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2009年5月31日日曜日

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録の出版文化史


熊田淳美著 勉誠出版
2009年3月発行 本体3200円

先日、朝日新聞の書評欄で取りあげられていて購入しましたが、短時間で読めて面白い本でした。非常に地味な装丁の本だし、ふだんはあまり見ないような棚に置かれている本なので、書評で取りあげられてなければ、手にすることはなかったかも。

私は研究者ではないので実務に利用したことはありませんが、古事類苑・国書総目録のリファレンスとしての重要性や、この三つの編纂物が野心的なプロジェクトの成果であることは分かります。なんと言っても、コンピュータで情報処理ができる現代とは違って人手が頼りの時代に作られた訳ですから。しかし、その国家的と言ってもいいくらいの大プロジェクトは国がすすめたものではなかったのだそうです。

群書類従は塙保己一を中心とした人たちのプロジェクトで、幕府は倉庫や事務所用の土地を無料で貸してくれたり拝借金という形で支援してくれました。古事類苑は当初は文部省のプロジェクトとして始まりましたが、推進していた官僚の交替や資金面から最終的には神宮司庁が実施しました。大槻文彦の辞書である言海も文部省のプロジェクトとして編集され、原稿が完成していたのに古事類苑と同様の理由で政府が出版せず、最終的には編纂者の大槻に原稿と著作権が委譲されて出版に至ったのだそうです。

本書の半分以上は、岩波書店という民間企業が企画刊行した国書総目録のエピソードにあてられています。津田左右吉の著作の発禁問題で店主が起訴されていた紀元2600年に、岩波書店は国書解題という本の出版計画を明らかにしました。編集が進みましたが、第一巻の校了目前に戦災で頓挫してしまいました。戦後しばらく計画は止まっていましたが、1960年代に解題ではなく、所蔵者情報を含めた目録という形で出版されることになりました。解題としての発行を追求していたら、戦後の学問の進歩を考えるともっとずっと発行が遅れたでしょうから、良い判断だったと思われます。また現在では国文学研究資料館が日本古典籍総合目録という形で検索できるようにしてくれていますが、これも岩波書店が国書総目録の著作権を譲るなどの協力をしてできたものものなのだそうです。

四百字詰め原稿用紙の20字x20行が群書類従の原稿に由来することだとか、国学・国書といった言葉は明治以降に一般化したものだということ(江戸時代は和学や和書・本朝書籍など)だとか、「日本には、他に例を見ないほど写本の数が多いことがしばしば指摘される。中国文学の吉川幸次郎は、日本に現存する文献の多さが中国のそれをはるかに凌駕すること」などなど、本筋とは関係しないことも勉強になりました。

2009年5月29日金曜日

稚魚


田中克・田川正朋・中山耕至著 京都大学出版会
2009年3月発行 本体3800円

生残と変態の生理生態学というサブタイトルのついている本書、本屋さんで手にとって面白そうだったので買いました。サカナについてはほとんど知識のない私なので、サブタイトルとはあまり関連しなさそうな面でも勉強になったことが多かったし、読みながら新たな疑問がわいてくる点もあったし、予想以上に面白い本でした。例えば、
  • 魚は卵から生まれたばかりの「卵黄仔魚」、外部栄養に依存し始めた「仔魚」、消化管・骨・鰭など魚としての基本構造ができあがった「稚魚」の段階を経て成魚へと成長していくこと。仔魚と成魚が似ているサカナもいますが、各段階ごとの移行を変態と呼ぶことができるほど大きな変化を伴う魚種がふつうなのだそうです。サカナは孵化直後から成魚になるまでにサイズが100倍以上になることが当たり前ですが、大きさごとに環境への最適な適応の仕方が異なるから、「変態」するのだろうということです。
  • 「発生初期の鰓の形成は、酸素の吸収よりも、塩類の調節を目的としている可能性があるとする総説も発表されている」という説明にも、ほーという感じです。サカナの体液の浸透圧は海水の三分の一くらいだそうで、鰓の表面に存在する塩類細胞が調節しています。仔魚のうちは酸素は体表からも吸収できるので、塩類調節の方が重要らしいのです
  • 魚類の未受精卵には甲状腺ホルモンや各種のステロイドホルモンが含まれていることがサケ科魚類をはじめとして多くの魚類で明らかにされているということも初めて知りました。発生や孵化後の成長に必要なホルモンを親が用意してくれているというわけですが、魚卵をたくさん食べてもヒトに影響が出るほどの量・濃度ではないのでしょうよね
  • 「初期の発育や成長には高度不飽和脂肪酸であるDHAやEPAが不可欠である」という記載にもびっくり。DHAやEPAは仔魚の脳の成長にも影響するそうで 自然の状態では餌生物から摂取しています。養殖の場合には餌にDHAやEPAを添加する必要があるのだとか。頭を良くする・脳を活性化するなどというセールストークで売られているサプリメントですが、サカナについてはエビデンスがあるわけですね。
  • 「魚は脊椎動物であるにもかかわらず、仔魚期には脊椎はなく、体軸に沿って頭部から尾部に延びる脊髄を支えるのは脊索である」とのことです。これにもなんとなくびっくり。脊椎動物は脊髄動物と呼ぶ方が正しいのかもと思ってしまいました。
  • また、一般的に川よりも海の方が生物生産性が高いのだと思っていたのですが、「亜熱帯や熱帯域では、海より川の生物生産性が高い」のだそうです。このため、亜寒帯・温帯のサケのようなサカナは海で成長するけれども、熱帯では海で生まれて川に移動して成長し、海に戻って産卵する種類のサカナが多いのだそうです。
  • サケの漁獲量が1970年代後半から増加しているのは、稚魚の放流が増えたからではなく、ベーリング海の環境収容力が増加したからなのだとか。アリューシャン低気圧で海水が擾乱されると海底の豊富な栄養塩が有光層に上昇してサケの餌を増やしてくれるのですが、1970年代以降アリューシャン低気圧の強さを示すアリューシャン低気圧指数が高値を続けていることが示されていました。
  • 北太平洋におけるサケの漁獲尾数がの1925年以降の経年変化のグラフが野生魚と孵化場魚に分けて載せられています。漁獲された成魚が野生の卵出身か孵化場出身かどうやったら分かるのか不思議。
  • 仔魚時代にはばらばらに生きていて、変態後に稚魚になってからは群れを形成して泳ぐようになる種類のサカナがいます。どうやって集まってくるのか、どうやってお互いを同じ種類と認識してできるのかが不思議。

