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2009年6月30日火曜日

iPhoneの着信音にできない曲

一昨日iPhoneを手に入れてしばらくしてから始めたのが、着信音づくりです。 こことか、 こことかを参考に始めました。

歌のない方がいいかなと思って最初に変換してみたのがIn Cでした。紹介されている手順どおりにしたところ、うまくiTunesの着信音のところに表示され、そして同期するとiPhoneのライブラリの着信音のところにも表示されました。で、うまくいったと思って、iPhoneの設定→サウンド→着信音とたどってみたところ、標準の着信音があるだけで入れたはずのIn Cは見あたりません。どこも間違えてないはずなのに、なぜ?って、かなり悩みました。


一時間ほど頭を冷やしてから、別の曲で再度チャレンジ。こんどはうまくいきました。めでたくカスタムの着信音をつかうことができるようになりました。数曲ためしてみた感じでは、
  • iTSから購入した曲は「保護されたファイルはほかのフォーマットに変換できないため」というアラートが出て着信音用のファイルを作れない
  • iTSから購入した曲でも、iTunes plusなら着信音用のファイルに変換することができ、iPhoneで着信音として使用できる
  • 自分のCDからリッピングした曲は着信音用のファイルに変換できる
という感じでしょうか。

でもそれなら、このIn Cもむかしむかしに買ったCDからリッピングしたわけで、iPhoneの着信音としてつかえるはずです。そこで推測ですが、.m4rという拡張子のついた着信用のファイルに変換できることとそのファイルをiPhoneで着信音として使用できるかどうかは別なのかもということです。iTSで売られていない曲からつくったファイルに.m4rをつければiPhoneで着信音として使用できる。自分で買ったCDからリッピングした曲でも、iTSで同じアルバム・曲が売られていれば、iPhoneで着信音として使えない仕掛けがあるのかなと。In Cのはいったアルバムはこんな風にiTSで売られているので。


これって考えすぎのような気もします。でも、 アップルのサイトの着信音を作成するには、iTSから購入した曲を使ってiTunes内で着信音を作成することができるのは(米国のみ)の表示があり、なにか疑念を抱かされてしまうのです。

2009年6月29日月曜日

iPhoneの音量調節ボタンの位置ってあまり便利じゃないような

これまではiPodで音楽を聴きながら通勤していました。暑くなってジャケットを着なくなってから、iPodは右側の尻ポケットにつっこんで歩いてました。今日からはiPhoneが右の尻ポケットに入っているのですが、曲名を確認したくなったりすると時々取り出す時に、指がこの音量調節ボタンに触れてしまって、音楽の音の大きさが変化してしまうことがありました。なので、取り出す時にはそうならないよう気を付けることを今日は学習しました。もしかすると音量調節ボタンをロックする仕組みがあるのかもですが、まだ見つけていません。

2009年6月28日日曜日

iPhone3GS 32GBのホワイトを買いました

iPhoneのカメラで撮ってみました。


今日の午前中に駅前のソフトバンクショップに行ったのですが、4つのカウンターのうち、私ともう一人の人がiPhoneを買いに来ていました。
昨年とは違ってたくさん在庫はあるようですね。

これからぼつぼつ、いじってみます。

モノとココロの資料学


小野正敏・五味文彦・荻原三雄編 高志書院
2005年4月発行 本体2500円

ジュンク堂新宿店で何となく手に取ったところ、第1部「モノの資料論 ー銭ー 」に省陌法と撰銭に関する論考が載せられていて、つい購入してしまいました。ただ、それ意外にも面白い論考が載せられています。例えば、第2部の「絵画資料再論」。浮世絵の東海道五拾三次を、安藤広重は現地を訪れることなく過去の資料をもとに書いたのではという話題から始まって、絵巻物の傑作の一つである一遍聖絵について論じています。絵師が絵詞を読まず(絵詞を無視して)に描いている様子や、一般的なイメージに基づいて画面を構成した点などが明らかにされています。

