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2009年11月28日土曜日

「満州」の成立


安富歩・深尾葉子編 名古屋大学出版会
2009年11月発行 本体7400円

「森林の消尽と近代空間の形成」というサブタイトルがついていますが、清朝の故地である満州は封禁政策により保護され、20世紀初め頃にもトラやヒョウの棲息する森林が広く残されていました。政策転換と、枕木や初期には蒸気機関車の燃料として大量の薪を使用した東清鉄道の建設によって森林は広く伐採され、赤い夕陽が地平線に沈む満州の風景が形作られました。比重が重いために水運では運びにくい広葉樹材が鉄道で輸送され、西側のモンゴルから豊富に供給される馬と組み合わされて、満州特有の1トンも輸送できるような大きな馬車が製造されるようになりました。中国本土では徒歩が主な移動手段だったのでスキナーの提唱するような定期市のネットワークが発達していました。しかし満州では、冬期に地面が凍って馬車による比較的長距離の大量輸送が可能となるので定期市は発達せず、生産地→県の中心地(県城・駅)→大都市→輸出港へと商品が輸送されることから、県城または駅が農村経済の中心となる県城経済という現象がみられようになりました。もともと満州では大豆が商品作物として栽培されていて、華中の綿花、華南のサトウキビ栽培の肥料向けに移出されていました。鉄道の建設後は大豆は国際的な商品作物となり、中国本土の貿易収支が赤字だったのに対して、満州は貿易収支が黒字の状況でした。地域経済が分散的・ネットワーク的な中国本土と、県城を中心としたツリー構造の満州という対照的な様相は政治にも影響して、満州では省→県城→農村という支配の形が無理なく機能します。貿易黒字とツリー状の支配体制を利用して、満州は中国のフロンティアから経済的な先進地帯に変化し、張作霖政権は第二次奉直戦争に勝利するなど軍閥として成長することができました。また張政権は輸入代替工業化や満鉄包囲線の建設などを進め、危機感を抱いた関東軍は満州事変を起こします。満州事変後の満州国では治安維持にある程度成功したのに、日中戦争期の華北の占領地では点と線の確保しかできなかったのは、県城を中心としたツリー構造の満州と、分散的・ネットワーク的な華北という違いが反映していると著者は示唆しています。

ざっとこんな風なことが書かれていると理解しましたが、中国東北部の気候や自然背景から経済・政治まで、無理なくつなげて説明する構想力にはとても感心します。この著者のグランドプラン自体の是非の判断は専門家におまかせするとしても、少なくとも素人の目からは素晴らしいとしか思えません。また、夜間に撮影された衛星写真をつかって、満州と華北の都市・農村配置の違いを示すようなアイデアや、著者の説を補強する材料としてタルバガンという齧歯類の毛皮獣猟とペストの関連、山東省と満州との私帖(非官製紙幣)の発行主体の性格の違い、満州と中国本土の廟会(寺社の縁日+市)の違い、などの記述も興味深く読めました。今年読んだ中でも一番面白かった本になりそうな感じです。

2009年11月21日土曜日

イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか


渡辺一夫著 築地書館
2009年10月発行 本体2000円

日本に生育する木のうち36種類の生態・成長や繁殖の様式などの特徴を紹介している本です。「イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか」というタイトルがついていますが、イタヤカエデは25番目に出てくるだけで、特にイタヤカエデについて注目すべき記載があるというわけではありません。さおだけ屋はなぜ潰れないのか?という新書がヒットして以来、似たようなタイトルの本が多く見られるようになりましたが、本書もきっとその一つでしょう。目を惹くためとは言え、はしたないという印象を与えるタイトルです。

36種の木の中には高山に行かなければ見られないものもありますが、東京で街路樹や公園などで身近に見られる木も取りあげられています。また紹介されている特徴も面白く読めました。

例えば、森林の下生えに笹が生えている所って、どうやって樹木の更新が行われるのか疑問だったのですが、笹が枯れた時に稚樹が育つと説明されていました。そういえば、笹は実を結ぶと枯れるんでしたね。

ドングリを付ける木もいくつかとりあげられています。ドングリは乾燥に弱く、土の中での生存期間も一年程度と短く、ネズミなんかに食べられやすくもあってコストの割に欠点が多い種子なのだそうです。固い殻があっても乾燥には弱いとは知りませんでしたが、デンプンの存在の仕方が穀物や豆類とは違うのでしょうか。また、それならどうしてああいう大きなデンプンのたくさん詰まった種子を作るのかが不思議に感じます。ただ、ドングリを作る木が絶滅していない点からは必ずしも、種子としてドングリをつくる戦略が失敗というわけではないようです。