2009年5月28日木曜日

東村山市の道路事情

東村山市で仕事を始めてから約2ヶ月になります。訪問診療に出かける機会が多いので、クルマの中から東村山の街の様子を眺めています。そんな風にして得た東村山に対する感想ですが、一番は道路事情の悪さです。


これまで訪問診療を担当してきた主な地域は、立川市の南部や国立市、府中市でした。国立市の学園地区が計画的な街並であることは有名ですが、駅前から南に一直線にのびる大学通りを中心に碁盤の目状に道路が配置されています。それに比較すると立川市や府中市の道路はこんな感じで、多少碁盤の目からははずれますが、大きな道路同士の連絡も悪くなく、細い道もそれほど難解な配置という印象は受けません。


それに対して東村山市の道路はうねうね。一本道を間違えると、逆戻りしない限り修正が難しいところがたくさんあります。昔々の畑の中の道が少し拡幅され、アスファルト舗装されただけでそのまま現代の道路になってしまったように見えます。しかもこの東村山市には、西武新宿線・国分寺線・拝島線・多摩湖線・西武園線と線路が複雑怪奇に走っていて、新青梅街道・府中街道といった主要道路どうしのつながりも便利ではありません。なので、移動に時間がかかって仕方がないという感じです。

あと、東村山にはローソンを見かけません。ファミリーマートやセブンイレブンはふつうに見かけるし、サークルKも多いのですが。同じ多摩地区の市でも、立川や府中とは違うようです。

2009年5月25日月曜日

中近世アーカイブズの多国間比較


国文学研究資料館編 岩田書院
2009年3月発行 本体9500円

歴史学は史料がないと始まらない学問です。史料にも民俗学や考古学的なものもありますが、やはり文字で記された史料が重要でしょう。なので、ある時代・ある地域に関する歴史学の探究の深さは、その時代・その地域に関して文字で記された史料がどれだけの量残されているかによってかなり規定されるのではないかと思います。そう考えてみると、世界の各地で実際にどのくらいの量の文字史料が残されているのか、残存している文字史料の種類やその量や残り方を知りたくなります。本書を買ったのは、タイトルを見てそんな疑問に答えてくれるのではと思ったからです。

本書は五つのパートに分かれていて、最初の三つは、統治組織・村落・商人と都市といった出所別に文書管理や作成された文書を比較検討しています。痕の二つは、訴訟文書と相続文書という文書類型論と、媒体とリテラシーと銘打たれています。本書におさめられている論考は4回にわたって開催されたシンポジウムの記録のようで、各論考はかなり短めでした。タイトルは多国間比較となっていますが、取り上げられているのは日本・朝鮮・中国・オスマントルコ・フランス・イギリス・イタリアの事情です。また、各論考が直接多国間比較を試みている訳ではありません。

私の関心的にこたえてくれる論考もいくつか含まれていました。

  • 近世の日本の村に残されている文書は世界の他の地域に比較してとても多い。近世の日本の村には支配者である武士が居住せず、年貢の村請のみならず自治が行われていて、都市に住む支配者との情報伝達が文書で行われた事情があったからだ
  • オスマントルコには中央政府に史料が残されているが、村落などの中間団体にはほとんど文書がない
  • 朝鮮には商業関係の文書がほとんど残っていない。三井などのような近世から続く老舗が全くないことや、商業で成功して富を集積し両班階層にもぐりこめた家は商業に従事していたことを隠そうとするので史料が残らなかった。
  • イタリア半島内でも都市によって商業文書の残り方が違う。それぞれの家の由緒を記した貴顕録があった都市よりも、なかった都市の商人の方が由緒を自分で証するために記録類をしっかり残していた。
などなど。

先日町触について読みましたが、奉行所の側も町触の記録を残していたこと、奉行所は家持ちだけでなく借地借家人にまで知らせるように求めていたのに町触の出版印刷を一般的には許さなかったことなどが記されていて、勉強になりました。ほかにも興味深い事実が記載されている論考があるのですが、中近世アーカイブズの多国間比較というテーマからは多少はずれる感じがしなくもありませんでした。

あと、本書の翻訳には問題のあるものも少なくないように感じます。特に第1部の中の「フランスにおける国家アーカイブ」という論考は、機械翻訳されたみたいな日本語で、お粗末でした。でも、全体的には読んで面白い本だと思います。

2009年5月24日日曜日

歩道の拡幅工事


先月からうちの前の道路で工事をしています。通行を妨げないように昼間ではなく主に夜間の工事です。目的はこんな風に歩道を拡げることだとか。まあ、狭いよりは多少なりとも広い方がいいとは思いますが、歩行者のためというよりも歩道を走る自転車に優しい工事なのかな。

拡がった歩道にあわせるために、昨日は昼間に電柱の植え替え工事をしていました。せっかく工事するなら電線の類も地下に埋めちゃってくれればいいのに。この道路では去年の夏もガスの工事をしていたし、まとめてできないものかとも思ってしまいます。でも、工事の終わった部分はアスファルトも新しく平らでとても立派な出来で、日本の社会舗装のレベルの高さがよく分かります。