「出土銭貨の語るもの」には18の遺跡から出土した一括出土銭に含まれていた銭緡のうち一緡の枚数が確認できたものの数が、枚数ごとにまとめて表にされています。全部で数百例。97枚と100枚にピークがあるので、省陌法と丁百法の両方が使われていたことが分かります。しかも、出土した遺跡の分布から、本州中央部である東国から中国地方までが省陌法、その北と西が丁百法だったとのことです。で、気になるのは丁度97枚、丁度100枚でない鎈の割合が決して少なくないことです。92枚というのもありますが、こういったものが一緡としてちゃんと流通できたのかどうかとても不思議です。またこんな風に枚数が標準より多いもの少ないものが存在しているということは、銭緡をつくる方法として、銭の枚数を数えて紐を通してまとめるというやり方以外に、重さ0.1貫目になるよう測りとった銭を紐に通すか、または銭を紐に通して長さが一定になったら一緡とするようなやり方があったのではと想像します。

「撰銭再考」では、撰銭・撰銭令を食糧の需給動向の変動との関連でとらえ直そうという21世紀になってからの新説に対する批判的検証がなされています。戦国期甲斐国の年代記として著明な常在寺年代記を材料に、撰銭の発生時期が不作・飢饉と必ずしも関連していないこと、かえって豊作の年にも撰銭が行われていることが示されています。なので、その批判は説得的だと感じられました。ただ、撰銭の「本質的な要因」は十二世紀以来の中世貨幣システム自体が行き詰まり、解体に向かっていることを意味するものと言えるとしていますが、これだけでは抽象的すぎて、撰銭って何?という問いに筆者なりの解答を示していることにはならない気がします。短い論考ですので、そこまで要求するのは無理なのかもですが、見通しくらいは示して欲しかった。

常在寺年代記には、撰銭・銭飢渇・銭ニツマルなどの表現や、また代ツカイヨシといった表現があり、それぞれ銭貨の混乱、順調な流通を表しているのだそうです。そこで気になるのは、こういった表現の無い年はどうだったのかということ。そういった年は、その地域での一般的に受け容れられている基準に従って銭貨が銭種ごとに悪銭・精銭に区別され、異なったレートで安定して流通している状況だったのかなと思うのですが、これも撰銭という行為はなされている状況ですが、混乱はしていないので特に年代記には記載されなかった。それに対して、悪銭・精銭を区別する地域での基準や、悪銭・精銭の交換レートに変化があった年は、その変化を地域のみんなが受容するまで銭貨の流通が混乱するので撰銭・銭飢渇・銭ニツマルなどと記述されたと考えてよいのでしょうか。

また、撰銭について素人なりにまとめてみると、
  • 良質な銭貨が十分に供給される状況にはなかった
  • 銭貨の不足から品質の低い銭(私鋳銭など)も使用されるようになった
  • 精銭と質の劣る銭貨が異なったレートで流通することになった
  • 地域によって精銭として選好される銭種が異なる現象が生じた
  • 商品売買や年貢など域外との送金に際して、地域ごとの精銭・悪銭およびその交換レートが異なっていることが混乱を招いた
という感じでいいのかしらん。

2009年6月27日土曜日

貨幣考古学序説


櫻木晋一著 慶応義塾大学出版会
2009年6月発行 本体5800円

本書の巻頭には16ページからなる序論がおかれています。本書は教科書として書かれたものだそうですが、序論はそれにふさわしい日本の貨幣史のコンパクトで分かりやすい要約になっています。注が、巻末にまとめられることなく各ページに載せられているのも、読みやすさを重視した教科書らしくて、いい感じ。

