2009年9月4日金曜日

司馬遼太郎の歴史観


中塚明著 高文研
2009年8月発行

以前にも書いたことがありますが、本をもらうのって非常にありがた迷惑です。贈る方は善意でしてくれているのでしょうが、自著でもないかぎり本は贈るべきではないと思うのです。で、この本も贈られたものです。ふつうはお断りするのですが、断りにくいある事情があったのと、またふつうだったら決して手にしないであろうこの種の本にどんなことが書いてあるのかチェックすることができるかと思って、受けとることにしました。

一読してみて、とんでも本の一種だなと感じました。なにがとんでもかと言うと、まずはタイトルがとんでもです。司馬遼太郎という有名作家にかこつけて売り上げを伸ばそうとする下心ありあり。奥付にある紹介を見ると、本書の著者は日本近代史専攻の学者です。学者が他の学者の論文や言動に対して「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」ことは当たり前のことでしょうが、小説家の書いた小説や紀行文や新聞談話などを対象にいちゃもんつけるってのは変です。

しかも本書で著者は、重箱の隅をつつくように難癖を付けている印象。例えば46ページには朝日新聞に載った司馬の談話の一部、「李朝五百年というのは、儒教文明の密度がじつに高かった。しかし、一方で貨幣経済(商品経済)をおさえ、ゼロといってよかった。高度の知的文明を持った国で、貨幣を持たなかったという国は世界史に類がないのではないでしょうか。」をとりあげて、李朝期の朝鮮でも常平通宝が鋳造されていると批判しています。でも、これって修辞の問題のような。開国を強要される以前の前近代における日本と朝鮮の貨幣経済の浸透の程度の違いは歴然としているわけで、小説家が一般の人を相手にこういう表現を使ってもおかしくないでしょう。しかも、そもそも語ったとおりに掲載されるとは限らない、新聞記者が大きく改編することが当たり前の新聞談話を対象にして批判するのはフェアじゃないです。

また、坂の上の雲が描く、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、明治は輝いていた、日露戦争=祖国防衛戦争などなどの見方や、日露戦争後に日本陸軍は変質したという司馬の考え方などを著者は批判しています。明治は輝いていた論は別にして、歴史学的な考え方としては多くの点で著者の主張の方が正しいという点では、私にも異論はありません。しかし、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、日露戦争=祖国防衛戦争論などは司馬さんの創作ではなく、明治の日本の施政者が常に被植民地化の可能性を念頭においていた点など、当時において当たり前だった考え方です。小説家が小説を書く際に、背景となる時代に主流だった考え方を紹介し、それにのっとって話をすすめていくのは当然のことです。ことに、読者がその種の考え方を喜ぶのですから、プロの作家としては、それに応えるのが正しい作法であり、歴史家があれこれ口出しすべきことでもないでしょう。

また、明治は輝いていた論について、著者は日露戦争以後日本陸軍は変質したなどの司馬さんの主張に対して、反証を提出して批判しています。でも、同じ明治憲法体制が続いている明治と昭和の政府のやり口に似た点があったとしても、明治から昭和の敗戦まで何の変化もなかったとは言えないはず。著者の論法で行くと、敗戦前の政治史の研究なんてものは意味がなくなってしまいますね。それどころか、著者は敗戦前後の違いを強調していますが、同じ論法を使って、敗戦前後に違いはないと主張することだって可能になってしまいます。著者は歴史家にふさわしくない批判をしているとしか思えません。

すでに司馬さんは遠い昔に亡くなっているし、いったい著者は何を目的に司馬さんの小説に文句を付けるのでしょうか。情報リテラシーの低い一般的な日本人読者が司馬さんの小説を読んで、それをあたかもまっとうな歴史書であるかのごとくに思いこんでしまうことが心配だということでしょうか。もしそうだとしても、本書ではその種の誤解を解消するのは全くもって無理だと思います。司馬さんの小説を面白いと感じて読む人が、本書のようなとんでもなタイトルと、難癖付けるような内容の批判、ページと本文の文字の大きさと行間とのバランスがとれていない美しくないデザインの本を共感をもって読んでくれるとは思えないからです。ほんとにその種の誤解をただしたいのであれば、こんなとんでも本ではなく、司馬遼太郎の坂の上の雲よりもっともっと面白い、しかも著者の伝えたい正しい明治・朝鮮像を描いたエンターテインメントを創作するしかないだろうと思います。

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