2009年11月13日金曜日

江戸と大坂


斉藤修著 NTT出版
2002年3月発行 本体2500円

17世紀には江戸でも大阪でも年季奉公をする人が多数いました。大阪ではその後も商家で住み込み奉公人の伝統が続いたのに対し、江戸では住み込み奉公人は減少して、かわりに「江戸中の白壁は皆旦那」という意識を持った雑業者の増加がみられるようになりました。大阪の商家で住みこみ奉公の制度が続いたのは、即戦力となる人材を外部の労働市場で調達できる条件がなかったので、若年で採用して実地訓練と幅広い経験の積み重ねによる熟練形成が望まれたからです。近代日本にみられた労働市場の二重構造と似たものが江戸時代にも、内部労働市場を持つ大商家と都市雑業層というかたちで存在していたということが本書には述べられています。

そして、住み込み奉公が終了して自分で一家を構える許可の出る年齢が30歳代後半だったことから人口抑制の効果があったこと、それに対して都市雑業層の増加はこの層が都市に定住して家庭をもったことから人口を増加させる影響があったことが論じられています。初期の江戸は性比のバランスがとれず、出生率の多くない都市でしたが、雑業層の定住によって19世紀には男女比がほぼ一対一になり、江戸で生まれた者が住民のうちの多数を占めるようになったということです。

大阪の商家で見られた労働市場の内部化はホワイトカラーのみを対象とするものでした。明治以降には近代産業の内部でブルーカラーまでが対象となったことを考えると、江戸時代に見られる労働市場の二重構造は、直接には近代の二重構造とはつながらないのだそうです。また、本書ではヨーロッパの都市との対比なども述べられていて、勉強になりました。都市雑業層の存在した江戸を第三世界の大都市のようだったのでは、という指摘も面白い。

さて、ひとつ疑問に思うことがあります。十代前半で丁稚として採用されるのですから、最初の数年は住み込みで働かせるのも分かりますが、二十歳代以降は結婚を許可して、通いで働かせてもいいような気がします。なのに、どうして 三十歳代半ばでやっと別宅、つまり通い勤務が許される段階まで、大阪の商家では奉公人をずっと住みこませていたのでしょうか。成功すれば高収入の管理職になれるとはいっても、能力の不足から途中で暇を出される人の方がずっと多かったはずです。それなのに、結婚もできない身分で働き続けなければならない商家の奉公人が割のあわない職業として忌避されるようなことはなかったんでしょうか。

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