むかしむかしストックホルムに行った時、旧市街のガムラスタンを王宮前まで歩いたことがあります。その日は、日本だったらみんなが傘をさしているだろうなと思うくらいの小雨が降っていて、それなのに傘をさしてる人が少ないのが印象的でした。もう一つ感心したのが、王宮前の広場・道路なのにアスファルトにひび割れが結構あって、水たまりもところどころにできていたことです。霞ヶ関とか皇居のまわりの道路なんかはもちろん、我が家の前の道路もこんなに立派にしてくれる日本とは違って、社会舗装ではなく社会保障の方に力を入れてる証拠かなと思ったしだいです。

2009年5月23日土曜日

江戸の入札事情


戸沢行夫著 塙書房
2009年3月発行 本体6500円

著者は塙書房から出版された江戸町触集成全20巻の編集に参加した経験があり、本書はそれをもとに書かれています。町触というと、単に町奉行が江戸の町民を支配するために出した法令なのだと思っていました。しかし本書によると「町触は町方行政に携わる町名主にとって、上からの半強制的な法令の遵守に止まらず、町方側にも内発的に社会経済的な変化に応じた町方運営の指針になった」とあるとおり、町名主としての職務を果たすにためにも、また先例を知るためにも、必要なものでした。そのため、江戸の町触をまとめた本は江戸町触集成以前にも出版されましたが、そのもととなった史料の出所は町奉行所の側ではなく、町名主たちが記録していた覚えなのだそうです。

町触の中には、法令だけではなく入札の情報も含まれていました。入札情報については、一部の史料以外にはあまり残されていなかったのですが、江戸町触集成には多数を収めることができたそうです。水に濡れたりの事故米、古木、失踪や犯罪の処罰にともなう闕所地・屋敷・日用品の払い下げの入札や、幕府の役所で使う材木・石材・金物・事務用品や江戸城で消費する食品の買い入れのための入札、役所の建物や江戸市中の橋の建築請負の入札などが町触にのせられていました。 ただ、本書の書名が「江戸の入札事情」であるにも関わらず、史料の限界から実際にどんな風に入札が行われたのかという意味での「事情」についてはあまり記述がありません。

その代わり、江戸市中の橋の請負については詳しく触れられています。橋には町民・武士などその地域に住む人たちが組合を作って架けた組合橋(割合橋)、個人で架けた自分橋(一手持橋)もありましたが、大川に架かる両国橋や江戸城内外の橋などは幕府の経費で架けられる御入用橋(御公儀橋)でした。木造の橋の耐用年数は20年くらいだそうで、洪水による破損などが頻発して幕府は橋の維持・掛け替えの経費に苦しんでいたそうです。なので幕府としても、毎年一定額で橋の補修を請け負う橋定請負人や橋会所の制度をつくったり、享保の改革では住民税的な性格を持つ公役金を徴収するようにしたりなどなど、いろいろ試行錯誤しました。

架橋の費用が多額だったために幕府が苦慮していた事情を読んでいて、東海道の大井川などに橋が架けられていなかったことを思い出しました。幕府は江戸の防衛のために主要河川の架橋を禁止していたと言われています。江戸時代も初期にはそういう事情があったかも知れませんが、元禄以降にも架橋しなかった本当の理由は経済的なものだったということはないのでしょうか。新幹線で大井川を通過する時、広大な川原に石がごろごろしているのを目にします。利根川東遷工事がなされ、しかも水源から遠い関東平野の江戸湾に注ぐ隅田川でさえしょっちゅう橋を破壊していた時代です。南アルプスからの距離が短く川幅の広い大井川なんかに橋を架けると毎年のように壊れて修繕・架け替えが必要になりそうですから。

2009年5月22日金曜日

イチョウの葉の裏と表

今日の午前中は訪問診療でした。昔は自分が運転し、看護師さんと二人で出かけることが多かったのですが、ここ数年は駐車禁止の取り締まりがきびしくなったので、運転する人を用意して三人で行くことにしています。運転しないので、患者さんのお宅からお宅への移動中は看護師とカンファレンスしたり、カルテをチェックしたりの他に、世の中の様子を眺めたりしています。

今日は風の強い日で、街路樹の枝がしなって葉っぱの裏側が見えるほどです。葉っぱの裏って表より色が薄いなあと眺めながら移動してゆくと、イチョウが街路樹として植わっている道路にさしかかりました。イチョウも風に煽られて葉っぱがあっちを向いたりこっちを向いたりしていましたが、色には変化がありません。イチョウの葉っぱには表も裏もないことを再確認したしだいです。

草にしても木にしても、ほとんどの植物の葉っぱには裏と表があるような木がします。ざっと考えて裏・表がなさそうなのはスギやマツなどのコニファーぐらいです。被子植物と違って、裸子植物には葉の裏表がないものなのでしょうか。コケやシダにも表裏がはっきりしているものがあるので、進化と葉の二面性は別物かも知れませんが。

2009年5月20日水曜日

ホーチミン・ルート従軍記 感想の続き

1954年のジュネーブ協定で独立の承認されたベトナムは、その後に予定されていた南北統一選挙の後に一つの国になる予定だったとか。南側が選挙の実施を拒否し、それに対して南ベトナムの国内で反政府運動が広がりました。南ベトナム国内の動きに北側は、直接の関与はしない建前でした。なので、著者たちも南に向かう際に偽名などを用意していったそうです。北側が南への関与をおおっぴらにはしたくなかったのは、朝鮮戦争の教訓から米軍の直接的な介入を避けたかったからなのだと本書の訳者あとがきには書かれていました。この指摘は、私のこれまで気づけなかった盲点を鋭くついてくれた感じです。

ます、アメリカ軍のベトナム介入は現在は一般的に大失敗と評価されていると思います。ただ北側の懸念を逆に考えてみると、当時のアメリカ軍やアメリカ政府首脳部は失敗すると思って介入したわけではなく、朝鮮戦争のように直接介入すれば情勢を好転させることができると考えていたということなのでしょうね。