貨幣考古学総論では、貨幣考古学の用語の説明や、江戸初期の渡来銭から寛永通宝への移行が速やかだったことを出土した六道銭のセリエーション分析により鮮やかに示す研究が紹介されています。また、銭貨の技術史の項では、打刻で作られることの多かったヨーロッパの硬貨とは違い、銭貨は主に鋳造されています。日本では、銅は輸出品であり錫は輸入品であることから、中世末・近世の日本銭は銅を多く含んでいたこと。またこの銅が多く錫の少ないという組成は、錫の多く含まれる青銅に比較して「溶融時の流動性が低いため鋳造が難しく、純銅に近いと文字が浮かび上がりにくいため無文銭になる」とのこと。日本での私鋳銭を考える上で重要な指摘ですね。

貨幣考古学各論は、古代から中世・近世、そしてベトナム・イギリスなどさまざまな話題が紹介されています。その中で、精銭が集められていることの多い一括出土銭と流通時の流通量を反映する可能性のある個別出土銭との性格の違いに関する指摘が勉強になりました。また
新安沖沈没船の銭貨が日本史研究にとってどのような重要性をもつのかについて述べる。中国政府が発行した公鋳銭とそれをコピーした私鋳銭や日本でコピーした模鋳銭の判別が、日本史の中では重要課題の一つとなっている。中世末である16世紀に向かって、模鋳銭が増加していくことは確認できているが、私鋳銭と模鋳銭の区別は難しい。この問題を解決するためのひとつの方法として、中国から搬入途中のこの銭貨を調査することは重要な意味を持つ。つまり、このなかには日本で鋳造した模鋳銭は含まれていないと考えられるので、この内容を調べることによって、中国からもたらされる私鋳銭の一部を知ることができるのである。
というのも面白い。

研究のまとめと方向性を論じた最終章では 、
  • 中世後期になると流通銭貨の地域性が生じる「東の永楽、西のビタ」と東北と九州は洪武通寳・無文銭という図式で、日本を4つの地域に大別する形で貨幣がすみわけしている
  • 緡銭の枚数が日本中世97枚、日本近世96枚、ベトナム67枚、中国77枚などと地域によって取引慣行が異なることに関して「短陌・丁陌の本質と地域による偏差の理由について考察していかねばならない」
  • 「撰銭令に見える悪銭の名称を実際の貨幣に同定する作業は、出土銭貨研究に課せられた課題である」
などの記載が目を引きます。

省陌法については 以前のエントリー でも不思議に感じていることを書きましたが、「その本質とちいきによる偏差の理由」については、まだみんなが納得できる説明がまだ無いということのようです。また、中国での私鋳銭と日本でも模鋳銭の鑑別、各地域時代における悪銭とは具体的にどんなものだったのかなどについては、自分としても不思議に思っていたので、これらが課題として挙げられているのをみて、やはり難しい問題なのだなと感じました。

あと、第3章「銭貨の技術史的研究」には京都・鎌倉・堺で出土した銭笵に関する記述がありました。その多くは中国銭を模した銭笵だったそうです。ここで疑問なのですが、元になる中国銭が精銭として認識されているものだとして、それの模鋳銭は精銭として受け容れられていたのか、それとも悪銭と認識されてしまうものだったのかです。鋳造したての銭貨はぴかぴか輝いていて、一見して模鋳銭と分かってしまいそうな気がします。また、既存の中国銭を母銭として鋳返すと元のものより小さな寸法のものができるそうですし、また錫の少ない青銅だとはっきりとは文字が浮き上がらないのだそうですから、精銭とは違うものと認定されそうな気がします。でも、手間をかけてわざわざ悪銭を私鋳するのもおかしな気もします。で、堺で出土したものの中には無文銭の銭笵があったそうです。無文銭は悪銭なのだろうと思うのですが、わざわざこれを製造したということは、精銭に似せる手間をかけても悪銭と認識されるものしかできないのならば、はじめから手間の少ない無文銭を作ろうということなのかなとも思いましたが、どうなんでしょう。

