262
2010年8月発行 本体800円
漢文訓読について、日本での歴史・変遷、起源が漢訳仏典にあるらしいこと、訓読が日本のみならず朝鮮半島にもみられて日本には新羅から伝わったらしいこと、日本・朝鮮だけでなくベトナム・ウイグル・契丹などにも訓読に似たものがあることなどが読みやすく説明されています。特に漢訳仏典との関連は、とても勉強になります。
日本で書かれた漢文に倭習と呼ばれる表現が多いこと、漢字文化圏で漢詩がやりとりされたり外交文書が漢文で書かれたりなどしていたことはよく知られています。第3章漢文を書くでは、それらを説明するとともに、漢字文化圏の他の国でも倭習と同様の現象・変体漢文がみられることも述べられています。また、日本の古文書で頻繁にお目にかかる候文の起源が宋代の手紙の文体にあるとは知りませんでした。さらに、現在の日本の文章語の基となった明治期の新文体を変体漢文という視点からとらえること、そしてその明治の新文体が漢字文化圏の国々の現在の文章表現に影響を与えたという指摘には驚ろかされるとともに、一国史観を脱して東アジアの文化を総合的に考察するためには、規範的漢文(学校で習う書物の漢文)だけでなく、変体漢文を含めて漢字を用いて書かれたすべての文体の実態と相互関係を説き明かすことが必要だと指摘されていて目のつけどころのシャープさに感心しました。新書とはいえ、とても学ぶ点の多い本でした。おすすめです。

2010年12月11日土曜日

安保条約の成立


豊下楢彦著 岩波新書新赤478
1996年12月発行 本体780円
冷戦、中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争など敗戦後の情勢の変化を追い風として、日本は寛大な条件で講和を結ぶことができたというのが定説です。従来は1950年4月に訪米した池田蔵相を代表とするミッションの役割がこれまでは重視され、首相外相を兼任した吉田茂のリーダーシップの下で交渉が行われたとされてきました。しかし、その寛大な講和条約と同日に結ばれた日米安全保障条約の交渉過程およびその内容を検討すると、必ずしもそうではなかったことを本書は示してくれています。
朝鮮戦争への日本の協力を確実なものにするためには講和条約を結ぶ時期に来ている、朝鮮戦争によりアメリカは日本に基地を置くことを必要としている、 日本国民は独立後に外国軍が駐留し続けることを望んではいない、また海を越えてソ連が日本に侵略することはない、という認識を吉田首相や外務省は持っていました。したがって、アメリカが日本国内に基地を維持し続けること提案して日本が同意する、しかも国連憲章・総会決議などに根拠を求めた形で受け入れるなど、日本になるべく有利に交渉を行うつもりだったことが、外務省の資料から論証されています。
しかし、実際の日米安保条約には、日本の求めに応じてアメリカが駐屯するという表現が盛り込まれました。しかも「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」だけを得たアメリカの軍隊は必ずしも日本防衛を義務とはせず、かえって日本以外の極東における国際の平和と安全に寄与する目的でも日本の基地を利用できるという極東条項まで盛り込まれていました。外交官出身で外交センスも確かだったはずの吉田首相の政権下でどうして屈辱的な条約が結ばれることになったのか。著者はその理由に昭和天皇の介入を挙げています。
朝鮮戦争から日本有事の可能性を連想した天皇が、日本有事は天皇制の有事につながることを恐怖して、吉田首相やマッカーサーなどの頭越しにダレス・アメリカ本国へとアプローチしたのではないかと。独立後の日本にアメリカ軍が駐留し続けることは天皇制を安堵してくれる。特に安保条約に盛り込まれている、外国の教唆・干渉による大規模な内乱・騒擾に対してアメリカ軍が援助を与えるというくだりは、天皇制の護持につながると天皇が考えたというわけです。そして、本来なら吉田首相がリーダーシップを発揮して、もっと有利な条件での安全保障条約を締結できたはずですが、天皇は吉田首相の内奏の際などに「御詰問、御叱り」などで路線変更させたのだろう。その証拠に、講和会議への出席を吉田首相が固辞していた。ただそれも天皇への内奏の席で出席するように求められ撤回したのだろう、というのが著者の説明です。
今年の6月に中公新書2046「内奏」を読みました。そこでは、日本国憲法下で法律上の根拠をなくした内奏が継続していった理由として、昭和天皇が在位し続けしかも内奏という慣習にこだわったからだとされていました。そして天皇が内奏の継続にこだわれば、この当時の政治家は永年の大日本帝国憲法下での国制に慣れ親しんだ人たちですから、天皇からの下命があればそれに従うのが当然と感じていたのでしょう。特に吉田首相は臣茂と署名した人ですし。また、天皇自身は何を考えてそんな行動をとったのか。自分一身の保身のために行動したという可能性もないわけではないでしょうが、それよりも天皇制を維持することが自分の使命だと考えて行動したと言う方がしっくりくるだろうと思います。
講和条約・日米安保条約交渉の研究で、著者が唱える本書の説が定説になっているのかどうか、門外漢の私には分かりません。ただ充分に説得力ある説明だと感じました。またもしこの説が正しいのだとすると、日米安保条約交渉のこの時の変針は、その後60年以上にもわたって日本に悪影響を及ぼし続けていますし、また沖縄の軍事占領継続を認める・求める沖縄メッセージにしてもそうですが、戦前戦後を通じて昭和天皇は罪多き人だと感じざるを得ません。自分の意思によらずに君主・象徴なんて地位につかされていた点にはご同情申し上げますが。

2010年12月7日火曜日

大地の咆哮


杉本信行著 PHP文庫
2007年9月発行 本体743円
チャイナスクールに属していると自ら書いている外交官で、上海総領事も務めた方の著書で、2006年にハードカバーで発行されたものが文庫化されたのだそうですが、タイトルの「咆哮」にルビがふってあって驚きます。著者は外務省入省後、1974年に中国語研修のために中国に派遣されました。 著者は中国に関する事象とその背景をかなり長期的な視野から分析して日本人への提言をしていますが、四人組健在で周恩来も生きていた1974年という時期から中国を体験してきたことが、それを支えているようです。
本書の冒頭の解説には「中国との関係が十数年かかってここまで悪化した」と書かれていますが、私にはとてもそうは思えませんし、おそらく著者もそうは考えていないでしょう。国交正常化、日中平和友好条約やその頃の日中友好ムードは、中国政府にとって必要だったからこそ実現したのだと思います。それに悪のりして、中国側の賠償放棄を成果と誇ったり、そして尖閣諸島を含めた領土問題の確定を怠ったりした日本政府の先見のなさこそ責められるべきです。また、現在の日中間の緊張は、今や中国政府にとって日中友好が必要とされてはいないからだと認識することが重要だろうと私は思うのです。
著者は、江沢民の三つの代表理論で
「中国共産党は「プロレタリア独裁」という一つのテーゼを放棄した。だから党の支配の正当性および正統性を維持するためにイデオロギー的空白を埋める必要に迫られ、国民のナショナリズムを煽ることにより、それを達成しようとしているのだ」
と鋭く指摘しています。抗日の歴史や台湾統一を掲げることはそのため。また現在の
「反日運動は中国政府が国内的に必要だからやっているわけだが、それをやり過ぎると結局は中国政府自身に跳ね返ってくる」
という著者の見解はもっともだと感じます。また著者は、党が反日デモを抑えようとして治まらない事態があったことや尖閣諸島への領海侵犯に関して、軍が党に従わない、シビリアンコントロールの不十分さを指摘しています。中国政府が一枚岩でない(かつての日本でいえば、幣原外交と軍部の関係みたいなのかも)とすれば、日本人の反応が過激になることは指導部の軍に対する立場を悪化させることを考慮しておかなければいけないでしょうね。新中国建国以来、大躍進・文革・核開発・中越戦争などの問題を起こしことは確かですが、中国政府が北朝鮮などとはちがって、より了解可能な、対話の可能な存在であったことも確かですから。
また、日本では政治・経済・軍事大国化しつつある隣国中国に対して脅威を感じる人が多くなっています。しかし著者は中国自身が貧富の格差・水不足・環境・農村・高齢化問題などの弱点を抱えていること、中国自身も脅威を感じていることを指摘しています。それに絡めて日本の中国の接し方について著書は、
「中国の脅威とはいったいどこからくるのか。それは外部からの脅威というより、これまで放置してきた内部矛盾の爆発からくるほうが大きいのではないか。それが「中国の”国内ODA”の誘い水」を通じて避けられますよ、中国に向かって訴えるのだ。これは軍事費を増やすなら円借款を中止すると迫るより、よほど説得力があるのではないか。もう一つ、環境対策はもう待ったなしで、円借款であろうと無償資金援助であろうと「草の根無償資金協力」であろうと「日本の環境問題」として実施していかなければならないのではなかろうか。酸性雨の防止、ゴミ対策など、放置しておけば日本に大変な被害が及ぶ。中国も環境問題の深刻さに気づいている」
「外国への資金援助とは、最低限の見返りとして、その国が将来、日本の脅威にならないため、負担にならないほどの友好国となるための投資である」
と指摘しています。日本のすぐ西側にある巨大な国、中国。私たちとは異質な面を多分にもった存在であり、脅威に感じる点もあります。個人的に中国を脅威に感じて日本からどこか他に移住する人もいるのかも知れませんが、日本人全員がそうするわけにもいきません。ですから、中国がなるべく付き合いやすい存在になってもらうように行動してゆくこと、「わが国のための対中援助」「損して得取る」が日本政府の方策になってもらわないと困ります。

著者は台湾に勤務したことがあるそうで、台湾についても一章さいて触れています。
「今後、日本の台湾に対する対応が、とりわけアメリカと比較して極端に冷淡である場合には、若い世代の日本に対するイメージが悪化する潜在的な危険が存在する」
という指摘は重要だと感じました。