東側の支持した政権の運命を考えてみると、朝鮮戦争では中国の直接介入によりからくも存続できたのに対して、ベトナム戦争後にはベトナムを統一することができたというように、非常に違った経過をたどりました。アジアの三つの分断国家の中で、西側の支持する国が生き残っているのは、日本が統治していた地域にある国だけなのですから、日本統治の影響もかなり大きいような気がします。

もともと日本の朝鮮支配が過酷だっただけに、朝鮮半島にはホーチミン的な人が存在しなかった感じがします。ホーチミンに準じるような人たちは首都のソウルで光復後の政治活動を始めたのでしょうが、そこはアメリカ軍の統治下にありました。ソビエト軍は自軍の占領地区内に活動歴のある有能な政治家を持たず、また自主自立の政治家を望んでもいなかったので、金日成を擁立しなければならなかった。これに対して、日本の降伏後のベトナムの方が独立を望む政治家たちが運動しやすい環境だったことは間違いないでしょう。

本書にはトランジスタラジオを毎日使っていた旨の記載があり、一般的にも普及していたようです。ナショナル製のラジオもつかわれていたそうです。トランジスタラジオは電源は何だったんでしょう。コンセントから電気が安定してとれる環境ではないし、歩きながらラジオを聴いたような記述もあるので電池でしょうか。でも、本書には電池に関する記述ってほとんど無いのと、電池が簡単に入手できたのかどうかが気になりました。

2009年5月18日月曜日

ホーチミン・ルート従軍記


レ・カオ・ダイ著 岩波書店
2009年5月発行 本体2800円

私が子供の頃、ベトナム戦争がありました。そして、ベトナム戦争には難しいという印象が持っていました。同じように子供の頃にあった戦争でも、例えばやせこけた子供の写真がひどく強烈だったビアフラ内戦では、内戦とは言いながら二つの勢力が戦っていることはよく理解できたのです。ところがベトナム戦争の場合、アメリカと北ベトナムと南ベトナムとベトコンと、シアヌークのカンボジアとロン・ノルのカンボジアとクメール・ルージュと、ラオスとがあって、しかもアメリカは北爆はするのに北ベトナムを占領しようとはしなかったことや、北ベトナムとベトコンの関係とかが不思議だったのです。

大人になってから、NAM(同朋舎出版、1990年)やドキュメントヴェトナム戦争全史(岩波現代文庫、2005年)を読んだり、フルメタル・ジャケット(キューブリック監督、1987年)を観たりして、子供の頃に不思議だったことのほとんどは理解できるようになりましたが、ベトナムの人がどんな想いで戦っていたのか知りたいと感じて、本書を読むことにしたのです。

著者は北ベトナムの陸軍病院の胸部外科の医師で、卒後19年目の1965年から南に派遣され、1973年まで中部高原の野戦病院の副院長・院長として過ごしました。胸部外科医として胸部の外傷の手術や血管外科の手術をするだけでなく、虫垂炎や小腸の手術など一般外科医の仕事もします。 また、患者数1000名を越えるような病院のトップで偉い人なわけですが、手術室・病室としてつかう掩蔽壕を掘ったり、陸稲やキャッサバや野菜を栽培したり、会議に出たり、嫌がらずになんでもする人です。特に爆撃や攻撃される危険を感じるとその度に病院を移転させるわけで、壕の穴掘りだけでも大変な労働でした。汚れ仕事をいとわない、こういうモラルの高いリーダーがいたからこそ、抗米戦争に勝利できたわけですね。頭が下がります。

当然のことながら、薬品や医療器具も十分ではない中で仕事をしています。いろいろ工夫をした様子が書かれていますが、驚いたのは輸血についてでしょうか。この野戦病院のスタッフはハノイを出発する前に各々の血液型を調べてあります。戦場で負傷者の血液型を調べるには、試薬としてスタッフの血液をつかったそうです。また、輸血が必要な際、患者の血液型と一致する供血者が見付からない時には、著者自身がO型なのでユニバーサルドナーとして、献血したそうです。執刀医が患者に自分の血液まで与えるとはびっくりです。実は中部高原には悪性のマラリアがあって、著者自身も中部高原に来て間もなくマラリアになってしまっていました。ほとんどの人がマラリアにかかっているから問題ないと合理的に考えているのでしょうが、自分がマラリア罹患者であることを知りながら患者に自分の血液を与える医師というのもすごい。

塩・米と言った食料の補給が乏しく、なるべく畑をつくって自給を求められていました。タンパク質の補給としてはイノシシや鹿だけではなく、象やテナガザルを捕らえて食べたのだそうです。食糧の不足とマラリアと、あと本書では一部に触れられているだけですが枯れ葉剤とが、彼らの健康の大きな障害になったそうです。戦場ですから戦闘が原因の死者が多いのかと思っていましたが、
爆弾、銃弾による負傷兵はこの病院の患者の10パーセントにすぎない。戦傷がもとで死ぬ数はこの病院の死者の一五分の一だ。ちなみに昨年の病院スタッフの死者は11人、そのうち九人が病死、一人が敵特殊部隊レーンジャーによる殺害、一人が事故死だ
と著者は書いています。まあ、病院スタッフは後方にいるからということもあるのでしょうが。

北ベトナムの戦争従事者が高いモラルをもった人が多かった一方、問題点もあったことが指摘されています。例えば、南に出征する前には同じランクだった同僚と比較して、南で苦労して数年を過ごしている著者の給与や階級よりもハノイで仕事を続けている人の方が上になってしまったそうです。また、戦闘で負傷し治療しても戦場に復帰できない人が北に帰還するのにたくさんの書類を用意しないと許可されないなど、この頃から官僚制の弊害があったそうです。

