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2009年4月27日月曜日

ブタインフルエンザの報道に接して

先週末からTVや新聞でブタインフルエンザが報道されています。アメリカではメキシコ旅行をした高校生や子供に、またカナダでもメキシコ旅行をした人の中に感染者がいるとのこと。ブタと接触するとは思えない旅行者が複数感染しているのですから、ヒトーヒト感染があることは間違いないのでしょう。それ以外の情報がないかどうか、CDCとWHOのサイトを覗いてみました。すると、WHOの メキシコとアメリカのインフルエンザ様疾患のページに
The majority of these cases have occurred in otherwise healthy young adults. Influenza normally affects the very young and the very old, but these age groups have not been heavily affected in Mexico.
Because there are human cases associated with an animal influenza virus, and because of the geographical spread of multiple community outbreaks, plus the somewhat unusual age groups affected, these events are of high concern.
と載せられていました。

スペイン風邪の時にも、インフルエンザ感染が重篤な症状を来して死亡につながった症例は若年成人に多かったことが知られていて、その原因としてはサイトカイン・ストームが想定されています。今回も主に健康な若年成人が肺炎にまでなっているのですから、同様の機序の存在が想像されます。私は感染症の専門家でも何でもありませんが、なんとなく本物のpandemicになりそうな予感がします。ただ、新型インフルエンザの出現がこの時期だったことは不幸中の幸いかもしれません。北半球ではこれから夏を迎えますから、いったんは流行が下火になってくれればと思います。そして秋になるまでにしっかり準備ができればいいのかも。

報道で日本人の反応をみると、厚生労働省の電話相談には豚肉を食べて大丈夫かという問い合わせが多いとのこと。ちょっとびっくりする質問です。これを受けて、石破農林水産大臣がインタビューに答える様子がTVで放映されていました。そのインタビューの中で彼は、豚肉は殺菌滅菌されているから安全だとおっしゃっていました。これにも、またまたびっくり。豚肉を生のまま味や外観に影響ないように滅菌するとしたらガンマ線でも使わなきゃ無理でしょうが、そんな処理をした豚肉を売ったら食品衛生法違反になってしまいます。そもそも、ふつうの食肉は殺菌・滅菌・消毒されてから売られていると思っていたのだろうか、この大臣は。国民のレベルにみあった国会議員が選出され、その議員が大臣になっているってことが本当によく分かりました。

などと書き込んだあとに、BBCのサイトに複数のメキシコ人医師からのE-mailが掲載されているのを知りました。これを読むと、医療スタッフが逃げ出し始めるなど、メキシコの病院は報道されているよりもずっと深刻な状況とのことです。この先どうなるのか、かなり不安になってきました。

2009年4月26日日曜日

技術屋の心眼




E.S.ファーガソン著 平凡社ライブラリー
2009年4月発行 本体1500円

アメリカの工学の教育機関には、現場での経験を持った教授はほとんど存在せず、また実際の建造物・機械などを扱う経験や製図法などのモノ作りに際して必要となる直感やイメージといったMInd’s Eyeを育む教育が重視されず、コンピュータを用いた解析的な手法ばかりが重視されることを著者は危惧して本書を書いたのかなと感じられました。
解析の方が設計よりも教えるのが容易だし、実験コースよりも整然としていることは間違いない。現実世界における技術の実践には計算できない複雑さがあるのだが、工学教育における真の『問題』は、格の高い解析的コースの方が、そうした複雑さに対する直感的な『感じ』の啓発を促進するコースよりも優れていると、暗黙のうちに認めていることなのである
こんな文章が本書にはありますが、実際には数値解析にもとづく決定は工学の最先端にいる技術設計者の判断のほんのわずかなぶぶんでしかないのだそうです。コンピュータを使って有効数字6桁以上をつかって設計するよりも、経験から実際の使用状況などを加味して有効数字3桁の計算尺をつかった設計の方が妥当なこともありえます。ハッブル宇宙望遠鏡の不具合やアメリカの大学体育館の屋根崩落など、CADが実用化された後の設計の失敗による建造物の事故事例がその証拠として取りあげられています。

ただ、科学を尊ぶポーズというのは現代の技術者だけでなく、ルネサンス期からみられていたのだそうです。ルネサンス期にはギリシア数学が王侯貴族に珍重されてたので、当時の技術者は実際の設計には使用していないのに、「科学こそ真理への道であり、物質的な世界を変えた進歩的な発明の最も重要な源であることを、自分たちのパトロンに納得させ」ることによって、自らの構想の実現をはかったのだそうです。