2010年12月5日日曜日

ダウニング街日記 上下


ダウニング街日記 [上]
ジョン・コルヴィル著 平凡社
1990年6月発行 本体3864円
ダウニング街日記 [下]
ジョン・コルヴィル著 平凡社
1991年2月発行 本体3864円
著者のコルヴィルさんは男爵と侯爵の孫で、パブリックスクールからケンブリッジ大学を終えて、イギリス外務省に就職。トルコとペルシア担当で仕事を始め、第二次大戦開戦を機に1939年9月10日から日記を付け始めます。そして翌10月に、チェンバレン首相の秘書官に抜擢されました。チェンバレン内閣下では、チャーチルを「エネルギッシュだが協調性がない」と評し、危険な計画を立てて実行させようとする、騒ぎを起こす人物と感じていました。しかし、1940年5月に首相がチャーチルに交替した後も秘書官を続け、長らくチャーチルから親しく扱われる人となりました。イギリス空軍に志願して1941年10月から戦闘機パイロットとして訓練を受け、短いながら実戦も経験しました。そして1943年12月からふたたび秘書官としての仕事を再開します。1945年の労働党内閣成立で外務省に戻りますが、1951年にチャーチルが首相に復帰すると乞われて再び秘書官となり、その辞任まで働きました。本書は、権力のかたわらでというサブタイトルがついているように、主に首相の傍らで秘書官として過ごした時期の日記をまとめたものでした。
日記をつけ始めたのは25歳ですが、観察と分析の鋭さは読んでいて25歳の日記とは思えない感じです(最後の方は40歳近くになっているから当たり前かも)。チェンバレン、チャーチルの身近な者に見せる動きや発言(かなり率直な発言が少なくない)から、彼らが事態をどう考え、どう対処しようとしていたのかが活写されている点が本書の読み応えのある点です。例えば、ドイツがソ連を攻撃した時点で、チャーチルとその周囲では勝てることを確信したことが分かります。残念なのは、空軍勤務を志願して大戦中期は抜けてしまっていることで、日本の攻撃やアメリカの参戦に対する感想は書かれていません。全体を通じても、日本に関する記述はとても少なく、日中戦やそれに対してアメリカと協調して日本へ厳しい態度をとったこと、朝日新聞の記者が首相官邸を訪れて取材したことくらいでしょうか。 下147ページに「足の不自由な駐英日本大使、重光が十番を訪れ、首相に離任のあいさつをした。重光が親英派であることは知られており、それが理由で本国に召還されるのだと思う」と書かれていました。
上巻ではバトルオブブリテンの様子や、日常的に爆撃を受けるなかでの人々の生活も興味深いところ。また、著者は上流階級出身で、祖父母・父母の関係から王族や貴族との交流があったことが描かれています。パーティや年代もののワインや馬に乗っての狐狩りなどなど、イギリスの上流階級の人たちが戦争中にどんな暮らしをしていたのかをかいま見ることができます。労働者階級との格差の意識はかなりあるようで、1941年9月にチャーチルはスコットランドの工場視察ツアーに出かけ労働者たちから歓声を受けましたが、同行した著者が「彼らの生産のテンポがほんとうに上がったのは、ソ連が参戦してからだと聞かされ、不愉快になった」と書かれているくだりなどは印象的です。
戦闘機パイロットとして生活した時期については抄訳しか載せられていないのですが、驚いた点が二つ。彼はパイロットになるためにコンタクトレンズを装用したこと。コンタクトレンズってこの頃にすでに実用化されていたとは知りませんでした。また、初等訓練はイギリス国内で実施されたようですが、訓練過程の後半は船で南アフリカまで移動して、南アフリカで行われました。イギリス連邦の総力をあげた戦いだったことを示すエピソードですね。
日本語として読みやすい翻訳になっています。しかし、少なからず気になる変な訳語がありました。
上109ページ ラワールピンジを「商品輸送用の巡洋艦」と訳している。仮装巡洋艦か特設巡洋艦とすべきでしょう。
上129ページ 「ダングラス卿」 アレック・ダグラス=ヒュームと言う方がふつうだから、ダグラス卿じゃだめなのかしら。
上164ページ アルトマルク号事件で駆逐艦コサックが「戦艦コサック」となっている。
上370ページ 「ビルマ街道」、援蒋ルートの一つで日本語ではビルマルートとして有名だと思います。
上391ページ 「ウェイヴル」ウェーベルとかウェーヴェルと書かれていることの方が一般的。
下245ページ「ボフォール高射砲」boforsだけど日本語ではボフォースと呼び
下276ページ「単式のアリソン型エンジン」単発と訳さなきゃね。
下706ページ訳者あとがき「利空権」 こんな日本語はありません。制空権
本書の新品は手に入らないようです。中古品をAmazonマーケットプレイスからそれぞれ763円と916円で入手して読みました。