本書を読んでいて残念に感じるのは、おかしな訳語が多い点です。医師の書いた本なので医学用語が少なくないのですが、例えば「主頸動脈」、これは総頚動脈のことでしょうね。また「鎖骨の下で分岐する脊柱動脈」というのは脊柱動脈なんて聞いたことない言葉なので、椎骨動脈のことでしょう。こういう風に推測できるのはまだましですが、「固まった斑状出血」なんて書かれているといったい何のことなのか見当がつきません。出版の前に医師に読んでもらえばこういう問題は解消されていたでしょうに、岩波書店の編集者にはそういう知恵がないものとみえます。

まあ、そういう問題もないわけではないのですが、よい本だと思います。

2009年5月17日日曜日

神戸でのインフルエンザ国内感染例の報道の感想

日本国内でもブタ由来新型インフルエンザウイルス(S-OIV)感染症の感染が拡がり始めたようです。もう、空港での水際対策は意味が無くなった感じですが、いつまで続けられるのでしょうか。また、CDCやWHOやNEJMのサイトを見ると、毎冬シーズンに流行するインフルエンザと比較して、今回のS-OIV感染症は死亡率や入院に至るほど重症化する比率が高くないような感じがします。この印象は正しいのでしょうか。もし正しいとするなら、日本で現在とられている・とられつつある対策の必要性について検討すべきように思います。もう封じ込め対策の段階ではないでしょう。まあ学校の休校は、毎冬のインフルエンザ流行期にもとられる対策ですし必要なのでしょうが。

もともと新型インフルエンザ対策は、強毒性のインフルエンザの爆発的な流行によって病院機能・社会機能が麻痺してしまうことを防ぐために策定されたものだと思います。S-OIVの毒性がそれほどでもないのだとしたら、新型インフルエンザ対策それ自体によって社会機能が受けるダメージの方が大きくなりそうで心配です。

また、マスクやうがいや手洗いの意味についてもよく周知すべきかと思います。マスクやうがいや手洗いの効果の程度に関するエビデンスについては別にしても、マスクやうがいや手洗いといった手段で一生涯にわたって新型のインフルエンザウイルスの感染を免れるとは思えません。つまり、マスクやうがいや手洗いといった手段は直接的に個人を防衛するためのものではなく、パンデミックによって病院機能・社会機能が損なわれることを防ぐことにより間接的に個人を守るものなのだという点をきちんと周知すべきです。

インフルエンザの検査キットもタミフルも一般の診療所では入手できなくなっています。週末の新型インフルエンザ感染の報道狂想曲を見ながら、明日の月曜日からの外来に発熱患者さんがきたらどうすべきか悩むところです。

2009年5月16日土曜日

最初の近代経済 感想の続き、日本に関連して

本書の中で直接日本について言及のあるのは東インド会社(VOC)に関する章です。同社はアジア産品購入の対価として輸出する貴金属の量を減らすためにアジア内交易で稼ぐことを企図し、その際にとても重要だったのが日本の存在だったそうです。本書によると
アジア内貿易において、日本は戦略上大きな役割を担った。VOCは、同国において物品と貴金属のやりとりをペルシアを大きく上回る規模で行っていた。東インド会社は日本においてアジア内貿易の利益を現金化した
とのことです。戦国末から江戸時代初期にかけての日本の貴金属輸出は大量だったわけですが、それはVOCの営業にも資していたわけですね。正徳新令などによる日本からの貴金属輸出量の激減がVOCに大きな影響を与えたことを本書は指摘しています。

ヨーロッパの中央貨物集散地であったアムステルダムは、大阪と比較してみたくなります。1859年の5港開港までの日本は日常生活物資の貿易を行っておらず、ウォーラーステイン流に言えばひとつの「世界経済」でした。そう考えると、ヨーロッパ並みに中央貨物集散地が一つ存在したことは当然でしょう。中央貨物集散地には倉庫のみならず為替・金融業者・先物を含めた商品取引所などが整備され、やがては資本が集積します。しかし当時はまだ投資すべき近代工業が存在しないので、内外の公債への投資や大名貸しや投機が行われる。そして、地方の経済レベルが向上してくると、アムステルダムや大阪を迂回した取引が増えて、実物経済的には地盤沈下する。こういった過程は両地とも同じなのではないでしょうか。

そして、18世紀オランダの「近代的衰退」について読んでいると、現在の日本とそっくりなような。
  • 人口が停滞している
  • 多額の対外投資を行っていて、資本収支が黒字になっている
  • 失業者が多数存在しているにも関わらず、分断的な労働市場のために日本の労働者の賃金は相対的に高い
  • 失業者が多いにも関わらず、介護業界のように慢性的な人手不足の業種がある
  • 対外貿易黒字による円高や、相対的な労働コストの高さから工業・製造業が苦境に陥っている
こうみてみると、著者がオランダを最初の近代経済と呼ぶのも、あながち牽強付会とばかりは言えないのかも。

2009年5月15日金曜日

最初の近代経済


J・ド・フリース、A・ファン・デァ・ワウデ著 名古屋大学出版会
2009年5月発行 本体13000円

オランダ経済の成功・失敗と持続力1500ー1815というサブタイトルがついています。当初はオランダ経済史の簡潔な概説書を書く予定だったそうですが、この日本語版では二段組みで689ページ、しかもそのほかに索引と注と参照文献リストが55ページ分もついている読み応えのある本になっています。アナール派的なアプローチとアメリカ流のクレオメトリックスとを融合させたものを著者は目指したそうですが、空間と時間、構造とコンジョンクチュール、人々から述べ始めるスタイルは、ブローデルの地中海や資本主義三部作を思い出させます。オランダ経済が「最初の近代経済」なのかどうかは別にしても、この期間に関するオランダ経済史として面白く読める内容でした。