ある機能を果たす建造物や機械の設計は、ふつうに大学などで教えられる問題を解くのとは違って、答えが一通りではありません。多くの考え得る解の中から、ある特定の部品・部材の組み合わせを選択してモノを作るに際しては、直感・イメージが重要だと著者は主張しています。なので、ルネサンス期の技術者は芸術家でもあり、また近代の設計技術者に絵画や写真や音楽などを趣味にしている人も多いのだとか。で、ルネサンス期の技術者は、そのイメージを頭の中にもったまま制作を行いました。しかし、技術者と製作に携わる人が別々になるにつれ、イメージを正しく伝えるために製図法がつかわれるようになったのだそうです。

設計・製図の重要性について縷々述べられている本書を読んでいて、19世紀末に三菱長崎造船所で建造された常陸丸のエピソードを想い出しました。それまで経験のなかった6000トン級の船舶の建造にあたっては、日本郵船から同型船の発注を受けたイギリスの造船会社から、設計図・ワーキングプラン一式をそっくり譲り受け、しかも同社で使った鉄材を同じように購入することにより、大型船の建造経験を得ることができたわけです。著者の言う技術史における設計図の重要性がよく分かる気がします。

2009年4月25日土曜日

Doing思想史


テツオ・ナジタ著 みすず書房
2008年6月発行

著者の講演や講義録をまとめた本です。安藤昌益、荻生徂徠、懐徳堂、二宮尊徳、丸山真夫などがとりあげられています。安藤昌益について、全く孤立している思想家なのではなくて、当時の時代の思潮をふまえてああいう考え方がでてきているという分析はなるほどと感じましたが、その他は正直いって読んでいて今ひとつ面白さを感じ取れませんでした。エコロジーに関する所などは特に。まあ、今の私には共感できるような問題意識が備わっていなかったということなのでしょうが。

名前から著者は日系人なのだろうと以前から思っていたのですが、ナジタって何なのかが疑問でした。この本には著者の自分史が含まれているのですが、著者のご先祖様は広島の奈地田さんなのだそうです。著者のお父さんはハワイへ移住した方だそうですが、官約移民とその後のハワイへの移民の歴史をコンパクトにまとめてあって、その点は勉強になりました。

2009年4月23日木曜日

中央線不通なので迂回ルートで通勤してみました

今朝、立川駅に着いてみると中央線が人身事故で止まっていました。中央線は事故で止まってしまうことが多い印象だったのですが、中央線通勤を始めて一ヶ月も経たないうちに、実際に出くわしてしまった訳です。立川駅で運転再開を待っていると午前中の外来開始時刻に間に合わない可能性もあるので、別ルートで行くことにしました。

立川から東村山・久米川方面に行くにはバスもあるのですが、朝のバスはどれくらいかかるか不安です。そこでな、立川北駅からモノレールに乗ってみました。モノレールの混雑状況は、中央線不通時の南武線の混雑よりずっと余裕がありました。新宿に出るには、モノレールで玉川上水駅経由西武拝島線ルートより、南武線分倍河原乗り換え京王線ルートの方がずっと距離も短いし時間も少なくて済むのでしょう。

立川から北行きのモノレールに乗ったのはおそらく10年ぶりくらいです。高いところを走っているので見晴らしは良好で、立川市内にもけっこう大きな樹があることに気付きます。立飛駅あたりの西側に見慣れない武道館のような屋根の建物が建っていましたが、宗教関係のものでしょうか。

玉川上水駅で西武拝島線に乗り換えました。小川駅までの沿線には、玉川上水など大きな樹のある遊歩道や、植木などをつくっている農地がたくさんあって、緑豊かな印象です。もちろん、駅前には玉川上水も東大和市も新しめのマンションが多いのですが。

小川駅では西武国分寺線に乗り換えですが、いつも国分寺から乗っている電車がホームの反対側に待っていました。いつもと違うルートをとったわけですが、いつもの時間に職場に到着できました。中央線の事故があっても、通勤時間に影響がないことが分かったのが今日の収穫でした。

2009年4月20日月曜日

ロシア共産主義


バートランド・ラッセル著 みすず書房
2007年6月発行 本体2000円

イギリス労働党の代表団と一緒に1920年5月11日から6月16日までソ連を訪問しました。レーニン、トロツキー、ゴーリキー、カーメネフなどの著名人だけでなく、都市や農村の一般の人とも話をする機会を持ちました。それをもとに、「ボルシェヴィズムはフランス革命の特徴と勃興期イスラム教の特徴とを兼ね備えている」という著者の評価とそれを示すエピソードを紹介した本です。