本書は樹形や葉や幹や花や実をたくさんの写真で紹介しています。ただ、カバーを除くとそれらすべてがモノクロ写真なのです。もう数百円高くても良いから、カラー印刷で出して欲しい気がする本でした。

2009年11月20日金曜日

伊藤博文


伊藤之雄著 講談社
2009年11月発行 本体2800円

本書は伊藤博文の伝記ですが、読んでいると偉人伝という言葉が浮かんできます。明治維新に参加し、30歳代で参議になり、木戸・大久保亡き後の明治政府の第一人者となり、憲法を制定し定着させた人ですから、もちろん偉人であることに間違いはないわけです。ただ、彼の意の通りに進まなかったことを病気・疲労・高齢・他人を疑わない性格などのせいにして書かれている点がなんとなく、ほほえましく思われ、偉人伝だなと感じてしまったのです。でも、伊藤博文の一生を手軽に読めるという意味で、良い本だと思います。

伊藤の最大の功績の一つは明治憲法ですが、憲法施行後に憲法を停止しなければならないような事態に陥ることがないよなものに仕上げる必要があったという指摘は、今まで考えたことがなかったので、新鮮でした。オスマントルコが施行後2年で憲法を停止しそのままになってしまったことは知っていましたが、伊藤たちが前車の轍をふまないようにしたというのは、条約改正を目標として欧米先進国からの目を意識していた時代だから当然ですね。そう考えると、あの時期にはある程度君権の強い憲法にならざるを得なかったのも理解できます。

ただ、憲法のできばえについては、かならずしも不磨の大典とは伊藤が考えていなかったろうという本書の指摘に賛成です。明治天皇、そして昭和天皇も名君で、憲法の求める機関説的な君主を演じてくれたから良かったのですが、仮に後醍醐天皇や後鳥羽上皇みたいな天皇が即位したらかなり危ないことになってしまいそう。また日本が危なくなる事態ではなくとも、大正天皇のように執務が困難になる病気に天皇がかかってしまうと、国家権力の正当性が失われてしまう構造の憲法です。さらに、日露戦争の頃には議会・内閣・軍など権力の分立構造が明らかになってきていて、元勲の第一人者たる伊藤でさえ思うとおりにはできないことが多々生じています。きっと、なんとかしたいとおもっていたことでしょう。

韓国では伊藤に対する評価はとても低く、日韓併合の主導者と考えられています。しかし、著者が他の本でも史料をもとに主張しているように、山県や陸軍などとは違って、伊藤自身は「韓国の富強の実を認むる時」まで保護国として統治するが、植民地にする意図を当初は持っていなかったという説に賛成です。64歳という高齢で韓国統監に就任したのも、韓国に植民地化以外の道を歩ませるという抱負があったからというのはその通りでしょう。ただ、第三次・第四次伊藤内閣がそれぞれ約半年と短命だったように、元勲の第一人者とはいえども日本の政治を意のままに操ることができなくなっていたことも、韓国の政治に携わる理由になったのではないでしょうか。

600ページを超える本書ですが、本体2800円でおさまっているのは有り難いこと。それにしても、講談社発行のハードカバーの本は生まれて初めて買ったような気がします。

2009年11月13日金曜日

江戸と大坂


斉藤修著 NTT出版
2002年3月発行 本体2500円

17世紀には江戸でも大阪でも年季奉公をする人が多数いました。大阪ではその後も商家で住み込み奉公人の伝統が続いたのに対し、江戸では住み込み奉公人は減少して、かわりに「江戸中の白壁は皆旦那」という意識を持った雑業者の増加がみられるようになりました。大阪の商家で住みこみ奉公の制度が続いたのは、即戦力となる人材を外部の労働市場で調達できる条件がなかったので、若年で採用して実地訓練と幅広い経験の積み重ねによる熟練形成が望まれたからです。近代日本にみられた労働市場の二重構造と似たものが江戸時代にも、内部労働市場を持つ大商家と都市雑業層というかたちで存在していたということが本書には述べられています。

そして、住み込み奉公が終了して自分で一家を構える許可の出る年齢が30歳代後半だったことから人口抑制の効果があったこと、それに対して都市雑業層の増加はこの層が都市に定住して家庭をもったことから人口を増加させる影響があったことが論じられています。初期の江戸は性比のバランスがとれず、出生率の多くない都市でしたが、雑業層の定住によって19世紀には男女比がほぼ一対一になり、江戸で生まれた者が住民のうちの多数を占めるようになったということです。