2010年11月23日火曜日

中立国スイスとナチズム


黒沢隆文編訳 京都大学学術出版会
2010年10月発行 本体9000円
1990年代半ば、第二次大戦中にナチスの略奪金塊をスイスが購入した件や、ホロコースト犠牲者の休眠口座の問題などで、アメリカ発の国際的なスイス批判が拡がり、スイスは外交的な圧力を受けることになりました。対策として、スイス政府はこれらに関する歴史研究のために、資料閲覧のための特別な権限を与えられた独立委員会を設置しました。5年間の調査・研究の成果としてまとめられた報告書の翻訳が本書の第一部で、また報告書を日本人がより良く理解するために歴史背景などを説明した5本の論考が本書の第二部になっています。一般的なハードカバーの本に比較して紙面の天地左右の余白が少ないレイアウトが720ページも続く大冊であり、特に第一部は公的な委員会の報告書ということで無味乾燥なものを予想してしまうかも知れませんが、そんなことはありませんでした。
第二次大戦期のヨーロッパに関しては、戦争それ自体の方に関心が向き、中立国スイスの事情についてはほとんど何も知りませんでした。それだけに、この研究の発端となった難民の受け入れ拒否やホロコースト被害者の休眠口座の問題などに関することよりも、それ以外の話題に新たな発見がたくさんあり面白く読めました。勉強になった点を少しだけ紹介すると、
  • 28ページ:「スイスの大手武器輸出企業、エーリコン・ビューレ株式会社の場合には、よりにもよって1939年から1945年の年次報告書が今日失われているが、これが偶然であるとはほとんど考えられない」日本の文献ではエリコン社と書かれていることが多いと思います。本書を読むと、エリコン社以外に武器自体の輸出を行っていた会社はごく少数しかなかったとのことです。
  • 181ページ:「表1 武器・弾薬・信管の輸出」に対日輸出額が1943年まで記されている。上記のエリコン社から導入した20mm機銃が、ノックダウン生産その後ライセンス生産されてゼロ戦など海軍機に装備されていました。でも1943年になっても対日輸出ができていたのでしょうか。もしそれが可能だったのなら、どうやって輸送したのか興味あるところ。
  • 48ページ:世界恐慌による金融危機→「国による再建支援に対する直接・間接の対価として、銀行界は、初の連邦銀行法の制定に同意せざるを得なかった」→「同法には銀行守秘義務条項が盛り込まれ、秘密保持を旨とする業務慣行が刑法上の罰則を伴う保護を獲得して大幅に強化され、外国政府による当該国市民の資産状況調査に対して防衛戦が引かれたのである。これによりスイスの金融センターが国際的な資産管理拠点としての地位を高めたことは、長期的にみて両大戦間期の最も重要な変化であった。」エンターテインメント作品などでもスイスの銀行の秘密保持は有名です。19世紀からの伝統もあったのでしょうが、刑法を含めた秘密保持の仕組みができあがった時期が戦間期だったとは。
  • 86ページ:「我々の敵がスイスを金融取引の拠点に選んだのは、単にその地理的な位置によるのではなく、スイスの銀行法や業務慣行が、身元を隠したり、取引を秘密にしたりしたがる者にそれを許すようにできているからでもある。」そして、その秘密保持の制度が大戦中にはドイツとの取引を許し、そして戦後には連合軍の追及や、休眠口座所有者の遺族の調査請求を拒む理由となてしまった。
  • 75ページ:「スイスの非常に多くの住民が、衣類や住居の確保の心配と言った、より実態にみあった問題よりも、難民の受け入れによって食糧確保が難しくなることを危惧していたとしても、なんら驚くべきことではなかろう。」ボートは満員という比喩が使われていたそうですが、当時のスイスの食糧自給率が50%程度だったということなので、一般の人たちがそう感じていたのも不思議はないし、実際に戦中には大規模な開墾が実施されたとのことです。ただ、戦中・戦後の調査ではスイス人の栄養状態は周辺のヨーロッパ社会と比較すると「楽園のよう」だったのだそうですが。
  • 85ページ:「スイスにおいて、戦中・戦後の間にはっきりした連続性がみられるという事実は、スイスが歴史的な審判に十分に堪えたという広く共有された印象と関連していた。この肯定的な国内政治でのイメージは、1943年以降の連合国、とりわけアメリカ人の間でのスイスに対するマイナスイメージと鮮烈な対照をなしていた。戦争終結時には、中立の評判は最低の水準に達しており、戦勝国はスイスを厳しく批判していた。」敗戦後の日本では、東洋のスイスを目指せと言われた時期もありました。日本からみると、大戦中のスイスは中立を守り、難民を受け入れ(本書からも実際に多数を受け入れたことが分かるし、Sound of Musicみたいなエンターテインメント作品もあるし)、赤十字国際委員会があって戦時中も日本とは交渉があったし、などの理由からまぶしい存在でしたし、存在です。しかし、ドイツと戦争している連合軍からみると、ドイツを助ける存在、戦争を長引かせた存在などと見なされていたという点が、言われてみれば当たり前ですが、言われないと認識できない私にとっての盲点でした。
  • 96ページ:「1933年から1942年の間に、ナチスの迫害を受けた人々にとってのスイスの重要性が根底的に変化したのは、明らかである。1930年代には、スイスは迫害された人々の数ある逃亡先のひとつに過ぎなかった。しかし1942年には、国境にたどり着いた人々にとってスイスは、多くの場合最後のチャンスとなっていた。」だからこそ難民の受け入れに関しては、責任を問われる国になってしまったということですね。
  • 103ページ:「1942年12月に国境から10kmないし12kmの幅の地域として定義された国境地帯を越えることができた者は、通常は送還されなかった。これは、地域住民がこれらの難民の送還に反対して、繰り返し抗議を行ったからである。」食料の心配をしながら、こういう行動をとった人が少なくなかったことは素晴らしい。人口430万くらいのスイスに、終戦時には11万人以上の難民が暮らしていた。
  • 114ページ:「とりわけ開戦前の数年間、スイスの難民政策は、ドイツのメディアから頻繁に非難されていた。しかし、難民政策を理由に、ドイツから外交的要求や軍事的脅迫などの圧力を受けたわけではなかった。」ドイツのこういう態度については全く知りませんでした。スイスはポーランド人やフランス人の元兵士なども受け入れていたそうです。
  • 166ページ:「連合軍が西方と南方から接近するのに伴い、スイスの物資供給状況は1944年から翌年にかけての冬に悪化した。というのも、連合軍の司令官は、長い交渉の末合意された大陸外からの物資供給の約束を反故にしたからである。そのため、1945年になっても、ドイツとの経済関係を維持しなければならない十分な理由があったのである。」戦時中の連合軍のスイスに対する見方が伝わってくるようなエピソード。
  • 169ページ:「スイスの対独貿易収支は、1943年を除き、赤字であった。」クリアリング協定というのが結ばれていて、赤字分はスイスからの貸しになっていた。
  • 174ページ:「ドイツの同盟国は、やはりスイスで戦争物資や機械を購入するために、スイスフランでの支払いを要求した。例えば、ルーマニアは、ドイツとの経済条約締結の条件にスイスフラン建決済を盛り込んだ。スイスフランはまた、スウェーデン(船舶)やスペイン・ポルトガル(タングステン購入)等の中立国との貿易でも用いられた。」これも、私なんかがなかなか気づかないような点で、とても勉強になる指摘です。
  • 178ページ:「スイスの対独輸出に対して資金を前貸ししたおかげで、他にも多くの点でスイスの利益が実現した。西側勢力が「コンペンセイション・ディール」と呼んだ取引によって、戦争遂行上重要な物資を、ドイツ占領地域を経由してイギリスやアメリカ合衆国に発送することが可能となったのであるが、これは、スイスにとって長期的にも重要な、ドイツ側からの譲歩であった。」フランス敗北後は枢軸国に周囲を完全に囲まれてしまったスイスですが、それでも対連合国貿易が可能だった。具体的にどう実施されていたのか、知りたいところ。日本語で気軽に読める解説はあるのだろうか。
  • 197ページ:「ドイツの軍備拡大に対するスイスからの輸出の効果を、戦時期に関していくぶん高く見積もろうと、あるいは低めに評価しようと、我々の研究の主要な結論に影響はない。それよりも重要なのは、スイスが1933年以前に果たした役割、すなわち、他のヨーロッパ諸国と同じく、ドイツの密かな再軍備の拠点として果たした役割である。この事前準備がなかったならば、ナチスドイツは、かくも短期間にヨーロッパ全体を席捲することはできなかったであろう」ベルサイユ条約でドイツが禁止じられた軍備の研究は、ソ連・スウェーデン・オランダなどでも行われていて、スイスの貢献度はそれらの国より低いかなと思います。これらの国はベルサイユ条約の締結国ではないし、少なくともナチスの政権掌握前の事柄に対してスイスを非難するのは行き過ぎかと感じます。
  • 199ページ:「電力は、金融サービス、鉄道による通過交通、軍需品供給と同様の重要性を有していた。」 軍需品供給は目につきやすい点ですが、電力、金融サービス、鉄道による通過交通(ドイツ・イタリア間はオーストリアのブレンネル峠経由は単線でスイス経由の方が輸送能力に優れていた)もドイツにとって重要だったというのは言われないと気づけなかった点です。
  • 358ページ:「1939年8月30日のいわゆる「全権委任決議」によって、議会は政府に、「スイスの安全・独立・中立の保持のために必要な(全ての)措置」を講ずる権限を与えたが、それには、当時の憲法に抵触する権限も含まれていた。」第一次大戦時に倣ってスイスも全権委任体制をとりましたが、独裁制にはつながりませんでした。
  • 476 「本書に示した研究結果は、それぞれの調査対象領域の間にある事実関係の相違を考慮に入れたとしても、経済的・政治的な自己利益のいずれか、あるいはその双方が、当事者たちの行動を支配しており、これが、民族社会主義者の時代の初めから戦後に至るまで、迫害された人々の扱いを一貫して規定していたことを、はっきりと示している。周囲を枢軸国に包囲された小国が直面した侵略の脅威やそれに対する危惧によっても、あるいは、ホロコーストについて何をいつ知ったのかという問題によっても、民族社会主義国家の犠牲者に対する疑問の余地ある行動様式を、うまく説明することはできないのである。」独立委員会の総括は正しいけれど辛口だなと私は感じます。本書を読み通してみれば、 スイスの人たちも国もまずは自分たちのために行動したというだけで、非難されるべきとは思えません。可能な範囲で難民も受け入れたし。戦後の行動(休眠口座の扱いなど)に関しては非難されるべき点が少なくありませんが。
  • 503ページ:「開戦半年前の1939年4月、連邦は、ハーグ条約でも認められていた民間企業による交戦国への「戦争物資」の輸出を政令で禁止した。しかし軍備が不十分なまま戦争に突入した英仏両国の圧力を受けて、開戦1週間後の1939年9月8日、連邦は上記の政令を撤回し、民間企業による武器輸出に道を開いた。枢軸国による包囲で連合国向けの輸出が困難となり、またドイツが姿勢を変えて兵器輸入に関心を示すようになる翌年5月までの間は、スイスからの武器輸出はもっぱら連合国向けであり、しかもその製造にはドイツからの輸入原材料が用いられていた。」連合国側にもこういうご都合主義的な行動をとった履歴があったことは初めて知りました。大戦末期になって連合国はスイスにドイツとの貿易など中止させますが、これもご都合主義。
ほかにも学んだ点がたくさんありますが、メモを途中からとらなくなったのでこのくらいで第一部の紹介はおしまい。
第二部に関しては、第一章多国籍企業・小国経済にとってのナチズムと第二次大戦がいちばん面白く読めました。スイスには第一次大戦前から多国籍企業が少なからず存在し、しかも第一次大戦時にスイスが中立を保ったにもかかわらず、在外子会社が連合国や同盟国の地に存在したことで企業活動に支障を来した経験がありました。スイス出身の多国籍企業がその教訓から第二次大戦にどういう対応をしたのかが詳しく例示・説明されています。特に、ネスレの話の中には第三次大戦を危惧した行動をとったことまで書かれていて、びっくりしました。第二次大戦下で中立と占領下とに分かれたスイス・スウェーデン・デンマーク・オランダ・ノルウェーの事情に、第一次大戦時に中立を保てたかどうかが影響しているという鋭い指摘も。本書に対応するような、スウェーデンの第二次大戦の経験について書かれた日本語の本があればぜひ読んでみたいですね。
さて、編者あとがきには「今日の時代状況の下で、本書がどのように読まれるかは、編者の予測を超えている。翻訳を着想した時代に編者が想像した一般的な読まれ方とは違って、あるいは本書は東アジアでの「戦後処理」に「教訓」を与えるような作品としてではなく、むしろ、自国の「公序」や価値観と相容れない巨大な隣国への「抵抗」と「順応」の間で揺れた社会が、自らの屈曲の歴史を振り返った作品として読まれるかも知れない。」と書かれています。この文章の意味が理解できなくなるような、そんな幸せな東アジアになってほしいとは私も思いますが、難しいのかも。ただ、そうは言っても本書はやはり「一般的な読まれ方」で読まれるべきものでしょう。中立国だったスイスが大戦終了後半世紀近く経って批判をあびることになった大きな理由は、冷戦終了によって国家同士のやりとりではなく、個人が声を上げる環境になったからです。日本に関しても、20世紀も終わりに近くなってから従軍慰安婦・強制連行などなどで声を上げる人が出てきたのは同様の事情だと思います。冷戦を利用して、例えば日中国交正常化の際にも無賠償で済ませてしまうようなずるいことを日本もしました。本来なら日本も本書をまとめた独立委員会のようなものをつくってでも、事実を隠蔽せずまとめておくべきだった(これからまとめてもいい)、そして個人賠償も含めて済ませておくべきだったと私は思います。損して得取る(徳もとる)ってことがどうしてできないのかな。それをしないで、何度謝罪すれば済むのかなんて言っていてもダメですね。「国益」を真剣に考えるなら、被害を受けた側に納得してもらうことが国益につながるいちばんの方法です。そうでないと何十年・何百年たっても、これらのことは日本についてまわるでしょう。元寇から700年ちかく経った第二次大戦中にも「神風」なんて言っていたのと同じように。
本書で疑問なところ、メモしたものだけ
  • 9ページ:プリーモ・レーヴィの説明に「1944年から1949年までアウシュヴィッツに収容されたが」とあります1945年まででしょうか。
  • 15ページ:「1946年5月のワシントン条約」というのは議会での批准を必要とする条約だったんでしょうか。Washington agreementというのがありますが、それのことでしょうか。228ページやそれ以降では「ワシントン協定」と書かれています。
  • 62ページに「恐慌イニシアティブ」、63ページに「危機イニシアティブ」というのがあります。どちらも1935年6月に否決された提案とのことですが、これらは同じものでしょうか。
  • 87ページ:「ドイツから略奪された金の購入に対する和解金」これは「略奪された金のドイツからの購入に対する和解金」と訳さないと誤解を招くのでは。
  • 191ページ:人名「マルドゥル」=「マンドゥル」?
  • 451ページ:「優勢的にユダヤ人であると考えられている」という文章がありますが、意味が分かりません。優生的にかな?それでも意味不明。