2009年6月21日日曜日

Windows版のSafari 4


うちにもPC game用にWindows(もちろん、まだXPです)の入っているパソコンが一台あります。Safari3が出てからは、そのPCのメインブラウザもSafariです。先日、AppleさんからSafari4にアップデートするようにおすすめがあったので4にしてみました。上のような感じで、メタリックな外観がなくなってしまったのは残念。でも、他のブラウザと比較してのSafariのいいところは、Appleがいうような速いブラウザという点ではなくて、見た目がきれいな点だと私は思います。それなのに、Safari4にアップデートするとフォントの表示がWindows標準になっています。これではせっかくの美しさが台無し。特に、新しくWin版Safari4から使い始めるユーザーは、表示の美しさを知らないかも知らずにダウンロードしてみた人たちかもなので、デフォルトがこうなっているのはもったいない気がします。


対策ですが、WindowsにはMacのようなメニューバーがないので、各種の設定の変更は右上の方にある、書類と歯車のアイコンから行います。フォントをきれいにするには歯車から設定を選び、「Windows 標準」を「中ーフラットパネルに最適」にすればOKです。


で、その設定でしばらくつかっていましたが、重いんですね。最速のブラウザという謳い文句とはうらはらに何となくぎくしゃく。Safari4のもうひとつのうりは、このTop Sitesですよね。タブの一つにTop Sitesを表示させておくと、よく訪れるサイトに簡単にアクセスできるので重宝してます。でもうちのPCでは、このTop Stesをバックグラウンドのタブに表示させておいて、別のタブでいろいろ見たいサイトをのぞき回るなんてことをすると重いのでした。Safari3の時には遅いなんて感じたことはなかったのに。


MacBookの方のSafari4ではそんな遅さは全く感じません。性能的からすると、PCの方にはE8600とRADEON HD4870とメモリも4GBつんであって、MacBookに負けないはずなので、とても不思議。しょうがないので、PCの方のSafari4ではTop Sitesは表示させないことにしました。これがなくても、文字の読みやすさは好きなので。

2009年6月20日土曜日

帝国日本の植民地法制


浅野豊美著 名古屋大学出版会
2008年2月発行 本体9500円

内地と各植民地の関係・法域については、むかしむかし、事典 昭和戦前期の日本というハンドブックを読むなどして学びました。ただ、あの本では主に昭和の日本帝国の最盛期の様子が解説されていました。しかし、内地と植民地の関係は、領有の当初からきちんとしたプランをめざして一直線に形作られてきたわけではなく、対外関係や各省の意向や在留邦人の要求などなどに影響されながらようやく到達したその地点が昭和十年代の状態だったのだということが、本書を読んでみてよく分かりました。注を含めると800ページもある大著ですが、面白く読めました。

本書は6つの部分からなっています。第IとII編では新領土である台湾と保護下においた韓国において、治外法権の撤廃を目標として法律・制度の整備が行われたことが、日本本国の条約改正とからめて論じられています。日本の最初期の植民地となった沖縄県では、琉球処分の際に西洋の条約国の外国人がいなかったことから問題にはならなかったのだそうですが(琉球とアメリカの間に条約が結ばれていてもアメリカ人はいなかったということなのでしょうか、意外)、台湾や朝鮮には少なからぬ外国人が在住していて、しかも朝鮮には居留地があったことから、植民地化にあたって対外関係が重要だったとのことです。特に、韓国を保護国化して外交権を奪い東京を通じて交渉するように列国に通告しても、列国が韓国に公使館を再設置したり韓国に働きかける権利は奪えない、という指摘には目から鱗の感ありでした。

また、暗殺された伊藤博文ですが、統監時代の彼の「日韓協同の自治」を追求する構想は在留邦人の既得権益を侵すものとして日本人居留民団のきびしい批判を受けていたそうです。同様のエゴイスティックな在外邦人の問題は、満州を対象とした第IV編でも扱われています。満州国が最後まで国籍法を制定できなかったことは有名ですが、日本が満州国と治外法権撤廃・満鉄付属地の返還などを含んだ条約を結ぶ際にも、在留日本人の特権が損なわれないようにする特殊な条項をみとめさせています。