先日読んだ同じ著者によるドイツ社会主義の中で
「もし社会民主党が突然の革命によって権力を獲得したならば、彼らの理想がそのまま手つかずに残り、事前に漸進的な実務の訓練を経ないで政権についたならば、きっとフランスのジャコバン派のようにさまざまな馬鹿げた破滅的な実験をすることになるであろう」
とラッセルは述べています。これはロシア革命の経過の見事な予言になっていて、その慧眼には感服させられます。

大地主が土地を奪われて農民は以前より暮らし向きが良くなっていました。しかし協商国の敵意のもとで、機関車など必要な工業製品が輸入できず、また最良の工場労働者を兵士として派遣したために工業は崩壊していました。都市と軍隊が食料を必要としているので政府は農村で食糧を調達しなければなりませんが、交換に農機具・日用品などの工業製品を提供することができず、紙幣を渡すしかありません。しかし、農村では帝政のルーブルがソヴィエトのルーブルの10倍の価値をもち、しかもおおっぴらに流通していました。政府は都市と工業人口を代表しており「農民との関係は通常の政府と国民との関係よりも、むしろ外交・軍事関係である」のだとか。

他方、モスクワやペトログラードなどの大都市では食糧がとても不足していて、決して贅沢ではないが充分な量の配給を受けている共産党員に対する反感の原因となっていました。この結果、どう工夫しても自由な選挙では共産党が多数を得ることができず、自由な言論・新聞・選挙・集会が完全に抑圧されることになっていたのです。著者はソヴィエト体制が議会主義よりも本当に優れているのかどうか研究したいと思って訪ソしましたが、「ソヴィエト体制はすでに死滅しかけていた」と述べています。

革命後のソ連の困難には、戦争でロシア経済が疲弊していたこと、革命後の外国からの干渉・経済封鎖などが影響しています。しかし、ボルシェヴィキの理論からすれば革命後の外国からの敵視は当然予想されてていたはずで、真に驚くべきことは農民や工場労働者からも敵視されるようになってしまったことでしょう。そしてその原因は、ボルシェヴィキが真の多数派ではないのに政権を奪取してしまい、ドグマにもとづく信仰の体系であるボルシェヴィキの党員が献身的な独善を大いに発揮したことにありそうです。著者は10月革命について、
「革命の瞬間、共産主義者は何か人気のある叫び声を挙げ、共産主義だけでは得られないような支持を得る。こうして国家機構を獲得すると、彼らはそれを自分たちの目的に利用する」
ことによって実現したと述べています。小泉首相が郵政民営化選挙でこの戦術を利用したことは記憶に新しく、また他の民主主義国でも選挙に際しての常套手段でしょうが、政権交代のないソ連ではこれの悪影響が1991年まで続いてしまったというわけです。

著者は社会主義への共感を持ち、社会主義への移行を望んでいますが、ボルシェヴィキのやり方では希望は実現されす、しかも西欧でボルシェヴィキ流の革命を起こすことは、資本主義国からの経済封鎖で飢えにつながるだけで不可能で、無理に複数の国でそう言った革命を起こせば文明の退化につながるとしています。その点で、ソ連を訪れた西欧の社会主義者がロシア共産主義の汚点を隠蔽する態度をとっていたことを批判してもいるのです。

そして著者は、「一つの世界勢力としてのボルシェヴィズムが成功すれば、遅かれ早かれアメリカと絶望的な対立に陥ることであろう」と予言しています。この本が1920年に書かれたことを思うと、驚くべき洞察力です。このエントリーのトップで紹介した社会主義政党の革命に関する予言ともあわせて、著者には全く脱帽。この本の内容は現在から振り返れば当たり前のことが書いてあるだけなのですが、1920年の本だと言うことが値打ちです。当たり前のことをリアルタイムでつかみ取るこういった洞察力がどうして可能だったのか、自分にもこういった洞察力がほしいと、無い物ねだりをしてしまうところです。

あと、レーニンとの会見のエピソードを面白く感じました。レーニンはイギリス労働党が政権を取ること、そしてイギリスのレーニン主義者がそれに協力することを望んでいたそうです。それはなぜかというと、労働党政府ができても重要なことは何もできないだろうし、その結果として労働者が議会制政府を軽蔑するようになってほしいからだとか。レーニンも偉大な政治家なのでしょうが、やはり彼はロシアの政治家でしかないから、西欧の民主主義の事情を理解できていなかったというエピソードですね。

