2009年8月30日日曜日

明治・大正・昭和政界秘史


若槻禮次郎著 講談社学術文庫619
1983年10月発行 本体1450円

戦前期の政治家・経済人などには養子に入った人が多い印象がありますが、彼もその一人でした。また、若い頃は苦学したそうです。大蔵省に入って手腕をみとめられ、次官を退官後に桂太郎の縁で立憲同志会の立ち上げに加わり、その後は政党政治家として歩みます。彼は男爵だったので貴族院議員ではありましたが。彼は加藤高明死去後に憲政会総裁・首相となりますが金のできない総裁だったそうです。そして、その後は重臣として遇されました。慶応生まれの若槻さんですが、これらのことがとても平易で読みやすい文章で綴られています。

明治・大正・昭和政界秘史などという下品なタイトルが付けられて文庫で復刻されましたが、秘史と言うよりも元の古風庵回顧録で出した方が本書にふさわしい感じの内容です。また、企画されたのが第二次大戦の敗戦後で、原著の発行は1950年でした。彼がすでに80歳台になってからのことですから、記憶の定かでない点もあるようです。また、読者としてはとても気になることでも、彼が特に触れる必要のないと感じたか、または触れたくなかったことは、当たり前ですが記載されていません。私がその点で残念に感じたのは以下のようなこと。

第一次若槻内閣の与党憲政会は少数与党でした。憲政会内では衆議院を解散して総選挙を行い、それにより多数を確保しようとする動きがあったのに、若槻首相は予算成立のために、昭和天皇即位の初年ということを理由として、政友会・政友本党の野党2党首に協力を依頼しました。そして、予算成立の後には「政府においても深甚なる考慮をなすべし」と約束したのです。ここまでは本書にも書かれています。ただ、「深甚なる考慮」が総辞職と野党に受け取られ、それなのに総辞職しなかった若槻首相が嘘つき禮次郎と呼ばれるようになったことや党内からの批判など、またそれらに対する釈明が全くないのは残念です。

第一次若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令を枢密院で否決されたことにより総辞職しました。ロンドン条約批准の時のように枢密院と対決することはできなかったものなのでしょうか。少数与党だから無理だったのか、だとしたら解散総選挙を選択しなかった彼の判断ミスとも言えます。本書では、この時の枢密院での伊東巳代治の発言を「老顧問官」と一見名を伏せるようにして紹介し、非難しています。著者は「じっと腹の虫を抑えて黙っていた」とありますが、よほど悔しかったのでしょう。

第二次若槻内閣では満州事変が起きます。政府の不拡大方針にも関わらず、朝鮮軍は奉勅命令なしで越境しちゃうし、満州軍もちっとも戦闘を停止しませんでした。本書では、民政党一党の内閣だから軍が命令を聞かないのではと考えて、一時は政友会と連合内閣を組むことも考えたと書かれています。まもなく彼はこの考えを捨てますが、この方針で進もうとする安達内相を止めることができず、閣内不一致から総辞職しました。総辞職して内相だけすげ替えることはむりだったのでしょうね。

また、浜口内閣から第二次若槻内閣にかけては不景気の時代でしたが、その主な原因としては民政党内閣の実施した金解禁があげられます。昭和のこの時期の不況と農村の荒廃が、軍部の台頭、第二次大戦につながった面があると思うだけに、民政党のトップだった著者が金解禁をどう感じていたかに関する記載がないのはとても残念です。

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