2009年8月29日土曜日

ヨーロッパに架ける橋


T・ガートン・アッシュ著 みすず書房
2009年7月発行 
税込み 上巻5880円 下巻5670円

西ドイツ(BDR)のOstpolitikに関する本です。日本語では東方外交と呼ぶことの方が多いと思いますが、本書では東方政策と訳されています。また、東方政策はドイツ社会民主党(SPD)のブラント・シュミット首相時代の外交を指すものですが、本書ではベルリンの壁の構築から崩壊までを対象として、キリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーの時代から、コール首相時代のドイツ統一までが扱われています。

第二次大戦敗戦後に間接統治の行われた日本とは違い、ドイツでは軍政がしかれました。このため、西ドイツは地方自治の段階から始めて、国家主権の回復を目指すことが必要でした。この西ドイツの対外的自立に向けたプロセスにおいて画期となったのが、1950年代前半に西欧諸国との間に結ばれた条約(西方条約)で、これにより主権の回復が実現しました。また、1955年にはソ連との国交も回復しましたが、その後「ソ連以外で東独(DDR)を承認した国家とは国交を断絶する」というハルシュタイン原則が打ち出され、またポーランド西側国境(オーデル・ナイセ線)の承認も拒否していたので、東側との関係の進展は望めませんでした。したがって、主権は回復されても、分断されたヨーロッパのもとでのドイツ・ベルリンの分断状態は続きました。

1969年のブラント政権誕生後、 デタントの流れに棹さしてこの分断状況を克服する・究極的には統一を目指すためにとられたのが東方政策です。この頃は私も物心ついていたので、ワルシャワのゲットー記念碑を訪れ跪いて献花したブラントの姿のかすかな記憶があります。ブラント政権はハルシュタイン原則を放棄し、1970年のソ連とのモスクワ条約・ポーランドとのワルシャワ条約、1972年の両独基本条約を結び、東方外交を展開してゆきます。オーデル・ナイセ線の承認とそれによる旧プロイセン領などの放棄は当初CDUの反対を受けましたが、ブラントは「とうの昔に賭けに負けて失われたものを除き、この条約によって失われるものは何ひとつない」と指摘し、CDUも後になってこれを容認することとなりました。

ただ「ドイツの分割を心から遺憾に思うヨーロッパの政府はひとつもなかったといっても過言ではなかった」という状況下で統一に向けた政策を実行するために、西ドイツはドイツの分断を克服しないかぎり欧州分断も克服できないという論理を打ち出しました。また、東ヨーロッパでは1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー事件など、下からの改革の要求が圧殺されてきた歴史があったので、SPDは東方政策で「安定化を通じた自由化」戦略をとります。つまり、東欧の政府がより安定化して危機を自覚しなくなってゆけば、自然と自国民の自由・人権を尊重するようになるだろうというねらいです。さらに、東欧の政府がソ連の指示のもとにあることから、西ドイツはまずソ連との間で話を付け、ソ連から東欧の政府に西ドイツの要望を認めるよう指示してもらうような手法を多用しました。

「アメリカ人はムチの力を、ドイツ人はニンジンの力を、フランス人はことばの力を信じている」と言った人がいるそうですが、西ドイツの東方外交での最大の武器は経済力でした。ソ連を含めた東欧諸国の西側での最大の貿易相手国は西ドイツであり、 貿易を通じた変化が追及されました。また、1970年代からソ連・東欧諸国の経済成長は鈍化しましたが、 西ドイツから政府保障付きの借款が供与されるなど資金面でも東欧諸国は依存してゆきました。本来であれば西ドイツから導入した資金を経済成長目的で使用すべきところでしたが、政治改革を行う代わりに国民の不満を抑えるための消費物資の輸入にあてるなどしたため、1980年代末には東欧の債務危機につながりました。

「安定化を通じた自由化」戦略をとったため、ポーランドの連帯などの下からの民主化を支援する点では西ドイツは西側の国の中でも遅れをとりました。しかし、1989年にハンガリーが国内にいた東独国民をオーストリア国境から西側へ亡命させる決断をした背景には、債務危機に対する西ドイツからの金融支援の約束があったからだそうです。そして、この事件以降、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一までスムーズに進んだことも、当時のソ連が経済的苦境にあり、ゴルバチョフが西ドイツからの支援を期待していたことが背景にありました。東側の安定化を目指した西ドイツの政策でしたが、最終的には東側の体制転換に役だったと言えそうです。

あと、本書を読んでいて著者の書きっぷりが面白いと感じた点をいくつか。分割されたヨーロッパというのは、過去にも例があったというのです。例えば「ウエストファリア」型の分断、「ウィーン」型の分断、「ベルサイユ」型の分断など。ただ、冷戦の時期が特異だったのは人の交流が非常に制限されていたことだと。

西側と東側が資本主義と社会主義に分かれていたことに関しては、アウグスブルグの和議を持ち出して、「領主の信仰が領民の信仰を決定する」のだと。たしかにそう言われれば、似ているような。

ブラントはベルリン封鎖時にベルリン市長でした。その経験からブラントは交渉で不利な立場に立たされているという痛切な自覚を持っていて、「ベルリンで生まれた新東方政策の本質は、テロリスト国家から人質を釈放するための交渉だったといってもあながち過剰な誇張ではない」と著者は評しています。さらに、東方政策全体についてもストックホルム症候群とまで呼んでいます。まあ、ドイツ統一という目標は東西の隣人たちの同意を得ることによってのみ達成されると言うことを西ドイツ政府は自覚していたので、自然とそれを反映した政策がとられたということなのでしょう。竹島や北方領土は日本の固有の領土と言いながら、対韓・対ソ・対露関係でそれを可能とするような現実的な政策をとらない、却って教科書や靖国参拝問題など反感を買うようなことばかりをしているない日本政府とは対照的です。

東欧への資金援助が、東改革の代用品としての消費財の輸入に用いられた点では、東欧の中でも東ドイツが一番です。東ドイツが政治犯や「共和国逃亡罪」を侵した人を西ドイツに出国させることの代価として西ドイツマルクを受け取る、「自由の買い取り」という仕組みがありました。反体制派の輸出によってハードカレンシーが得られるこんな仕組みは他の東欧諸国には望むべくもなかったと著者は書いています。こういった人身売買やその他の制度から得た西ドイツマルクをつかって東ドイツでも消費財の輸入が行われ、ホーネッカー議長が社会主義国で行列を作らずにバターやソーセージを買えるのは自国だけだと自慢したのだそうです。彼自身は対外債務についての関心も持っていなかったそうで、そんな油断が東ドイツの命とりになったのですね。

ざっと、こんな感じで東方政策に関して学ぶ点が多く面白い本で、また翻訳も読みやすいと感じました。上下巻あわせた本文が500ページ以上、本文より小さな文字で詳細に記された注が170ページ以上にも及ぶ本書ですが、欠点は上下巻あわせて税込み11550円と値段が高い点でしょうか。どうも、みすずの本は高い気がします。

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