2009年4月19日日曜日

ドイツ社会主義


バートランド・ラッセル著 みすず書房
2007年6月発行 本体2000円

日本では1990年に最初に翻訳出版され、2007年の東京国際ブックフェアにあわせて復刊されたそうですが、原著は1896(明治29)年に発行された本です。著者がロンドン大学の政治学経済学カレッジで講演したものをまとめて本にしたものです。ドイツ社会主義というタイトルですが、中心はドイツ社会民主党で、マルクスから説き始めてドイツ社会民主党の歴史と1890年代現在での課題、ドイツの将来展望にまで及んでいます。

マルクスについては、その価値理論にさまざまな誤りのあったことを著者は指摘しています。20世紀以降には非製造業の発展・新中間層の広範な出現など、マルクスの予測を超えた事象が多々ありますが、19世紀の当時でも農業に対する考え方に問題があり、ドイツ社会民主党の農村での支持拡大に支障があったことを著者は指摘しています。しかし、共産党宣言については「文学的価値にかけては右に出るものがほとんどなく」「政治的文献としては最良の著作の一つ」と絶賛しています。歴史の発展という抗し難い力によって資本家階級の最終的な消滅は不可避であるという信奉をドイツの人々にもたらした点が、マルクスの最大の功績という評価であるということのようで、私も同感です。

マルクスの大系の信奉により、宗教的とも呼ぶべき力・団結・熱意・正義感をもつことになったドイツ社会民主党ですが、労働者の間でこの党の支持が広がったのはドイツで非民主的で不平等な政治が行われていたことも一因だと著者は考えています。プロイセンの政治や社会の状況は当時のイギリス人の常識を越えて抑圧的なものだったようで、例えば政治集会には警察への届け出が必要で警察官が臨席して記録をとったり集会を解散させることもあったことなど、イギリス人が対象の本講義にはそれを理解させるためにいろいろと背景説明が付されています。特に1878年から1890年まで続いた社会主義鎮圧法はきびしいものでしたが、この時期までの社会民主党は敵の挑発にのるなということを強調して非暴力的に活動していたことが注目すべき点でしょう。

社会主義鎮圧法の廃止後も団結や政治活動の自由が完全に保障されていたわけではありませんが、労働者の間での支持は増えていきました。著者は、社会民主党がさらに大きくなるにつれ純然たる反対の党ではいられなくなり、「農業問題であれ実際政治であれ、経験を通じてしだいにマルクスに由来しない見解、おそらく部分的にはマルクスに反対する見解も受け容れることが必要になってくるだろう」とみています。

そして、ドイツ社会民主党がこのように非妥協的な態度を捨て、しかも皇帝など支配者の側も非妥協的に敵対しなくなるならば、ドイツにも平和的に自由で文明化された民主主義国家が出現するだろうが、そうでなければ、やがてドイツは外国との戦争に失敗して軍事政権が弱体化・倒壊して国内に内乱が起きるだろうと著者は予言しています。第一次大戦後の状況は、この著者の予言どおりになりました。

200ページ弱と新書くらいの分量の本ですが、マルクス主義がイギリスよりもドイツでより強い影響をもったことの理由がよく分かる気がして、面白く読めました。マルクス主義自体は魅力ある大系なので、ある状況下では、人は宗教のように取り込まれてしまいます。なので、社会主義に対する共感を持ちながらも、外側から冷静に眺めて評価する本って重要な気がします。

1896年という大逆事件よりずっと前に出版された本ですが、その頃日本に入って来てはいなかったのでしょうか。日本に入ってきていたとしても、日本はプロイセンを見習ってプロイセン以上に抑圧的な政治の国だったから、マルクス主義に対する信奉者が増えることは止められなかったかも知れませんが。

あと、著者のユンカーに対する見方が面白いと感じました。著者によると、
彼らの出身地は国の最も貧しい地域であり、金銭で言えばわが国のアイルランド貴族と変わらない状態で、現実に彼らはアイルランド貴族と政治的に大いに類似している
のだそうです。