仕事がら、高齢の患者さんの昔話をお聞きすることが少なくありませんが、外地で生まれ育ったり、または仕事のために外地に渡ったなど、外地での生活の経験のある人がかなりたくさんいることに気づかされます。本書によれば、1945年末での民間の在外邦人総数が334万人あまりもいたのだそうです。それだけの数ともなれば、日本の対満州政策決定に際して、世論として無視できなかったのも理解できなくはありません。

第V編では大東亜広域秩序建設として、第二次大戦中に行われた中華民国汪政権に対する治外法権の廃止や占領地の独立、朝鮮・台湾への選挙権の付与などの日本の敗勢が明らかになってから実施された「脱植民地化」が扱われています。第一次大戦後の世界の大勢に乗り遅れ、敗戦が明らかになってようやくこういった措置をとるに至った点は、日本の施政者の失政を証明しています。こういった施策をもっと早い時期、遅くとも満州事変頃までに実施していれば、日本も世界の中で名誉ある地位を占めることができたでしょうに。そう考えてみれば、東京裁判でA級戦犯とされた人たちは、機敏にこういった政策を実施できなかったが故に、数十万の英霊の血で贖った台湾・朝鮮・樺太・関東州・南洋諸島・満州を失うに至るという重大な失政の張本人たちであり、例え連合国によって断罪されなかったとしても私たち日本人自身が責任を追及すべき存在なのだと思うのです。

日本の敗戦後、多くの在外邦人が財産を失ったり引き揚げでつらい経験をしたことには、ご同情申し上げます。しかし、なんとしても現地に住み続けようとした在留邦人がほとんどいなかったのは、戦勝国の占領軍から帰国を迫られたという事情があったからだけではなく、敗戦前の在留邦人の生活が日本人としての特権に支えられ、現地の人たちに対する蔑視が伴っていたのだろうことを強く示唆します。朝鮮に対する一視同仁・内鮮一体、満州国建国にあたっての五族協和・王道楽土といったスローガンを、在留邦人や一般の日本人がどうとらえていたのか、当時の生の声をもっと知りたいところです。もちろん、識者の中にはこういった日本と植民地・満州国との関係を「偽善」ととらえていた人もいたのだそうではありますが。

本筋とは関係ありませんが、昭島市に同朋援護会という法人の経営している病院・福祉施設があります。以前から変わった名前だなと思っていたのですが、同朋援護会という名称は外地からの引き揚げ者の支援を行っていた団体の名称なのだと本書を読んではじめて知りました。

また、昨年読んだ枢密院議長の日記の題材となった日記をつけていた倉富勇三郎が、本書にも韓国政府法部次官・統監府参与官として登場します。枢密院議長の日記ではこの頃のことが具体的には触れられていませんが、日記にはこの時代の記述もあったのでしょうか。

2009年6月12日金曜日

私にとっての20世紀


加藤周一著 岩波現代文庫S180
2009年2月発行 本体1000円

昨年12月の死去を期に出版された本かなと思います。発売当時買ったけど何となく積ん読になっていたのを、読んでみました。日中戦争の頃から昨今の日本のこと、戦争に対する彼の主張、社会主義のこと、日本文学史関連のお話などが載せられています。基本的に彼の主張にはうなづいてしまう私なので、300ページあまりの本書のうちの250ページほどをしめる第一部は、予定調和的な読書になってしまいました。

「加藤周一、最後のメッセージ」と題した第二部には、2006年12月に東大駒場キャンパスで行われた「老人と学生の未来」という講演が載せられています。
こういう講演会に来てくださる方はたいてい老人なんですよ。老人はみんなよぼよぼしているとは限らないので、比較的元気のいい老人が集まるわけなんです。しかし、若い人は少ないんです。