2010年11月12日金曜日

鉄道の世界史


小池滋他編 悠書館
2010年5月発行 本体4500円
四六版で751ページと厚めの本ですが、対象となる国が多数なのでそれでもページ数が少ないと感じるほど。 ヨーロッパ、北アメリカだけでなく、南アメリカ、アフリカ、東南アジアなどまで含めた50カ国ほどの鉄道の略史が地域別に収められています。各国の鉄道を創業から最近の事情まで、非専門家にも読みやすく紹介するとともに、世界の各地域ごとの特徴が分かるように工夫されていると感じました。イギリスやフランス・ドイツなどの初期の鉄道の歴史は有名なので知っていたこともありましたが、その他の国の鉄道の歴史については未知のことが多く、それを面白く読めたことは収穫でした。それに加えて、鋭い指摘もいくつもありました。例を挙げると
戦後の鉄道の発展史をみると、無傷の英米の鉄道が衰退の道を辿ったのに対し、破壊されたフランス、ドイツ、日本などの鉄道は、設備更新と近代化が進んだおかげで衰退を免れ、前進することができたのは皮肉な現象である
これはドイツの項119ページにありましたが、こういう見方もできるんですね。
現在のポーランドの鉄道路線網をみると、地域ごとに鉄道敷設密度が違っているのは、その部分の鉄道を建設・運営した「国」が異なっているためで、ポーランドの国土形成の複雑な歴史を如実に反映している。
これはポーランドの項、252ページにありましたが、白地図上に記された路線の密度が、旧ドイツ、旧オーストリア、旧ロシア領では確かにはっきり違っていて、その差の大きさに驚かされます。
多くの国の事情を解説した本ですから、執筆者も多数です。多くの人は、制約あるスペースの中で、非専門家でも読みやすいように、物語を書いてくれています。なので、読みやすい。でも、第10章ロシアのように、日付や地名の羅列に終始していて、非常に取っつきにくく感じる部分もありました。また、141ページのスペインの項には「1826年にブラジルなどの領土を失い」と書かれていました。こういう事実誤認が、ほかにもあるのかも知れません。とはいえ、楽しく読むことのできる本でした。おすすめです。

2010年11月6日土曜日

イタリア20世紀史


シモーナ・コラリーツィ著 名古屋大学出版会
2010年10月発行 本体8000円
熱狂と恐怖と希望の100年というサブタイトルの通り、冒頭は1900年7月の国王ウンベルト1世の暗殺で始まり、1999年に左翼民主党の首相がユーロの誕生を祝うところまでの一世紀が描かれています。単に20世紀史というタイトルがついていますが、基本的には政治史の本だと感じました。私は別にイタリアについて詳しい訳ではなく、また日本のことが常に頭の片隅にありながら読みましたが、そういう意味で学んだ点・気づいた点を上げてみます。
1861年のイタリア王国の成立から40年近く経って20世紀を迎えた訳ですが、この時点でも国民としての帰属意識・ナショナリズムが強くなく、また南部の後進性はこの頃から意識されていました。
イタリアの識字率はとても低かったとのことです。。ヨーロッパ史をひもとくと、プロテスタントの地域に比較してカトリックの地域の識字率の低さが指摘されますが、イタリアも建国時には70%以上が読み書きできなかったのだそうです。
ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいましたが、これは攻守同盟ではなく、同盟国が攻撃された時に自動的に参戦する規定だったそうです。それをたてにイタリアは第一次大戦に一年ほどは参戦しませんでした。資源に乏しく工業用原燃料の多くを輸入に頼っていたので、中立を保った期間中も、日本のように貿易で漁夫の利を得られた訳ではありませんでした。そして、連合国側での参戦後も、未回収のイタリアの問題があって一時的には国民の共感を得たものの、食料などの不足や戦場での敗北が続き厭戦気分が一般的になったそうです。日露戦争時の日本と比較すると不思議な気がしますが、その時点までのナショナリズム布教の成否が影響したのでしょう。
第一次大戦後、戦勝国となってはみたものの、インフレの亢進・巨額の対外負債などの経済社会問題やロシア革命の影響もあり、赤い二年間(1919~20)という北部での農民と労働者の社会闘争の盛んな時期を迎えました。これに対して戦士のファッシというグループが懲罰遠征と称して暴力的に労組や左翼党組織を襲い、放火や殺人にいたる事件が頻発しました。左翼の勢力拡張を快く思わない人たちが少なからず存在し、こういった暴力事件を地方自治体・警察などがきちんと取り締まらない状況が続き、左翼はやられっぱなし。日本で昭和戦前期に右翼のテロが共感を呼び、減刑嘆願書みたいな現象がみられたのと似ているのでしょうか。1922年にムッソリーニはファッシの行動隊を集めてローマ進軍を行いますが、これに対しても警察や軍隊は戒厳令を発して真剣に阻止しようとはしませんでした。そして、国王エマヌエーレ3世はファシズムと妥協する途を選び、ムッソリーニを首相に任命してしまいます。議会での議席数もヒトラー政権獲得時のナチスよりもずっと少なかったのに。このファシスト政権獲得の経緯は読んでいて本当に不思議。
イタリアが第二次大戦に参戦し、ギリシア・北アフリカ・地中海で敗戦が続いたことはよく知られています。それでも、ファシスト党の一党独裁はすでに20年以上も続いていたのだから、国内の基盤は盤石だったのではと思ってしまうところです。しかし1943年7月の連合軍のシチリア島上陸後に、ファシズム大評議会でムッソリーニの全権を国王に返還する決議が採択されて政権交代に至りました。日本で東条英機が政権を逐われたのは、かれが独裁党の首領だった訳ではないので不思議でも何でもありませんが、このイタリアの政変は不思議。政権獲得も不思議だし、ファシズムって何だったんでしょう。本書を読んでさらに謎が深まった感じ。ドイツや日本と違って、イタリアはすすんで大戦を起こした訳ではないし、戦争に対するイタリア国民の意識が健全だったということなのでしょうか。
20世紀後半の大部分は、共産党という有力な政党は政権から排除する形で、キリスト教民主党を中心とした連立政権が続きました。これは、日本で自由民主党の政権が続いた、党内の派閥が疑似政権交代と呼ばれるような首相交代を繰り返したのと似ている感じです。また、イタリアでは南部への政府資金の移転、日本では地方へのばらまきが政権維持のために行われるなど、まっとうな政権交代のないことによる弊害が積み重なった点も同じ。その結果、イタリアでも1990年代に政界再編が始まることになりました。西側の先進国と呼ばれた国々の中で、ある一定以上の大きさの共産党が存在した、イタリアと日本、そしてフランス。日本では共産党よりも社会党の方が大きかったと言う違いはありますが、東西冷戦のもとで共産党・社会党が政権を担うことの困難さがあった点では似ています。ただイタリア共産党のユーロコミュニズムに向けて変革の試みの方が、日本の社会党や特に共産党の変化のなさに比較すれば大胆だったのかな。日本の現在を見るにつけ、1960年代の日本の社会党の変革の欠如というか変革への志向の阻害がいかに有害だったかを思わざるを得ません(日本の共産党にはそもそもそんなこと期待できない)。
参照文献を示す50ページにわたる註がついています。ふつうこういう註の中の文献には日本語訳された本が含まれていて、日本での出版社や出版年などが付記されることが多いのですが、本書の註にはそれはなし。この分野の文献や書籍に日本語訳されたものが全くないということなのでしょうね。
本書は20世紀の通史なのですが、イタリアでは専門書として出版されたのでしょうか(しっかりした註がついているから専門書なのかな)?というのも、名古屋大学出版会は私の好きな方の出版社なので決して批判するつもりではないのですが、名古屋大学出版会からハードカバー本体8000円で発売される日本では、本書が一般人が気軽に買える書店においてもらえるとは思えない気がするので、なんとなくそれが惜しい気がします。
本書には著者によるはしがき・あとがきや、訳者のあとがきがありません。どうしてなのでしょう。監訳者さんは、22ページにもわたって解題という名の独演会を載せているのにね。