2009年4月17日金曜日

昭和戦中期の議会と行政


古川隆久著 吉川弘文館
2005年4月発行 本体7500円

タイトルは昭和戦中期となっていますが、沿革もあるので主に昭和戦前期について、議会は衆議院、行政は内務官僚が記述の対象となっています。国家総動員法が成立してしまえば、ナチスドイツの授権法のように、議会は存在自体が不要なものになってしまうかと言うとそうではありませんでした。特に、
総動員法案の審議過程における政府側の答弁をみると、政府側は、議会を超越して天皇の名において出される緊急勅令や非常大権は、天皇の権力がストレートに表現されることになるため、天皇の政治責任の問題をおこしやすいと考えていたと思われる。従って戦時対策も法律によらざるを得ず、議会の発言力は確保された。
という説明には、なんとも日本的な事情があったことが分かり、勉強になりました。

ただそれでも、戦中期の議会・衆議院について形骸化し無意味な存在であったという見方の方が一般的だと思います。しかし著者は、農業や教育など比較的政府の取り組みが消極的だった分野で、議会が政策立案過程に積極的に関与していたことを史料から明らかにしています。また、国家総動員法にもとづく勅令についても、恒久的な性格をもった措置、戦争遂行目的の臨時的なものとはいいきれないものについては、議員が委員として参加していた国家総動員審議会の場で、容易に通過させなかったことも示されています。これらの事実から著者は「当該期の政策過程において、議会勢力は重要な役割を果たしていたといえる」と結論づけています。

既成政党が解党して無力化してしまったと思っていた議会も、それなりに仕事をしていたことは理解できました。ただ、議会が政策立案過程に関与できたのは政府の取り組みが消極的な、つまり戦争遂行にとって重要性の薄い分野だったわけで、「議会勢力は重要な役割を果たしていた」とまで言うのは言い過ぎのような気がします。

もうひとつ、議会に関しては第7章で戦前の請願の事情について記されています。請願は明治憲法に定められた制度で、戦前期には2000~4000件、日中戦争期には1000件、太平洋戦争期には500件前後の請願が議会で審議されていたのだそうです。請願に関する知識は全くなかったので、数の多さには驚かされました。最近の国会での請願審議件数は2000件程度のようですから、請願については今と同じくらいの活発さで行われていたのですね。

また、政党内閣終了後の日本の政治体制について著者は、
五・一五事件による政党内閣の中断後の日本の政治体制を普遍的な概念でどう概念化すべきかは、いまだに決着がついてない問題である。すなわち、国家レベルにおいては全体主義とはいえないことはもはや明らかであるが、それにかわって比較的よく使われる戦時体制という定義も、日中戦争勃発以後(戦中期)にしか適用できない上、どのような戦時体制なのかについては議論が熟していない。
と述べた上で、本書で紹介された各政治勢力の動きを総合すると、
「国家を統治する洗練されたイデオロギーは持たず、しかし独特のメンタリティーは持ち、その発展のある時期を除いて政治動員は広範でも集中的でもなく、また指導者あるいは時に小グループが公式的には不明確ながら実際には全く予測可能な範囲の中で権力を行使するような政治体制」というJ・リンスの古典的な権威主義体制の定義に驚くほど合致しているといえる
としています。これには全くうなづかされました。

本書の内容とは直接関連しませんが、憲政の常道の時代には政党内閣が組織され、数年おきに政権交代が実現していました。しかしこの政党内閣制は、選挙費用の高騰、地方における政争の激発、政権交代に伴う高級官僚の党色人事など党弊と呼ばれる問題も伴っていて、既成政党打破を望む空気が醸成されたわけです。現在の日本の閉塞状況下、自由民主党の長期政権に対して政権交代が行われることを私は期待していますし、そう望む人は私以外にも少なくないだろうと感じます。ただ、政権交代が実現したからといって問題がすべて解決してしまうわけではないでしょうから、政権交代の常識化した議院内閣制に対する不満が生じることも避けられないでしょう。昭和戦前期の経験に対する温故知新が必要な時代になってきているような気がします。

2009年4月15日水曜日

FileMaker Pro 10のツールバー

うちのMacBook Proに入れてあるFileMaker Pro 9は10にアップグレードしなかったのですが、職場で使う新MacBookの方に新品のFileMaker Pro 10を買ってもらいました。ファイル形式に変更はなかったので、FM Pro 9でつくったファイルをそのままFM Pro 10の方で問題なくつかえています。FM Pro 10には新しい特徴もいくつかあるようですが、とりあえずFM Pro 9でつくった既存のファイルを流用しているので縁がありません。私にとって大きく変化したところは、ツールバーの加わったUIだけです。