オランダの地形の特徴を述べている第二章は、Googleマップを見ながら読むのがおすすめです。例えば、オランダには泥炭の採掘地がたくさんあり、特にアムステルダム・ユトレヒト・ロッテルダムの三都市を頂点とする三角形で囲まれる地域には泥炭採掘の痕がたくさん残っていると記載されています。Googleマップを眺めるとたしかに同地域には池のような水面が多数みられました。また、ポルダーは堤防に守られていて、堤防とは直交する向きにたくさんの水路とその水路で区切られた短冊状の農地があると記載されていますが、そういう地形がそこかしこに見られます。また、オランダ中にちらばる都市の間は舟運が結んでいましたが、その経路を形成する小さな川や運河を見つけるのにもGoogleマップが役立ちました。

「長い16世紀」にヨーロッパ経済の拡大がみられましたが、オランダ(当時は北部ネーデルランド)にはヨーロッパの他の地域とは異なった特色がありました。もともと北部ネーデルランドにおいて「封建制はほとんどの地域で十分な発展をみなかった」ことです。 これにより、耕作者自身による農業投資が促進されて、穀物を輸入に依存する一方、家畜の飼育と商品作物・園芸農業が発展しました。また、泥炭や風力などの利用で1人当たりの消費エネルギーが多かったことや船上でニシンを処理できる新型の漁船の開発・風力製材機械などの技術革新によってニシン漁業・捕鯨業・造船業・製材業・織物産業などが発展しました。この結果、北部ネーデルランドの都市人口比率は1525年ですでに31~32%と高かったのが、17世紀後半の1675年に45%となるまでさらに都市化が続きました。

情報収集に高いコストがかかり、多くの商品が薄商いであったこの時代、不定期に供給される商品を蓄えて最終市場のより定期的な商品需要に応じることのできる市場が必要とされていました。ゾイデル海に面したアムステルダムは、バルト海貿易と地中海貿易という南北の公益を結ぶ結節点に位置していましたが、北部ネーデルランドの産業の発展を背景に、アントワープからアムステルダムへの大商人の移住やスヘルデ川封鎖ともあいまってヨーロッパ商業の中央貨物集散地としての役割を果たすこととなりました。

本書のタイトルは「最初の近代経済」ですが、著者は
イギリス産業革命は非常に重要であったが、より大きなプロセスの一部分として近代的経済成長に貢献した。より大きなプロセスである経済の近代化は、工業生産に限定されず、その舞台はイギリスよりはるかに広いヨーロッパの地域であり、同プロセスは十八世紀末よりはるか以前に始まっていた。
と述べ、近代経済の条件として、
  • 自由な商品・要素市場
  • 広範な分業を可能にする複雑な社会を支える高い農業生産性
  • 政策の決定と実施に際して、移動・契約の自由、財産権、住民の生活水準に関心を持つ国家
  • 持続的発展と、市場志向の消費行動を維持するに十分な多様性をもつ物質文化とを支えられるだけの技術的・組織的水準
の存在を挙げています。確かにこの条件なら本書で扱われている時期のオランダ経済は満たしています。

しかし一般的には、近代経済を特徴付けるのはクズネッツの言う近代経済成長、人口も人口1人当たり生産量も持続的に成長し広範囲にわたって経済構造の変化が生じる現象を呼ぶのかなとも思います。その観点から考えると、17世紀半ばからオランダの人口は停滞し、18世紀以降のオランダ経済は停滞・後退局面にありました。これに対して著者は、人口の停滞の原因が都市化と若年成人男性の海外活動への流出にあり、人口成長に生産力が追いつかないマルサス的危機ではなかったことを指摘し、近代的と呼べるとしています。

また18世紀オランダ経済の衰退は近代的的衰退だったとして、以下のように主張しています。17世紀後半からのヨーロッパの物価・賃金の長期的な低下に対してオランダの賃金の低下の度合いは軽度で、ヨーロッパの他の国と比較するとより一層賃金の高い国となりました。さらに17世紀にオランダが得た資本は内外の公債やVOCなどの株式で運用され、貿易赤字を上回る資本収支の黒字をオランダにもたらしました。この黒字によるギルダー高は、人口成長の停滞のもとでの高賃金という労働力の不足と失業の共存という分断的な労働市場、イギリス・フランスの重商主義的政策ともあいまって、加工貿易を主体としていたオランダの工業を衰退させることになりました。。ただ筆者によると、農業の不作などに起因する中世的な不況とは違って、収益性、労働コスト、環境問題(水質悪化、地盤沈下など) や市場の開放などが原因の18世紀オランダの経済停滞は十分に近代的と考えられるとのことです。独特な主張です。

工業以外でも、労働コストが高くなったことに加えて、気候の変化でニシン・捕鯨の漁場がオランダから遠くなったこともあり、これらの産業も衰退しました。また、ヨーロッパ内ではアムステルダムを迂回する貿易が増加して、中央貨物集散地としての役割は低下しました。これら衰退する産業に代わって18世紀のオランダを支えたのがVOCをはじめとしたアジア・アメリカ貿易で、アムステルダムは植民地産品を背後のドイツなどへ送る東西の交易の貨物集散地としての役割を果たすようになりました。ただし、やがてVOCも巨大で非効率な組織となりました。また、英仏間で政治的に独自な立場をとることができず、フランス革命後のバタヴィア共和国期を経て、工業・海運の崩壊につながったあたりまでが本書では扱われていました。

2009年5月10日日曜日

西武国分寺線の感想 その2

西武国分寺線を利用して一ヶ月経ち、中央線よりはかなり空いていますが、それなりに人が乗っていることが分かりました。4月はじめの時は朝のラッシュでも空いているいう印象でしたが、乗客には学生が多いので単に春休みだから空いていただけのようです。で、毎日利用しながら、なんで国分寺と東村山ってい中途半端な路線なのか気になります。そこで本棚から、多摩の鉄道百年(日本経済評論社、1993年11月)を取り出して読みなおしてみました。