若い人たちは、個人的な試験の話とかうまいもの食べたいとかで、それ以上先まで見えないのかというとそんなことはないと思います。というのは、六〇年代の後半、1968年に象徴的ですが、その世代の学生さんたちは、大きな社会問題に非常に激しく反応し、それを行動で表した。

と語っています。そして、職についている世代が集団の圧力で思っていることも黙って過ごさざるを得ないのに対して、老人と学生は自由が最大に高まる年代だから、共闘して九条改憲の計画を挫折させようと説いています。

この講演で主題である九条を守ることとは別に、上記の世代の話には興味を引かれます。というのも、1960年代に社会問題に激しく反応した学生たちと、最近の彼の講演会に集まってくる比較的元気のいい老人たちというのは、きっと同じコホート、つまり団塊の世代なのだろうと思うのです。彼は、世代間の違いが共通経験の違い、特に戦争経験の有無で分かれるように話していますが、このコホートは直接の戦争経験を持たない人たちです。では、このコホートの特殊性がどこから生じているのか、彼の見解を生きているうちに尋ねてみたかった気がします。

2009年6月11日木曜日

企業家的ネットワークの形成と展開


鈴木恒夫・小早川洋一・和田一夫著 名古屋大学出版会
2009年3月発行 本体6600円

企業家と企業のネットワークを論じた本ですが、目のつけどころがシャープというか、そのユニークな手法にとても感心させられました。

明治期に設立された企業には、財閥企業、財閥よりもずっと小さいが家業を会社化した企業のほかに、複数の有力者が協力して出資し設立された企業のあったことが知られています。そして、協力して出資設立された企業の出資者に関しては、その出資者たちが複数の企業の設立に関与し、グループ(本書ではネットワークと呼ばれる)として活動していたことも、当時から認識されていました。

ネットワークの存在の検出や活動の実態を探る方法として、一般的には会社に残された記録、新聞、社史、伝記などに加えて本書でも使われた日本全国諸会社役員録を材料とするのだと思います。本書も明治31年と40年の日本全国諸会社役員録を使用しているのですが、ふつうのやり方と違って、掲載されているすべての会社名・役員名などの情報を入力し、そのデータベースをコンピュータで処理してネットワークを見いだすという方法をとっています。ある二人ともが同じ二つの会社の役員となっている組み合わせを最もelemantalなネットワークとしてとらえ、本書では要素ネットワークと呼んでいます。そして、その要素ネットワークの構成員を起点にさらにネットワークを形成している人・会社をたどって、実際のネットワークを検出しています。

単純なやり方だし、これならこれまでにだれかがやっていそうにも思えるのですが、著者たちが1992年に初めてこの手法をつかった研究を発表した時にはかなりの反響があったと書かれていました。コロンブスの卵的な面もあるのと、またパソコンが自由に使える時代でないとこの方法を広範に適用するのは困難だったからでもあるのでしょう。ただ、本書のあとがきを読むと、当初は著者たちも愛知県だけを対象に手作業で研究を始め、後に対象を全国に拡げてからパソコンでのデータ処理を取り入れたのだそうです。ちょっと意外です。

企業家のネットワークは、もともと起業家のネットワークとして始まったものと考えられるそうです。株式会社の設立の際、旧商法で4人以上、新商法では7人以上の発起人が必要でした。起業する際に集まったメンバーが、再度別の企業にあたってもまた結集することになってネットワークが形成されたと著者は説明しています。

また著者は「新しいアイデアが普及する際に必要なweak-tiesと、それを実際の場で定着させるのに必要なstrong-tiesの意義」を指摘しています。地域ごとにその地域の有力者の形成するネットワーク(strong-ties)があり、その中で中央の有力者との接点(weak-ties)のある人物が新しいアイデアを伝えることによって起業につながったというわけです。共同出資による会社設立のオルガナイザーとしては渋沢栄一が最も有名です。「近代的な事業モデルを作り上げ、それを普及させた」有力者の代表は渋沢栄一ですが、本書でも渋沢の属するネットワークは全国に広がりを持っていたことが明らかにされています。