2010年10月25日月曜日

中島飛行機の研究


高橋泰隆著 日本経済評論社
1988年5月発行 本体2500円
以前読んだことのある「ものづくりの寓話」では、日本での互換性生産の歴史を説明する中で戦時中の飛行機生産が取りあげられ、この中島飛行機の研究が引用されていました。そんな縁から本書を読むことにしました。私の読んだのは1999年2月の第4刷ですが、新品がネット通販で入手できました。
選書版302ページの本です。序章では、中島飛行機が1930年代から戦時に急成長できた要因、また新興財閥・新興コンツェルンとして捉えられるかどうかといった、著者の課題と方法を述べています。第1章中島飛行機株式会社の成立では、創業者である中島知久平の略歴、中島飛行機の発展と成長しても同族経営を続けた様子が扱われています。第2章戦時航空機産業と中島飛行機では、1930年代から戦時の機体・エンジンメーカーの比較。第3章中島飛行機の管理では、流れ作業が志向された様子、戦中は徴用工の割合が増えて欠勤・作業の質・労務管理などに多くの問題をもたらしたことなどが説明されています。第4章戦時下の工場では中島飛行機の各工場の所在地・生産していたモノ・資材不足から製品の数と質が確保できなかったこと・空襲と疎開の様子などが扱われていました。
軍需会社であったことから秘密扱いされたことと敗戦時の資料の処分とから、「中島飛行機株式会社の経営資料はきわめて少ない」と著者は述べています。たしかにそうなんだろうとは思いますが、それにしても、本書は既存の社史や出版物の内容を引用して切り貼りしただけという印象です。もちろん史料がなければ歴史は描けませんが、そういった史料に基づく著者自身の主張がなくてはダメ。著者独自の主張が「『零戦』エンジンは中島製であるし、驚くべきことに機体総数の六十%以上は中島飛行機の工場で組み立てられていたのである。したがって一般に認識されているような『三菱の零戦』に異議を唱えたいのである」といった程度ではねえ。こんなの常識でしょう。
また、中島飛行機の主要な製品である飛行機に対する扱いがお粗末。陸海軍で要求が異なったでしょうし、単発機双発機などで大きさや生産の様子が異なったでしょうし、そういったあたりが全く触れられてません。またそもそも機種名の扱いがめちゃくちゃ。例えば、陸軍の疾風。疾風単戦、四式戦闘機、フランク、キー八四など呼び方がばらばらで全く統一されていないし、八四式戦闘機などという他では聞かない著者自身の造語(?)まで登場するし。フランクは日本側の命名ではないのだからフランクなんて書かないでFrankとすべきでしょう。
中島飛行機の研究というタイトルの本書ですが、読み終えてみて、とても「研究」と言う名前には値しないと感じました。本書の出版が準備された頃ならば中島飛行機で管理や生産や設計などなどに従事したことのある人がまだまだご存命だったと思うのです。そういった人たちへのインタビューを仕様としなかったのはなぜなんだろう。例えば、エンジンなどの部品の不足などから要求された数の生産ができないといった記述がありますが、そういう時に組み立て工場の工員は何していたんだろうとか、給与が歩合制みたいに書いてあるので、給与をもらえなくなったのかしらなどなど、しゃべってもらいたいことはたくさん思い浮かびます。非常に残念な本ですね。

2010年10月22日金曜日

チョーサーの世界


デレク・ブルーア著 八坂書房
2010年8月発行 本体5800円
チョーサーは有名なイギリス中世の文人です。わたしには文学作品を読む趣味がなく、恥ずかしながらこの年になるまでチョーサーの作品を読んだことがありません。それなのになぜこの本を購入する気になったかというと、詩人と歩く中世というサブタイトルが付いているように、この本はチョーサーの作品の解説書ではなく、チョーサーの生涯をたどりながら、チョーサーの生活した範囲のイングランドの社会の様子を描くものだったからです。
チョーサーは裕福なワイン商人の息子として生まれ、貴族・王室の宮廷に宮仕えし、イタリアやスペインにまで外交使節として派遣されたり、ロンドン港税関や王室の不動産の営繕の役職につくなどして生活した人でした。その間に英語での文学作品をたくさん書き、それらの作品は生前から上流階層の人たちに評価されていたのだそうで、そういった様子がこの本からはよく伝わってきます。
また本書には、チョーサーの作品自体を知らなくとも、当時の生活の一端をかいま見ることができるようなエピソードがたくさん触れられています。例えば、87ページには「子供が病気になると、子供本人ではなく、乳母に投薬された」と書かれていますが、そういう風習があったことを初めて知りました。現在なら、授乳中の母親へのクスリの処方にはかなり気を遣うものですが、逆に乳汁への移行を期待して乳母にクスリを飲ませたとは!まあ、ほとんど効果は期待できないでしょうが。
また、高校の世界史で習った以来に目にしたことのなかった言葉、ワットタイラー。タイラーはTilerで瓦(タイル)職人という意味で、もしかすると本当に瓦職人だったのかもしれないだとか、また彼が頭目になった農民一揆の鎮圧は難しく、ロンドンで彼は国王と直接交渉を行うまでに至り、そこでロンドン市長に殺害されたこととか、興味深く読めました。
チョーサーは日記を残したわけではなく、本書も残された記録類などの史料をもとに書かれています。しかし読み終えての印象は、同じ頃の日本史関連の本で言うと看聞日記をもとに書かれた横井清さんの「室町時代の一皇族の生涯」講談社学術文庫とか、言継卿記をもとに書かれた今谷明さんの「戦国時代の貴族」講談社学術文庫なんかに近い感じです。なので、文学好きでなくとも、面白く読めます。

本書冒頭の「日本語版に寄せて」には、著者のブルーアさんが1950年代に来日してICUで教鞭を執ったことが触れられています。本書の前半には数カ所、中世イングランドとの比較の材料的に日本に対して言及した部分があります。チョーサーの世界とは全く縁のない日本と言う単語が出てくるのは、日本で過ごしたことがあるからですね。また「一九五○年代半ば、イギリスと日本、両国は政治的には表向き良好な関係にあったが、国民感情としては依然わだかまりがあった。桝井教授にお会いするまで、日本人に対する私個人の第一印象は、日本軍に捕らえられた友人の何人かが戦争捕虜として野蛮な扱いを受けたことにとらわれがちだった」とも書かれていました。著者自身は日本での生活体験からこの種の対日観を払拭したかも知れませんが、来日することなどなかった普通のイギリスの人の間にはこの対日観がずっと今でも通奏低音として鳴っているのでしょうね。

2010年10月11日月曜日

ビジネス・システムの進化


大東英祐他著 有斐閣 
2007年9月発行 本体3600円
本書では、企業の企業・活動・発展には、競争したり取引したり協調する他企業や、その企業に対する売り手・買い手、その分野の研究者やとりまく社会の状況などが関連していますが、それをビジネス・システムと呼ぼうと提起されています。創造・発展・起業者活動というサブタイトルが付いていますが、実際にビジネス・システムの創造・発展・起業者活動の様子を示す事例が6つ納められています。
序章は、大阪への鮮魚輸送に手こぎではなく発動機船や冷蔵船を使い始めて、瀬戸内海東部から朝鮮半島、そして底引き網漁自営にまで活動の場を拡げた林兼商店の事例。林兼商店についてはもっと本を探して読みたい気分になりました。第1章は、ボストンに族生した中国貿易のカントリートレーダーが、アメリカ国内の鉄道投資などに資金を移動させた様子。第2章は、明治期の後発損害保険会社3例の企業設立時の発起人・出資者の関係。第3章は、東京と大阪の明治初期の為替・手形決済。第4章は、古河電工をもつ古河傘下だったはずの日本電線が独自の動きを始め、他企業の協力を得たカルテルでなんとか統制した事例。本書を読むことにした理由は先日読んだ「ものづくりの寓話」に紹介されていたからで、第5章と第6章は「ものづくりの寓話」の著者が書いています。第5章は、一時は世界一の繊維機械メーカーであったプラット社が経営不振陥る過程。第6章は「ものづくりの寓話」におさめられていたのとそっくりで、フォード・システムに対する世間一般の誤解を解くような説明がなされています。各事例には興味深いエピソードがたくさん紹介されていて、面白く読めました。
序章と各章のはじめの部分には、なぜ「ビジネス・システム」なのかが書かれていますが、どれも非常に読みにくい文章ばかり。各事例の焦点を素人である私にも分かるように記述してくれた著者たちですが、なぜ「ビジネス・システム」などという概念を持ち出したかったのかという点に関しては、分かりやすく記述することができていません。今さら改めて「ビジネス・システム」なんて持ち出さなくても、企業の歴史を描く論考では、企業とそれを取り巻く社会状況について考察するのが当たり前のことになっています。その当たり前のことにわざわざ難しい理由付けをしようとするからおかしな事態になってしまったのだろうと感じました。その点を除けば、面白い本で一読の価値ありです。ただし3600円の価値があるかどうかは疑問。新書版で1000円くらいで売られるべき本じゃないのかな。
間違いを一カ所発見しました。アメリカのセントラル鉄道についての56ページの説明、「1マイルあたり16ポンドのレール」は変です。きっと1ヤードあたり16ポンドのレールのことでしょうね。