国分寺線は、そもそも甲武鉄道(現在の中央線)の支線として川越まで結ぶことが計画されていたそうです。実際には川越鉄道という別会社が設立されて、国分寺と久米川(現在は東村山駅)間が1894年に、そして久米川・川越間を併せて全線が1895年に開業しました。この本にはどうして中央線との接続駅に国分寺が選ばれたのかは書かれていません。でも、昨年読んだ地域交通体系と局地鉄道で紹介されていた明治時代の鉄道の設立計画では街道に沿ったものがほとんどでした。おそらく、川越鉄道も府中街道に沿って建設したので、東村山・国分寺という路線になったのでしょう。


その後、1927年に川越・東村山間が電化され、また同じ年に東村山・高田馬場間が開業して、川越からの電車は東村山から高田馬場へ直通運転されることになりました。東村山・国分寺間はローカル線となってしまったのです。 西武鉄道の路線図をみると、もともと川越・東村山・国分寺が一本の路線だったなんて想像しづらく表示されています。でも、東村山駅付近の地図を見ると、北から来る新宿線の線路がまっすぐ南の国分寺線につながっているのに対して、新宿線は東村山駅を出てすぐに南東に大きくカーブしていますから、国分寺線の方が先に建設されたことがよく分かります。

国分寺線の開業は明治20年代と古いので、沿線に家なんかほとんど建っていなかったのでしょう。線路が直線状に敷かれていて、カーブが少ない感じです。カーブが少ないからか、ローカル線ですけどかなりスピードを出して走ります。朝ラッシュ時にのろのろ走る中央線から乗りかえると、余計にそう感じます。速く走ってくれること自体は悪いことではないのですが、スピードを出すと国分寺線の電車はうるさいんです。休日の中央線特別快速なんかもかなりスピードを出しますが、E233系が導入されてからほとんど騒音を感じません。 何種類かの電車が国分寺線を走っていますが、特に3ドアの古い電車はモーターの音や走行音などとてもうるさい。

iPodで音楽聴いているとそのうるささが気になります。ノイズキャンセルのヘッドフォンなんかが売られているのは、車内の騒音対策としてなのかなとも感じてしまいます。きっと、地下鉄なんかはもっとうるさいんでしょうけど。

2009年5月5日火曜日

加藤高明と政党政治


奈良岡聰智著 山川出版社
2006年8月発行 本体6800円

原敬は有名でこれまでにもたくさん研究がありますが、同世代(原より4歳若い)で同じように政党政治家・党首・首相を経験した加藤高明に関しては研究が少なかったのだそうです。また原敬への高評価と違って、加藤に対しては三菱の大番頭と評したり、指導力の乏しさを財力で補ったなどと低い評価がされていました。著者は、これまでの研究が使わなかったような史料を駆使して (本書の中には300以上の注がついている章が多い)、加藤高明像の修正を試みています。本書のもとは修士論文と博士論文だったそうですが、外交官を経て外相・政党政治家への転身、党首としての活動、首相としての仕事などだけでなく 生家の様子、子供から大学生時代、三菱入社などの私生活も少し触れられていて、評伝として読めるくらい、読みやすく面白くまとめられています。

御用政党でも民党でもない政権政党をつくろうという点で、加藤と原敬の目指していた政党政治像が近かったと著者は書いていますが、鋭い指摘ですね。山県閥や軍などとの接し方という点では二人の流儀は違っていましたが、日記や書簡などの史料からもお互いによきライバルと思っていたのだとか。本書のサブタイトルは「二大政党制への道」ですが、二大政党制が戦前の日本でも成立できたのは、この二人の目標が似ていたことが大きく寄与しているだろうとのことです。

加藤は1902年の第七回総選挙で衆議院議員に当選しました。ただ、当時の選挙法では立候補が必要ではなく、本人の承諾無しに候補者とされて当選していたのだそうです。また、衆議院議員は一期だけで、その後は男爵から子爵になったので、貴族院議員として憲政会総裁・首相をつとめました。第二次護憲運動の結果として誕生した加藤内閣ですが、首相が衆議院議員でなかったとは知りませんでした。

桂新党だったはずの立憲同志会ですが、桂太郎の死去で1913年の立憲同志会旗揚げから加藤が総理に就任しました。その後、非政友三派の合同で1916年に憲政会(英語ではinsutitutional partyと紹介されたそうで、目からウロコ)に発展的解消しましたが、憲政会でも加藤は最初から総裁を務め、1926年にしきょするまでずっと総裁でした。野党時代が永く、苦節10年と言われましたが、ずっと党首が代わらなかったのが面白い点だと感じます。加藤がたくさんの政治資金を党にもたらしてくれた点も一因でしょう。ただ、首相候補である党首には充分な知識・識見・人格などを備えた人物でなければならないという常識があったのだろうと感じます。少なくとも、安倍晋三や麻生太郎を総理総裁にするような現在の政治家たちとは違うような。

加藤は、第51議会開会中の1926年1月22日に体調不良をおして登院し、議場で答弁中に倒れて、28日に死去しました。本書は本当の評伝ではないので死因には触れていませ。でも医者としては興味があるので調べてみると、Wikipediaには肺炎と書かれていました。。

2009年5月4日月曜日

無くしたブレザーの金ボタン

先日、紺ブレザーの金ボタンをなくしてしまいました。別に、満員電車でもまれたわけでもないし、どこでなくしたのか全然心当たりがありません。買った時にスペアのボタンがついてたような気もするのですが、家の中を探しても見あたりません。無くなったのは三つボタンの一番上で、さすがにこのボタンがないと、このブレザーは着るわけにいきません。

なので、昨日これを買ったJ.PRESSのお店に行って、スペアのボタンを売ってるかどうか尋ねてみたところ、いっぱいありました。一個350円で買いました。ブレザーの金ボタンは脚つきのボタンですから、自分で上手につける自信がありません。服のリフォームのお店でボタン付けを頼むと200円でした。J.PRESSのお店でスペアボタンが売ってなかったら、ユザワヤさんかなにかで金ボタン一揃いを買う必要があるかなと思っていたので、消費税込み577円でまた着られる状態に戻ったので、一安心。