大阪の商家で見られた労働市場の内部化はホワイトカラーのみを対象とするものでした。明治以降には近代産業の内部でブルーカラーまでが対象となったことを考えると、江戸時代に見られる労働市場の二重構造は、直接には近代の二重構造とはつながらないのだそうです。また、本書ではヨーロッパの都市との対比なども述べられていて、勉強になりました。都市雑業層の存在した江戸を第三世界の大都市のようだったのでは、という指摘も面白い。

さて、ひとつ疑問に思うことがあります。十代前半で丁稚として採用されるのですから、最初の数年は住み込みで働かせるのも分かりますが、二十歳代以降は結婚を許可して、通いで働かせてもいいような気がします。なのに、どうして 三十歳代半ばでやっと別宅、つまり通い勤務が許される段階まで、大阪の商家では奉公人をずっと住みこませていたのでしょうか。成功すれば高収入の管理職になれるとはいっても、能力の不足から途中で暇を出される人の方がずっと多かったはずです。それなのに、結婚もできない身分で働き続けなければならない商家の奉公人が割のあわない職業として忌避されるようなことはなかったんでしょうか。

2009年11月12日木曜日

MRIの騒音とSteve Reich

調子の悪いところがあって、今日は頭部MRIを撮ってきました。検査は30分ほど続いたのですが、予想より短く感じました。その原因は音。

MRIの検査を受けたことがある人ならおわかりだと思うのですが、MRIは検査中ずっと、工事現場のドリルのような騒音が続きます。単調な断続音なのですが、検査の進行にともなって音の高さが変化してゆくので、聞きながらなんとなくMusic for 18 musiciansに似てるなと感じてしまったのです。この曲はSteve Reichの代表作ですが、彼の作品の中でも一番好きな曲です。


MRIは検査に時間がかかるし大きな音がするしで、痛くはないけれど楽な検査ではありません。でも、あの断続音にマッチするようなメロディーも一緒に流せば、騒音が転じてバックグラウンドミュージックになるような気がします。MRIの製造会社もいくつかあって性能や価格で競争していますが、新たなセールスポイントになるんじゃないでしょうか。

15年ほど前にもMRIを撮ったことがあります。その時は勤務先の病院にMRIの機械が設置され、試運転の実験台になったのでした。大きな騒音には気付いていましたが、今回のようなミニマルミュージックを連想することはありませんでした。というのも、検査中に眠ってしまったからです。ふつうだと、あれだけの騒音の中で眠るなんてことは考えにくいことですが、当時は診療所ではなく、病院の勤務医でしたから、慢性の睡眠不足と疲労があってつい眠ってしまったのだと思います。

いま、診療報酬の改定の検討がなされていますが、病院の勤務医の労働条件は当時よりずっと厳しくなっています。その厳しさがいくらかでも緩和されるよう、また厳しさに見合った待遇がなされるような診療報酬が実現することを望みます。

2009年11月8日日曜日

歴史人口学研究


速水融著 藤原書店
2009年10月発行 本体8800円

新しい近世日本像というサブタイトルがついていますが、著者をはじめとした歴史人口学の成果が、私の近世日本に対する認識を大きく変えてくれたことは
たしかです。本書には、主に著者の雑誌に発表した論文が収められていて、読んだことがないものばかりでした。

著者お得意の勤勉革命に関するものはありませんでしたが、江戸時代初期の人口が1800万人ではなく1000万人程度だったこと、江戸時代中期以降の西日本での人口増加と東日本や大都市近郊での人口減少が相殺されて日本全国の人口は停滞していたように見えること、単身者が多かったり婚姻年齢が高かったりして都市の人口は自然減を呈していたこと、などを示す論文が収められていました。

第11章は幕末のカラフトの人口構造という論文です。狩猟や漁労のみに携わっていたカラフト先住民の人口構造の一端が紹介されていることも面白いのですが、1853年という時期に幕府がカラフト先住民の人口調査を行ったこと自体知らなかったので、とても驚きました。