2010年10月8日金曜日

ものづくりの寓話


和田一夫著 名古屋大学出版会
2009年9月発行 本体6510円
以前、本書の著者である和田さんが訳した「アメリカン・システムから大量生産へ」(デーヴィッド・A・ハウンシェル著、名古屋大学出版会)を読んだことがあります。大量生産と言えばフォードシステム、フォードシステムと言えばコンベアの導入された工場の写真が思い浮かびます。しかし「アメリカン・システムから大量生産へ」は、大量生産には生産ラインへのコンベアの導入が重要なのではなく、組み立てに際して現場で摺り合わせ作業をする必要のない互換性のある部品の採用が重要であること、そしてアメリカでの互換性生産の歴史を分かりやすく教えてくれる好著でした(この本も私のおすすめの一つ)。
本書のサブタイトルはフォードからトヨタへとなっていますが、それを示すように「本書は上記のハウンシェルが描いたアメリカにおける互換性製造の道のりの後日談を、日本について描こうとしたものである」と「はじめに」に書かれていました。
第一章フォードシステムの寓話では、移動式組み立てラインばかりが注目されることに対して注意を喚起しています。例えば生産費の低減はコンベアのない時期にもかなり実現していたこと。T型フォード車の組み立はコンベアシステムの導入されたハイランドパーク工場だけでなく、各地の分工場でも行われ、分工場の合計生産台数の方がずっと多かったこと。金属製閉鎖型ボディの主流化がT型フォードの終焉に一役かっていたことなど。
第2章「フォードシステム」の日本への受容では、主に戦時下の航空機の生産を例に、互換性生産が実現できない状況下でも、流れ作業方式が注目され、導入を試みられたことが記されています。しかし、戦時下という悪条件、自動車よりも部品数の多い飛行機の生産という困難さも相まって、必要な数の部品を過不足なく組み立て工程に供給するように全行程を管理することができませんでした。そしてその経験から、戦後の一時期に推進区制が実現しました。生産工程をいくつかに分割した推進区を設け、その推進区に現場内での管理を任せ、中央は推進区を統制するシステムだったそうです。ただしこれは最適な方式とは見なされてはいませんでした。
第3章以降では、日本でフォード・システムを実現しようとした企業者・企業としてトヨタを取りあげます。豊田自動織機製作所は自動織機の生産で互換性生産を実現し、また自動車エンジンの生産に必要な鋳造技術も備えていたことから、 豊田喜一郎は自動車事業に参入することを決意します。しかし実際に第一号の自動車ができるまでに五年半もかかり、またその後は戦争の影響も受けました。敗戦後、自動車事業を継続する決意から、協力企業との関係構築、標準時間の測定など生産現場のデータの把握から工程管理へ、労働争議を経て労組による協力を得て、マテリアルハンドリング、IBMのパンチカード集計機・コンピュータの導入、カンバン方式への移行などが、史料にのっとって、しかも通説の弱点も指摘しながら順次説き明かされています。
読み終えて、とても楽しい本に出会えたという感想を持ちました。「アメリカン・システムから大量生産へ」の日本での後日談という著者の意図は充分実現されています。また、この著者はきちんと読者を意識した表現をしていて、とても読みやすい文章です。なんというか、著書の頭の中には全体を一貫したストーリーがあり、それを物語ってくれているような感じを受けるので、私のような素人にも読みやすいんだと思います。これまで読んだ「アメリカン・システムから大量生産へ」「企業家ネットワークの形成と展開」「帝国からヨーロッパへ」などこの著者の著書・訳書は同じように分かりやすいと感じ、また勉強になるものでしたが、本書もその例外ではありませんでした。
名古屋大学出版会は良い出版社で私の好きな本をたくさん出してくれています。それでも、ここから出版されたハードカバーだと読者が限られてしまうのでは思われます。例えば、本書中にも引用のあった中岡哲郎著「日本近代技術の形成」朝日選書809のように、本書もどこか他の出版社から選書版で出版されればもっとたくさんの人の目に付いただろうにと思われてならず、好著だけにその点は少し残念です。

2010年10月2日土曜日

そんへえ・おおへえ

もともと1949年に青版16で発行された新書が特装版で再発売されたものです。先日読んだ戦後日本人の中国像に触発され、中古品を入手して読んでみました。タイトルのそんへえは上海の現地での発音を写したもの、おおへえは上海郊外の下海の現地語読みなのだそうです。
内山さんは大学目薬の中国での販売のために上海に住んでいました。内職と書かれていますが、最初は自宅で百冊足らずの本を並べて本屋さんを始めたそうです。ご夫婦ともキリスト教徒で、キリスト教関係の本を売るつもりだったそうですが、この当時の上海には日本語の本を売る店が他にはなく、間もなくふつうの日本語の本の方が多くなり、売り物の数が増えて店舗を構えることになりました。内山書店では現金売りだけでなく、掛け売りを日本人だけでなく中国の人に対してもおこなっていたので、しだいに中国人のお客さんの割合が増えて行ったのだそうです。上海の内山書店は有名なので私も名前は知っていましたが、こういうお店だったのですね。それと、中国の本を売る神保町にある内山書店は、内山さんの弟さんにすすめて開店させたものなのだそうです。
上海内山書店創業記のほかに、エッセイ風に中国での経験が語られ、面白く読めました。また、その中には上海・中国の日本人の中国人に対する優越感やそれに由来する行動がえがかれ、彼がそれに対して同調できなかった様子も記されています。これは、敗戦後に書かれたものだからという訳ではなく、著者が以前からそういう態度でいたことは中国の人たちの内山書店に対する評価が証明してくれているものと思われました。
別に反政府活動をした人というわけでもないのに、郭沫若が日本から中国に逃げた事件に関連して、日本帰国中に特高に拘束され留置場で数日過ごすことになった経験が書かれていました。著者自身は特にその件に関与していなかったそうで、事情を聞くという名目で留置場に入れてしまうような無茶苦茶がまかり通る嫌な国だったわけですね。



日中戦争中のあるエピソードの項で、日本側地区とそうでない地域との間で、時間がかかるけれども手紙の行き来はあったし、郵便為替で送金もできたことが書かれていました。日本側が確保できていたのが点と線(都市と鉄道)だけだったからなんでしょうか。

2010年10月1日金曜日

もしも月がなかったら


ニール・F・カミンズ著 東京書籍
1999年7月発行 本体2200円
第一刷が1999年に発行された本ですが、2010年9月に発行された「もしも月が2つあったなら」という同じ著者の本の横に本書も平積みにされ売られていました。本書はタイトルの「もしも月がなかったら」の通りに、もし月がなかったら地球や地球上の生命はどうなっていただろうかというような思考実験をして見せてくれる本です。月がなかったらの他に、月がもっと地球に近かったら、もっと地球の質量が近かったら、地軸がもっと傾いていたら、など全部で10のもしもを説き明かしてくれています。
著者は天文学・物理学の教授と紹介されています。そのせいか、もしもに続く、天文学的・地学的な話の展開はさすがです。例えば、第一章の「もしも月がなかったら」。月は火星サイズの天体と地球の衝突で生まれたと考えられていますから、もしも月がなかったらということは地球がその衝突を経験しなかったということになるので、二酸化炭素に富んだ大量の原始大気を失わずに濃い大気の下で生命がスタートします。また月がないと月による海水の潮汐作用がないので、地球の自転が遅くなる程度が少なく、現在で一日が8時間くらいになるとのことです。こういった感じの展開が各章で興味深く解説されています。
そしてそういった条件のもとでは生物にどんな風な影響があるのかというお話しが続きます。でも、この生物に関する話の方は読んでいてとても嘘くさいというかこじつけっぽいと感じてしまうレベルです。空想の羽を目一杯羽ばたかせたお話しなら、マンアフターマンくらいに突き抜けている本の方がずっと面白い。例外は、電波を見る目はとても大きくない(電波望遠鏡を連想させる説明が展開されていました)と機能しないから生物には無理などときちんと説明されている第9章の「もしも可視光線以外の電磁波が見えたら」ぐらいでした。
半分は面白く勉強になるけど、半分は微妙、な本でした

2010年9月29日水曜日

戦後日本人の中国像


馬場公彦著 新曜社
2010年9月発行 税込み7140円
日本敗戦から文化大革命・日中復交までというサブタイトルの通り、敗戦から国交回復までの27年を対象とし、その間に総合雑誌に発表された記事が分析されています。対象となった論考は総計2500本以上にもおよび、また対象となる雑誌を求めて国外へも調査に行かれたそうです。私もこの時期の雑誌をまとめて読んだ経験がありますが、非中性紙が使われているためか、紙はひどく黄ばんでいるし、また実際に手に取ってページを繰るともろくなった紙がページの端の方から折れて破損することが頻繁で、扱いにかなり気を遣います。そんな物理的にも読みにくいものを多数読んで研究した労作が本書です。
本書では、敗戦から国交回復までを6つの時期に分けて分析しています。時期によって発行されていた総合雑誌にだいぶ変化があったことはあまり知らなかったので勉強になりました。記事の筆者(著者は公共知識人と呼んでいます)についても、戦後の早い時期には戦前戦中から中国で調査研究に当たっていた人たち、共産党員やシンパ、引き揚げ者や欧米人ジャーナリスト人の論考などが多く、反中国論者の出現は遅れ、さらに現代中国研究者はその後の時期になって増えて今に至っていること、文革期には新左翼系の論者がみられるようになったことなどの変化も興味を引きます。
どの雑誌が中国に関する記事を多く載せていたのか、どんなテーマで書かれた記事が多かったのか、どんな人が書いていたのかなど、本書はある意味ではこの期間の日本の論壇の通史として読めます。対象を中国とする論考とはいっても、日本人の著者が日本を意識してテーマを選んで書いていますし、外国人が書いた論考もそれが日本人の編集者に選択されて日本の総合雑誌に掲載されたと言う点で同じような意味を持つでしょう。そして、それら記事の筆者たち・編集者たちの意識の通奏低音となっていたのは「 新生中国という存在に仮託された、日本人の強烈なまでの自国・自国民の独立への希求である。裏返していえば、占領状態から非対称的な同盟状態へと移行したアメリカに対して、その庇護からの独り立ちを欲求する日本人の脱占領地化願望である」と著者は感じたそうで、これは本当にその通りだと感じました。
上記のように多くの時間と手間をかけた研究であることはよく理解できたし、また学ぶ点は少なくないのですが、私をびっくりさせてくれるような指摘・結論は本書の中にはなく、このテーマとしては読んでいて順当な議論の展開だとしか感じませんでした。でも、これは必ずしも批判しているわけではありません。昭和戦前期までを対象とした書物だと自分とは縁の薄い世界だということでもっと驚きやすかろうと思のですが、本書は私が生まれる前から子供の頃という、自分の知っていることから想像できる範囲内を対象としているので、そんな印象を持っただけかとも思います。
本書の最後の方には150ページ以上にわたって、本書の対象となった中国をテーマとした記事の筆者15人に対するインタビューが載せられています。本書の中で筆者がどんな時期にどんな記事を書いていたかが分かりますが、その背景についてプライベートなことまで交えて語ってくれています。例えば、本多勝一があの「中国の旅」を書くための中国での取材をどんな風に実現したのかなど。著者には悪いのですが、おまけにあたるこれらのインタビューがいちばん面白かった。
また、中嶋峰雄へのインタビューのあとがきで、朝日ジャーナル終刊時に発行された「朝日ジャーナルの時代」というダイジェストの中に、中国論は中嶋の書いたもの一本だけだったということが触れられています。本書の対象となる記事が最も多く載せられていた雑誌である世界についても、1995年に発行された「『世界』主要論文選」をみてみると、中国を主なテーマとした記事は五四運動にからめて中国の学生運動を書いた竹内好の一本だけ掲載されていませんでした。新中国礼賛や文革万歳を唱えるような記事は、今では抹消してしまいたいと思う論者が多いからなのかも知れませんが。
こんな風に存在を忘れられそうな戦後の中国論ですが、忘れ去っていいわけがなく、その後の時代や現代につながる問題が多々あります。例えば、賠償の放棄。日華平和条約の戦争賠償の放棄も日中国交正常化時の日中共同声明での賠償放棄も、当時の日本政府は成果として考えていたでしょう。でも、それで良かったのか、賠償を済ませておくべきだったのでは。などなど、戦後の中国を再認識させてくれる点でも本書は価値ある一冊だと思います。

2010年9月23日木曜日

ZumoDriveが今日は不調?

