2009年7月24日金曜日

政党内閣制の成立 1918〜27年


村井良太著 有斐閣
2005年1月発行 本体6000円

米騒動を受けた寺内内閣の退陣後、元老の協議によって原敬が首相に選定されました。原内閣は政治的安定と実績をもたらし、政友会が統治能力をもつ政党であることを元老に印象づけました。このため原の暗殺後、同じ政友会の高橋是清が首相に選定されました。原内閣は最初の本格的な政党内閣とされますが、原自身は貴衆両院の最大勢力である研究会・政友会が交互に政権を担当する構想を持っていました。これは、憲政党党首の加藤高明が対華21箇条要求の責任者であり、元老も原も憲政会の外交政策・政権担当能力に不安を持っていたからなのだそうです。

高橋内閣の成立後に山県有朋は死去し、また残る松方・西園寺の二元老も高齢となり、実質的な影響力は減退していきます。しかし、この時点では一般的にも元老にも憲政の常道は当然視されていませんでした。なので、高橋内閣が閣内不統一で退陣した後、ワシントン会議の取り決めを実行するために海軍から加藤友三郎が元老から首相に推され、憲政会党首の加藤高明は加藤友三郎が辞退した時のための第二候補に過ぎませんでした。

また、加藤首相の死去後の山本権兵衛、虎ノ門事件による山本権兵衛退陣後の清浦奎吾の選定にあたっても、元老には政友会は統率がとれていないと判断され、憲政会は上記の理由で候補に挙がらず、中間内閣の擁立となりました。しかし、
元老が事態の収拾に責任を負い、元老の判断と力量によって政治的安定と政策的合理性を追求するという、これまでの選定システム自体の機能不全
は明らかであり、清浦が貴族院の研究会を基盤とする内閣を組織すると、非政党内閣であることと貴族院が衆議院と対決する状況に対する政党の反発とから第二次護憲運動が起こりました。

清浦に対する評価は一般的に低く、例えばWikipediaの清浦奎吾の項目には
選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はこの結果を内閣不信任と受けとめ、「憲政の常道にしたがって」内閣総辞職した。5ヵ月間の短命内閣であった(もっとも、清浦を推挙した西園寺から見れば、清浦内閣は選挙管理内閣でしかなかったのであるから、その役目は果たしたと言えるだろう)。
とあるように、かなり反動的な人という評価がなされている思います。しかし本書を読むと、清浦自身は選挙管理内閣のつもりであり、第15回総選挙の実施を期に政党内閣を受け入れて退陣する意向だったのに、却って西園寺の方が慰留につとめたのだそうです。この頃には山県直系で枢密院議長をつとめた清浦のような人でも、政党内閣制を当然のものとして受け入れていたわけですね。

松方の死去によりただ一人の元老となった西園寺は、清浦内閣の辞職を受けて総選挙で第一党となった憲政会の加藤高明を首相とします。加藤高明内閣は普選法の成立などに政治手腕をみせ、また幣原外相の外交が西園寺の眼鏡にかない、政友会と並んで統治能力のある政党としての評価を得ます。加藤高明の死去後の若槻礼次郎と、枢密院の台湾銀行救済緊急勅令の否決による若槻内閣総辞職後の野党田中義一の首相奏薦によって、政党内閣制の慣行が成立したと見ることが出来ます。

憲法に基づかない地位である元老による首相奏薦に対する批判がありました。また西園寺は、彼以降に新たな元老の任命されることにも、枢密院による首相奏薦にも、首相選定のための機関の新設にも同意しませんでした。元老に相談しての内大臣による奏薦が行われるようになりましたが、元老の絶滅が目前に控え、政治の外に位置すべき内大臣による奏薦がスムーズに運ぶためには、憲政の常道をルールとした政党内閣制が望ましかったわけです。さらに、明治憲法では天皇にすべての権力が集中しているのに関わらず天皇不答責とされていましたから、分立する権力を統合する仕掛けとしても政党内閣制がんぞましかったわけです。

まとめると、第一次大戦後の世界の風潮に棹さす大正デモクラシーの空気と、条件が整えば英国流の議院内閣制が望ましいと考えていた最後の元老西園寺の意向と、元老制以外の仕組みによって権力分立という明治憲法の欠陥を補完する必要性などを条件に、政友会・憲政会という二つの政党が統治能力テストに合格したことから、政党内閣制がルールとなったというあたりが、ざっと本書の主張だと読みました。元老と政党内閣制の関係の説明が非常に説得的で目の付け所がシャープだと思います。単に、政党と新聞がデモクラシー・立憲政治を主張し、世間がそれを是認しただけで政党内閣制がルール化したわけではないという訳ですね。

本書を読みながら、伊藤博文が首相の決定方法をどう考えていたのか気になりました。伊藤をはじめとした明治憲法の制定チームは、かなり綿密にいろいろと検討したはずなので、この辺りをどう考えていたのか知りたい気がします。また、制定時ではなくとも明治末期には元老による首相奏薦が将来難しくなりそうなことは目に見えていたでしょうから、どうするつもりだったのか。さらに実際の日本の歴史では、大正天皇は能力的に(もしかすると押し込められた??)、また昭和天皇は自覚的に、天皇として政治力を発揮しようとはしませんでしたが、もし独裁的な天皇が出現したとしたらどうするつもりだったのか(日本流に主君押し込めで対処するつもりだった??)なども気になってしまいます。

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