ネットワークは地方の中核都市を中心としたものが多く、銀行やその他のインフラ産業を含めて業種は多岐にわたる傾向がありますが、地域的には他府県にまで広がるものは少ないそうです。また、ネットワークに参加している企業としていない企業のパフォーマンスの比較、明治31年から40年まで存続したネットワークとその間に消滅したネットワークおよびその参加企業のパフォーマンスの比較、ネットワークに所属する人による役員ポスト占有率(企業の支配のメルクマール)の高低と企業のパフォーマンスの関連などが検討され、どれも前者の方が良好という常識的な結果が示されています。常識的な結果ではあるのですが、実証されている点がすばらしいと感じました。

ただ、銀行やインフラ産業は明治の日本にとって新しい企業であり、しかも多額の資本を必要とするので、多くの資本家が出資して起業されたことは当然のことでしょう。銀行は融資の面で企業の存続に影響を持つと思われるので、ネットワークに参加している企業とそうでない企業のパフォーマンスや生存率とが、ネットワークへの参加の有無によるのか、銀行から融資を受けやすい関係があったかどうかによるのか、検討は必要に感じました。

また、ネットワークに所属する人による役員ポスト占有率が高い企業のパフォーマンスが比較的良好なのですが、この頃の役員は非常勤が多くはなかったのでしょうか。多くの非常勤の役員がいても、ネットワークの力量で立派な専門経営者を招聘できたからこそ良い成績を残せた、ということだったのではないのかという点や、ネットワーク関係でない役員はどんな人がなっていたのかも気になります。本書ではネットワーク研究の総論に続いて、愛知県のネットワークの事例が三つ紹介されていますが、前記のような点も踏まえて、他県のネットワークについての個別研究も読んでみたいものです。

2009年6月7日日曜日

日英中世史料論


鶴島博和・春田直紀編著 
日本経済評論社
2008年7月発行 本体6000円

2001年4月(だいぶ昔です)に熊本大学で開かれた同名のシンポジウムを記録した本です。日本側と英国側から5名ずつが発表し、本書には加えて解説のための序論・まとめが収められています。私の場合、イギリスの中世史については全く知識が無く、読んでいてそういう史料があるのかという学びや「はあ、そうなんですか」という感想ばかりでした。また、両国の5つの論考は同じような史料を対象としたものどうしを対にしてあるのですが、その対比から何かを理解できたかというと難しい。ただ、日本の側の論考はどれもが、比較史料論という意味でなくて、ふつうに史料を対象とした論考として面白さを感じさせてくれるものでした。

例えば第9章「文書・帳簿群の分置システムの成立と展開」。高野山金剛峯寺を例に、文書の収集を自覚的に始め、文書の数が増えてくると重要性や日常業務での必要性などから分類して保管場所を分けていったこと、またその経緯に金剛峯寺内での勢力争いが絡んでいたこと、室町時代になると膝下荘園の訴訟関連書類の内の重要なものを荘家の百姓たち自身に管理させるようになったことなどが述べられています。荘園領主の文書管理の歴史自体だけでなく、荘家の百姓が自ら管理するようになる契機が興味深く感じられました。

また、第5章「生死の新規範」では日本人を主人公とした最初の往生伝である日本往生極楽記がとりげられています。この書物は日本で浄土教が普及していたから書かれたという訳ではなく、本書を入宋する僧侶に託して日本にも浄土教が存在していることを中国の仏教界などにアピールする目的で書かれたという鋭い指摘に感心してしまいました。

イギリスの史料についての論考も含まれているので、本書は横書みになっています。先日読んだ中近世アーカイブズの多国間比較も横組みでした。 インターネット上でも横組みで紹介されるものを目にする機会が多くなってきているためか、日本の近世以前の史料が横組みで本に掲載されていてもそれほど違和感は感じません。ただ、漢文の返り点とかのある文章だと横組みは無理そうですが。