MacとPCを持っています。PCはほとんどゲームにしかつかわないのですが、時々MacとPCでファイルのやりとりをしたくなることがあります。そんな時にはZumoDriveをつかっています。ZumoDriveはネット上に自分専用のストレージを無料で一つ持てて、そこにファイルをアップします。アップしたファイルはすぐにそれ以外の機器から見ることができ、Mac、PC、iPhoneの間で簡単にファイルをやりとりできます。とっても便利。
で、このZumoDriveでのファイルのやりとりがなぜか今日はうまくできません。Mac→PCもPC→Macもダメ。昨日までは問題なかったし、なぜこうなっているのか不明。これは我が家だけの障害なのでしょうか?



追記、9月24日午後には元に戻っていました。

2010年9月16日木曜日

日本軍の捕虜政策


内海愛子著 青木書店
2005年4月発行 本体6800円
日清戦争から第二次世界大戦での捕虜の取り扱い、そして敗戦後の戦犯裁判や、捕虜・抑留経験者からの賠償請求まで、日本の捕虜政策の通史を描いた本です。タイトルが「日本軍の捕虜政策」で「日本の捕虜政策」ではないのはなぜなんでしょう、不思議。
日清戦争での清国人捕虜の数があまり多くなかったこと、旅順での虐殺。日露戦争では捕虜の処遇に戦費の3%超が費やされたこと、またこの経費が戦後ロシアに請求されたこと。一般的に捕虜の処遇の費用はその母国に請求されるようになっていたこと。日独戦での捕虜の収容所は、捕虜は儲かる・経済効果を見込んで各地が誘致合戦をしたこと。戊辰戦争で捕虜になった会津藩士の子が徳島収容所の所長だったためか処遇が良かったが、真崎甚三郎が所長だった久留米の収容所はは待遇が悪かったこと。捕虜処遇の経費をドイツに踏み倒されたこと。
日本は1929年のジュネーブ条約に署名したが批准しなかったこと。お互いが宣戦布告をしなかった支那事変では、中国兵は国際法でいう捕虜としては取り扱われ、捕虜として保護されなかったこと。宣戦布告後の中国人捕虜は労工訓練所を通って労務者とされ日本での強制労働へ送られたこと。
連合軍からのジュネーブ条約遵守の要求に、日本は準用すると答えたが、実際には捕虜の権利を尊重しなかったこと。日本陸軍は、軍令下の捕虜と軍政下の捕虜と分けて扱っていたこと。白人捕虜とアジア人捕虜が分けて扱われたこと。その他、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア人捕虜の捕虜収容所でのエピソード、などなど、興味深いエピソードがたくさん紹介されていました。読んでいて勉強になる点は多かったし、面白く読めた本です。
ただし、気になる点は誤りが多いこと。メモ取りながら読んだわけではないので、おぼえているモノから例を挙げると

  1. 313ページ 「ゴールデン・ハル」 コーデル・ハルのことですよね。
  2. 425ページ 「鉄道第五連隊(鉄五、三個連隊のみ)」 カッコ内の三個連隊のみってどういうつもりで書いたんでしょう。連隊は大隊からなるから、三個大隊からなっていたと書きたかった??
  3. 487ページ 「イギリス人捕虜が家族に宛てた便り」というキャプションをつけてハガキの裏表が図示されています。読むと、家族から捕虜へ出したハガキとしか思えません。
  4. 605ページ4行目 「認められたことを由としながらも」 このままだと意味が通らない。「良しとしながらも」の誤植?
ほかにもいくつも目につきましたが、私が気付かない誤りもあるだろうと思います。日本国内ではきっと著者の立場に反対の人が少なくないはずで、議論の多いテーマだけにこう誤りが多いと、それを根拠に内容の信憑性に疑いをなげかけられかねないと感じました。

2010年9月11日土曜日

中世の女の一生 新装版



保立道久著 洋泉社
2010年8月発行 本体2500円
貴族など上流の女性の成人を意味する儀式、裳着。庶民の女性の場合には裳ではなく、大人になると褶(しびら)という布を腰の後ろ側に巻いたのだそうです。前掛けを後ろ前にしてお尻にかかるような感じ。こう言われてもどんなものかぱっとイメージがつかめなかったのですが、絵巻などから採られた絵が多数添えられていて、一目瞭然。
貴族女性の部屋の隅の床に開けられたトイレ用の穴の話から、貴族の行列の中には貴人のつかう携帯用の便器を持った人が一緒に歩いていたことが絵で示されていたりもします。こんな感じで、絵画資料、ものがたり、日記文学などをもとに、女性の生活の実相、細々したことを教えてくれる本です。解説図の役割をする絵が適切におさめられていて、とても分かりやすく面白く読めました。保立さんの著書は、他にも物語の中世、黄金国家、平安王朝と読みましたが、どれも読みやすいし、興味をひくものばかりです。みんなおすすめ。


褶(しびら)をつけた女性の例が10枚以上載せられていますが、ぼろを着ているという感じの人はいないですね。また、これらの絵の女性の褶または衣服には模様が付いている人が半分以上。どんな色のどんな色素で模様を付けたんでしょうか。
七歳以前に死んだ子供は葬式・仏事などせずに、袋に入れて山野に捨てたことが史料からひかれています。先日、永原慶二さんの苧麻・絹・木綿の社会史を読んだせいもあるのですが、麻製の袋に入れて捨てたんでしょうか。布でできた袋って作るのにかなりの労力を要しそう。ある程度、裕福な人たちだけの慣行だったんでしょうか。また、金目の物欲しさに捨てられた袋から死んだ子供を取り出して捨てて布袋だけ奪う人はいなかったのかなとか。

などなど、面白い本なのでそこから妄想が尽きません。

2010年9月7日火曜日

戦国軍事史への挑戦



鈴木眞哉著 洋泉社歴史新書005
2010年6月発行 本体860円
疑問だらけの戦国合戦像というサブタイトルが付いていて、長篠の合戦で織田軍は三段打ちなんてしていないとか、織田氏が進んだ軍隊を持っていたとは言えないとか、これまで通説として語られてきた合戦像が間違っているとする本です。これまでこの著者の本は読んだことがありませんでしたが、著者の主張は「挑戦」という感じではなく、私には抵抗なく受けとめることができ、面白く読めました。
例えば、合戦の死者の死因を著者は調べていて、弓、礫、そして鉄砲伝来後は鉄砲といった飛び道具による死者が多いことを明らかにし、日本人は飛び道具主体の遠戦を好んだと書いています。礫については、印地打ちなどという習俗も思い起こされて興味深い。また、日本人が遠戦を好んだというのも、決戦状況でなければ自軍の構成員をなるべく死なせたくないでしょうから、遠戦で優劣が判明すれば、劣勢と判断した方は近接戦に移行することを避けて、そうなるのでしょう。などなど、著者の主張は無理ない感じ。
ただ、感心する点ばかりだったかというと、そうとも言えないかな。通説・俗説にのっかって、それらを元に一般向けの著作を著す専門家に対する批判が本書には非常に目立ちます。それほど批判するなら、それらに代わる著者独自の見解が随所に示されているかというと必ずしもそうではなく、何が正しいのかまだ分かっていないということを示すだけに終わっていることの方が多い。「疑問だらけの戦国合戦像」という著者の認識は正しいと読んでいて感じましたが、ではなぜ疑問だらけなのかというと、史料の不足が最大の原因でしょう。教科書や通俗読み物の需要が常にあり、書いて欲しいと依頼されること・書きたいことのすべてに基礎となる明解な史料を必ず自分で見出さなければならない訳ではないでしょうから(専門誌への投稿でpeer reviewされるもの、専門書なら話は別)、通説・俗説とされる考え方に沿った記述が含まれることも許されると私は思います。それらの書き手を非難してばかりというのは下品な感じです。