実は、ボタンをなくしたことに気付いた日に、スペアの金ボタンの情報がないかどうか知りたくて、日本のJ.PRESSのサイトにアクセスしました。このサイトは、カーソルをボタンの上に移動させると音がしたり、クリックするとまた違う音が出てイメージがスクリーンロールのようなアクションで出現したりなどの仕掛けが施されています。それでいて、何処に何があるのかよく分からないし、欲しい情報はないしで、最悪です。 おそらく、サイトをつくった人自身は満足してるんでしょうが。

2009年5月3日日曜日

日中和平工作 感想の続き

本書を読んでいると、日本外交のセンスのなさは単に過去のことだとは思えない感じを持ちます。当時は、暴支膺懲などのスローガンでマスコミが国民を煽り、満州国承認などの理不尽な要求を掲げて交渉を失敗させるといった状況でしたが、これってどこかで見たような構図。例えば北朝鮮との国交正常化交渉では、北朝鮮が死亡したと主張している拉致被害者の帰国を要求したり、反北朝鮮キャンペーンをニュース番組のトップニュースとして放送するNHK。外務省の職員の中には冷静に現状を認識して国益のために何とかしなければと思っている人もきっといるのでしょうが、政治家が全くダメだから表だっては動けないのでしょう。本書の著者も日本側の妨害にあったり、命の心配をしながら交渉にあたっていたようですから。

また、前のエントリーを書いていて、盧溝橋・汪兆銘といった固有名詞がATOKの辞書に入っていないことを知りました。まあ、これらは入っていなくて当たり前かも知れません。でも「しな」を変換した際、候補の中に「支那」がないことには本当にびっくりしました。現在ではおおっぴらに使うことが憚られる言葉ではありますが、前世紀前半にはふつうに使われていた名詞で、現在でも意味を知らない人はいないはずで古語と化しているわけではないのだから、「支那」を辞書に入れないというのはやはり変だと思います。

また、本書巻末に収載されている読売新聞社によるインタビューを読んでいて、昭和史の天皇も読んでみたくなりました。これって子供の頃に読売新聞に永らく連載されていたのをみかけた記憶があります。 このサイトによると、まとめた本が角川書店から30巻出版され、文庫にもなっていたのだとか。オンデマンドで抄録版が買えるとあるので、中央公論新社のサイトなどのぞいてみたのですが、みつからない。縁があれば古本で出会えるかもですね。

日中和平工作


今井武夫著 みすず書房
2009年3月発行 本体16000円

回想と証言1937-1947というサブタイトルがついている本書には、盧溝橋事件直後の現地軍の停戦交渉、汪兆銘擁立工作、桐工作などの代表的な日華和平交渉や、太平洋戦争緒戦期のフィリピンでの戦闘、敗戦後の中国での後始末などに実際に従事した著者の体験談が収められています。もともとこの本は、1964年に「支那事変の回想」というタイトルでみすず書房から出版されていたもので、出版後に著者が書き加えていたメモ、読売新聞社が「昭和史の天皇」の取材で著者にインタビューしたテープの内容、その他資料なども加えて、著者の息子さんの監修で新たに出版されました。非常に読みやすい文章で内容も面白い本です。唯一の欠点は16000円という値段ですが、現在の出版状況ではまあ仕方ないのかも。学んだ点、興味深く感じた点をいくつか紹介します。

盧溝橋事件が発生する前、七夕の日になにか事件が起こりそうという噂があって日本にまで伝わっていたそうです。陸軍中央は現地軍が満州事変のような謀略を起こすかと心配したくらいですが、著者によるとそういう動きは全くなかったとのこと。また現地の中国軍も種々の事情からこの土地での駐屯に満足していて、事件を好んで起こす動機がなかったと著者は述べています。確証はありませんが、著者は中国共産党関係者がきっかけとなる銃撃を行ったと考えているようです。ただし、その銃撃が文字通り引き金となって日中戦争にまで広がってしまったのは、日本側の中国に対する優越感と蔑視、五四運動以来の反日感情の高まりとが存在していたからで、著者もそのことをきちんと指摘しています。

現地軍での停戦交渉にしても、その後のいろいろなルートでの交渉にしても、停戦が実現しなかった最大の原因は日本側の条件が厳し過ぎたからというのが著者の評価です。例えば、南京を占領しても武漢三鎮を攻略しても中国が降伏してくれず困り果てた後の桐工作では、満州国承認や中国本土への防共駐兵などが難問でした。満州国については協定では触れないが現状を黙認する、駐兵についても必要なら撤兵を遅らせ和平後の交渉で決着しようとするなど、中国側が実質的には受け容れていたのに、明文化させようとして失敗しています。当時の中国には共産党との関係があるのと、民衆の反日感情が強いこともあって、蒋介石も大きな譲歩で和平を結ぶことができませんでした。そのへんを汲んで実をとる外交的センスがないのには困ったものです。まあ、爾後國民政府ヲ對手トセズなんていう声明を出しちゃう政府だから、期待するだけ無駄なのかもですが。

汪兆銘さんは当初、日本軍占領地でないところに同志をつのって新政権を樹立したかったのですが、同調者が少なく、しかも軍隊に全く同調者が出なかったので、やむなく南京で政府をつくることになりました。最初から単なる傀儡として擁立されたわけではなかったのですね。

敗戦直後の交渉での中国軍の対応は温情こもったものでした。怨に報くゆるに徳をもってせよという蒋介石の言葉や、日本の支那派遣軍がかなりの実力を保持していたことも影響していました。また敗戦後の南京での生活のエピソードを読むと、第一次大戦のドイツ人捕虜収容所に対する日本人の感じ方に似た要素も、中国人の間に少しはあったのかもしれません。