終章では、家族・人口構成パターンから、日本全体を東北日本・中央日本・西南日本(東シナ海沿岸部)の3つに分けることができることが示されています。
世帯内の生産年齢人口比率は、決定的に重要な経済指標と考える。それは、上記三つの地域で状況はそれぞれ異なるが、特に東北日本では、危険水準に落ち込まないように保つメカニズムが働いていた。波動に際しては「オヤカタ」(本家)が一党の面倒を見るべく救済に乗り出し、「オヤカタ」・「コカタ」(分家)の関係が危険を回避する機能を演じていた。
中央日本では、その激しい波動は、いくつかのレベルで緩和されていた。家族レベルでは、同族団で、血縁の家族が支え合う組織が最も根深く発達していた。村レベルでは「講」と呼ばれる組織で、ある場合には宗教的な寄り合い(宮座)として、別の場合には民間金融の寄り合い(頼母子講)として機能している。注目されるのは中央日本では経済的発達の浸透が最も著しく、各世帯が、個別的に危機になれば所持する土地を売り、所得の増えた時期にはそれを買い戻すこと行動に出ていることである。この地域で近世史料調査をすると、驚くほど多い土地売買証文、質入証文を見出す。これは、農民たちが、危機を回避すべくとった行動記録なのである。
東北日本のオヤカタ・コカタについてはなんとなく当たり前のような気がしていましたが、世帯内の生産年齢人口の変動に対して中央日本では土地の売買や質入れで対処していたというのは、重要な指摘です。こう考えると、この地域での地主小作家系に関する認識が替わるし、またもしかすると中世のこの地域でのものがもどる慣行と関連していないかなど妄想してしまいます。

また、ふつうに日本を大きく地域に分ける時には、東日本と西日本に分けて論じますが、著者のいう東北日本が東日本に、中央日本が西日本にあたるでしょう。その他に、西南日本の存在を主張するのは著者の特徴ですが、からゆきさんのような実例もあるので、その存在はたしかでしょう。これに関しては、宮本常一さんが日本文化の形成の中で述べていた海部や家船を持つ人たちのことが想い出されます。また、台湾から南に船出してフィリピン・マレー半島・インドネシア・マダガスカル・オセアニアに広がったオーストロネシア語族の人たちですが、一部は黒潮にのって北の日本に行き着き、西南日本の源流になったというようなことはなかったのかしらと妄想してしまいます。

2009年11月3日火曜日

天文法華一揆


今谷明著 洋泉社MC新書039
2009年9月発行 本体1900円

この本はもともと1989年に平凡社から出版されて、長らく品切れになっていたものだそうです。今谷さんの著者は面白いと感じるものが多いのですが、 天文法華一揆をテーマにした本書もそうでした。読んでいてまるでドキュメンタリーのように感じましたが、あとがきを読むと著者自身も事件史として、非専門家向けにドキュメンタリータッチに叙述した旨を述べています。

天文法華一揆は、むかし教科書で天文法華の乱として学んだ記憶がありますが、どんなものだったのか理解してはいませんでした。本書によると、堺公方体制内部の対立の際に、細川晴元が本願寺に援軍を依頼したところ、 本願寺の動員力は当時の守護や国人が動員できる兵数よりずっと多く、数万の軍勢が集まって、堺にいた三好元長は攻め滅ぼされてしまった。これを知った近国の一向宗門徒は、奈良や京の周辺で一揆を起こした。これを鎮圧するには武士の力だけでは不十分で、幕府は法華宗の信者が多数いた京の町衆の動員力に期待することとした。これは成功して、各地の一揆は鎮圧され、山科の本願寺も焼き討ちされてしまった。大阪の本願寺も攻められ、一向宗側の希望で講和が結ばれた。細川晴元も将軍足利義晴も京にはいない時期だったので、法華一揆が京内の治安維持に任じるとともに、功のあった法華一揆は京の市民の一揆で上級商人層が中心だったので、地子免除を認めさせ、周辺農村の半済や京七口の関所の関銭の廃止を求めた。また、宗教的な対立からか、法華一揆による京周辺の農村の焼き討ちなども行われた。これら一連の法華一揆側の動きは、幕府や法華宗以外の宗教性力などの反発を招いた。そんな時期に、法華宗の一門徒が叡山の華王房という僧を宗教問答でやりこめられてしまうという事件が起こった。これに反発した山門側は近江の六角氏とともに京に攻め込み、京の町は広く焼かれ、法華宗は敗北した、というもののようです。

天文法華の乱は山門が京の法華宗寺院を焼き討ちした事件ですが、そうなるまでのいきさつが説明されていて、すっきりしました。でも読んでいて疑問も無いわけではありません。数万という動員力の一向宗との対決で本山の山科本願寺を焼き討ちするくらいの力を持っていた法華一揆側は、なぜ山門に攻められるとあっさり負けてしまったんでしょう。幕府や他の宗教勢力から孤立していっただけではなく、上級商人以外の京の市民の中でも孤立しつつあったからなんでしょうか。

この洋泉社MC新書のMCはModern Classicsという意味だそうです。私が昔読んだことのある本では「東日本と西日本」もこのMC新書として並べられていました。こういう入手しにくかった本が復刊されるのはいいことだと思います。