2010年9月4日土曜日

生物多様性<喪失>の真実



ジョン・H・ヴァンダーミーア/イヴェット・ペルフェクト著
みすず書房 2010年4月発行 本体2800円
熱帯雨林の減少は今でも続いている。保護策を積極的にとる模範的な国と見なされ、エコツーリズムの目的地にもなっているコスタリカにおいても、やはり熱帯雨林が減少し続けていること。また、ところどころに島状に残された熱帯雨林をフェンスとガードマンに守られた保護林として残すだけでは、生物多様性が失われることの歯止めにはなり得ないことが本書では記されています。
熱帯雨林の破壊の原因として、樹木の伐採、焼き畑、人口増加(ほんとは作られた社会的移動が主因)と小農による農地化、プランテーション化などが目につきますが、これらを個々に押しとどめようとしても、それは無理。タイトルにある「真実」は、熱帯雨林の破壊を来す政治経済的なシステムが現に存在しているのでそのシステム自体の変革を求めないと根本的な解決にはつながらないということです。そういった著者たちの主張を至極当然なものだと私も感じました。著者たちの主張に抵抗がないのは、著者たちの発想がシステム論・従属論を元にしたもので、私も基本的にはそれが好きだからだと思いますが。
政治経済的なシステムが生物多様性喪失の真実だとすると、熱帯雨林の問題の改善のためには、先進工業国(中核)に住む人たちの理解とシステム改変への積極的な参加が不可欠です。本書の冒頭で触れられていますが、朝食のシリアルにスライスしたバナナを添えて食べる行為は、熱帯雨林をスライスして食べているようなもの、それは確かです。でも、先進工業国に住む人、たとえば自分や自分の周囲の人たちをみまわして、バナナのスライス=熱帯雨林の破壊を自覚して行動できる人っているのかどうか。この点に関しては悲観的になってしまいます。政治経済的なシステムによる変化、例えば熱帯雨林の破壊のように目に見えないところで起きている変化が、自分たちにとって不利益になるのだいうことを知らせて、よくよくわかってもらわないとダメでしょうね。
もちろん、本書には熱帯雨林の性格、熱帯の土壌での農業の問題点、著者たちのフィールドであるコスタリカ・ニカラグアの様子が記され、特にサンディニスタ政権に対する評価は興味深く読めました。また、保護林を島状に設定するだけではなく、より広い面積を占めるその周囲の農地・プランテーションで行われる農業を、化学薬品に依存した近代的農業ではなく、生物多様性を保ちやすい伝統的な農法で行うようにするという当面実行しやすい対策が提言されていました。

2010年8月30日月曜日

戦艦武蔵ノート



吉村昭著 岩波現代文庫/文芸172
2010年8月発行 本体1040円
私は医学生になって以来25年以上、小説をほとんど全く読んでいません。吉村さんの作品も、たまたま毎月読んでいた雑誌に「破獄」が連載されることになり読んだことがあるだけで、「戦艦武蔵」は手に取ったこともありませんでした。でも、面白かった。
本書は小説ではありません。著者の戦争および戦後の戦争への評価に対する思いと、戦艦武蔵執筆につながる取材の過程を明かした作品です。武蔵竣工後に乗り組んだ海軍の将兵、武蔵での沈没を経験した人たちだけではなく、建造の計画期から実際の長崎での建造にたずさわった人たち、その周辺の人たちなど、とても多くの人にインタビューを行っています。そして、そのインタビューに対する反応や、またそこから明かされる数々のエピソード、そのどちらもがとても興味深く読めました。
冒頭に「二十年前に不意に集結した八年間の戦いの日々」とあるので、もともとは1960年代半ばに書かれたもののようです。本書は、書かれた時代を感じさせてくれもします。ひとつには、進歩的文化人をはじめとする世間の戦争観に対する不同意。著者は昭という名前で分かるように昭和のはじまりの1927年生まれで、戦争責任からの回避・自己保身など考える必要のない世代で、それが進歩的文化人に対する批判的な見方をみちびき、また戦艦武蔵の執筆につながったのでしょう。もう一つは、こういった著者の戦争観に対して同意してくれたのは同年輩の男性だけで、戦争への評価に男女間の違いがはっきりあると露骨に記していること。男はリスクを負っても未来に賭けるのに対し、女は現在の生活しか重視しないなんてことは、今ならどうどうとは書きにくい感じがしてしまいます。

2010年8月29日日曜日

次男坊たちの江戸時代



松田敬之著 吉川弘文館歴史文化ライブラリー246
2008年1月発行 本体1800円
iPhoneやガラケーの影響で現在はほとんど売れなくなっている週刊誌という存在がありますが、一昔前ならその種の週刊誌に載せられていたようなゴシップ、それも江戸時代の公家の話が多数載せられている本でした。その対象も、武士であれば厄介・部屋住みと呼ばれた次男三男だけでなく、養子、密子、猶子や廃嫡、復籍など広い範囲の話題が取りあげられています。読んでて面白いし、またこれだけのゴシップを集めるのは大変だったろうなと著者の博捜ぶりに敬服します。本書は、同じ吉川弘文館から出版された「朝廷をとりまく人々」に著者が寄せた「堂上公家の部屋住」という論考から発展したものだそうです。ただ、概説的な部分は似ていますが、個々のエピソードはほとんど別のものでした。「朝廷をとりまく人々」も面白い本でしたから、両方おすすめです。
紹介されているエピソードには、公家ならではという点もあります。例えば、猶子なんかはそうでしょう。しかし、身分違いの養子や廃嫡などに関しては、おそらく江戸時代の武士や農民にもおなじような話がたくさんあったのかなと想像します。しかし、うちうちに密子や元密子だった兄弟の喪に服する際に武家伝輳に届けをするなど、記録が残りやすかった点は公家ならではなのでしょう。

2010年8月27日金曜日

サゴヤシ



サゴヤシ学会編 京都大学出版会
2010年7月発行 本体5000円
サゴヤシという一種類の植物がテーマの本です。390ページがサゴヤシに関する論考だけでしめられているので、細かな知識がたくさん載せられている本ではあります。例えば、サゴヤシの葉柄は幹の外側に時計回りについてゆくので、一つの葉に付く小葉の数が左>右になっていること。小葉の数を数えてそこに規則性を見出すとはびっくり。ただ、こんな風な細かい情報は得られても、素人が読んでなるほどと感じられるような包括的な情報が得られる本ではありませんでした。不満な点をいくつか示すと、
サゴヤシは緯度10度以内、高度700メートル程度までの土地に生育するのだそうです。このことから、サゴヤシの生育が温度に規定されそうなことは容易に想像されます。45ページから熱帯植物の低温ストレスについて書かれていて、光合成器官と非光合成器官どちらもが障害を受けるのだそうです。しかし例としてあげられた研究での光合成器官の障害をもたらす「低温」が何度なのか書かれていません。また非光合成器官の障害については0度での話が書かれています。サゴヤシ自体に関する研究はないそうで、その他の種の植物の温度不明な低温ストレスに関する話とか、0度にさらされた時の話を出されても、なんだかなという感想しか持てません。
サゴヤシの種子の胚乳の主成分はセルロースなのだとか。セルロースは一度合成したら一生涯分解する必要のない構造に使用する物質かとばかり考えていたので胚乳として使えるとは驚きです。発芽の際に、きちんと単糖にまで分解してエネルギーを取り出せているのか、興味がありますが、この点に関しての説明はありません。
サゴヤシは幹立ち後、十年前後で花芽を付けて開花し種子をつくるそうです。この花芽をつける条件は一つの要素によって起きるわけではなく、幹の長さ・葉の数・幹の生長期間などが複合しているらしいとのこと。こういうのがいちばん面白そうなところなのに、これをはっきりさせる研究がまだないというのは残念。
また、サゴヤシの種子の発芽力が低く、栽培にはサッカーという芽を移植することが一般的と説明されています。でも、この発芽力の定義がはっきりしません。水中播種で100日間追跡したデータが載せられているので、種子を水につけて何週間で何%が発芽したかというものなのでしょうか。もしそうなら、人による栽培目的での播種に関する発芽力ということになります。野生状態での発芽について考える必要はないのでしょうか。というのも、サゴヤシ種子の包被組織には発芽抑制物質がかなり含まれていると書かれているからです。野生のサゴヤシとしたら、種子は地上に落ちていっぺんに発芽してもらうよりも、何年かかけて少しずつ発芽してくれた方が都合がよいはずで、そのために発芽抑制物質があるのだと思うのです。こういう意味での発芽力についての研究はまったくないのか、触れられていないので不明です。果実のまま播種して6週間で5%しか発芽しないそうですが、残りの95%はだめな種子なのかどうか、その後数年とか数十年とかかけておっかけないと、説得的な研究とは言えないような気がします。

原産地におけるサゴヤシデンプンの抽出方法を、幹を砕く道具として鎚を使うかおろし金状の道具を使うか、またデンプンの抽出のための水洗いに手を使うか足を使うかの観点から4つに分類して、その地域的な分布が地図で示されています。その地図にウォーレス線とウェーバー線が書き込まれていて本文にも「各地域のての方法と足の方法の分布を調べてみると生態の違いを示すウォーレス線とウェーバー線で分けることができる」と書かれています。人類がこの地域に拡がる以前、サゴヤシはウォーレス線かウェーバー線の西側に限って広く分布していたという事実でもあれば別ですが、抽出方法の分布の話にウォーレス線・ウェーバー線を持ち出すのは著者のセンスを疑います。


本書のサブタイトルは21世紀の資源植物となっていて、サゴヤシデンプンの生産・利用がもっと増えて欲しいと著編者は考えているようです。ただ、利用されるためには価格が重要だと思うのですが、一箇所に「馬鈴薯デンプン>サゴデンプン≧甘藷デンプン>タピオカデンプン>コムギデンプン>コーンデンプン」と記載されているだけでした。価格差を具体的に示さないのはなぜなのか、書いた人の意図が全く分かりません。またサゴデンプンを日本で使うとしたら、わらび餅などに加工するのにふさわしい特性を持っているそうです。しかし、製品の夾雑物の多さから食品としての利用が難しい面があるそうです。

サゴヤシのデンプンへの工業的な加工について本書中で説明されています。コーンや小麦など他のデンプン原料と違って、品質劣化をきたさずに収穫から加工までの期間を長く保存できないようです。また加工には多量の水が必要です。夾雑物の少ない白い精製デンプンを望むとすれば、より多量のもっときれいな水が加工に必要になるわけで、泥炭地にも栽培できて環境負荷が少ない特性のはずのサゴヤシが、加工のために環境負荷を大きくしてしまうことになりそうです。現地以外での利用を伸ばすことと、このあたりのかねあいを編著者はどう考えているのかが書かれていないのも読んでいて不満でした。