そのツールバーですが、まずアイコンが一目瞭然とは言えず文字がないと意図がよく伝わらない印象。アイコンってもともとは文字なしでも理解できて使いやすくさせるためのもののはずなのに、FM Pro 10のツールのアイコンは説明文がないとだめみたい。まあ、ほんとにツールチップなどの説明文なしで理解できたアイコンは、MacWriteやMacDrawなどで使われたものくらいかもしれないので、やむを得ないかもですが。


で、ブラウズモードのツールバーをアイコン+文字で表示してみると、バー自体がかなり幅広になってしまい有効な表示面積がかなり喰われてしまっています。しかもデフォルトでバーに用意されているツールは、⌘J、⌘N、⌘F、⌘Sなどのショートカットを使った方が簡単なものばかりで、はたしてバーに常駐させておく必要があるのか疑問です。この画面にはツールバーに置いておくツールを自分用に選択するウインドウも一緒に表示させてあるのですが、これらのツールもメニューバーから選べば十分なのではと感じます。


また、ツールバーを文字だけの表示にすればこんな風に半分近くに面積が減りますが、レコード間をナヴィゲーションするツールが使えなくなってしまいます。私としてはショートカットを使えば充分なので、ツールバーは非表示にしてつかうこととしました。



レイアウトモードに関しても、縦の表示の高さが食われてしまうことを別にしても、このFM Pro 10のツールバーより、FM Pro 9の縦長コラム形式のツールの方が使い勝手が良さそうに見えてしまうのは、単に慣れのせいだけでしょうか。FileMaker社のサイトからFM Pro 10の批評記事をいくつか読んでみると、FM Pro 9の縦長のツールコラムと比較して、この新しいツールバーはデベロッパーが独自のツールのボタンを導入するのに最適とのこと。ツールボタンを自作できる人でないと良さが実感できないんですね。

2009年4月12日日曜日

近世武家社会の政治構造


笠谷和比古著 吉川弘文館
1993年2月発行 本体8500円

専門書として出版されているのですが、選書として出版されてもおかしくないくらい、平易な叙述で分かりやすく、しかも非専門家にとっても面白い本です。私が購入したのは第3刷ですから、吉川弘文館から出版されている他の同じような装丁の専門書よりたくさん売れているのだと思いますが、それも面白いからなのでしょう。で、勉強になった点をいくつか紹介します。

近世前期に各藩で御家騒動を伴いながら、つまり上級藩士の意に反する点がありながらも、地方知行制の廃止と近世官僚制の確立が成し遂げられるようなイメージを持っていました。しかし
最近の知行制度について研究は、この「分散相給的知行形態」の導入が在地領主としての給人の自律性を否定し、藩主権力を確立すべく推進されたものとする従前の見解に疑問を提起している。この新しい近世的知行の形態は、年貢収納の豊凶に伴う危険の分散と、その均等・安定化の観点において、むしろ家臣団側からの要望によって採用されていたことがしだいに明らかにされつつあるのである。
また、地方知行が廃止されることによって家臣団の俸禄に対する保有が脆弱になり、その後の藩財政の悪化に伴って借知制が一般化するというふうにも思っていました。しかし著者によると、借知制は俸禄そのものが削減されるのではなく借り上げられるという形態であること、借知令発布の際には藩主の不徳により心外ながら借りるというような文言が添えられていること、借知令発布の当初には返済も考えられていたことなどを挙げ、俸禄保有は確固たるものだったと結論づけています。うまい解釈です。

また近世官僚制についても、江戸時代のごく初期には地方知行が存在していたために包括的な藩政が存在せず、大名は蔵入地を側近の家宰を通して支配していただけだった。分散相給的知行形態の導入後、それまで支城を守っていた最上級家臣が本城に常住することにより、藩政に関わる家老職が作り出されたということです。

第10章の大名改易論では、広島の福島正則・肥後の加藤広忠の改易について論じています。一般的には幕府が外様大名の廃絶政策をとっていて、ささいな理由や陰謀で次々と改易されたようなイメージもありました。しかし本書で著者は、福島正則については史料から広島城改築が無届けであったこと、穏便に済まそうとする老中の意向により一度は城の破却で合意したのに福島正則が条件どおりの破却を実行しなかったことから改易につながったと論証しています。加藤忠広の場合にも、問題となった怪文書が実在し、しかも息子の光広との関連を忠広が否定していないことを史料から示して、幕府の陰謀とは考えられないこと、当時の他の大名も改易止む無しと考えていたことを示しています。また改易の際には、他の大名の動揺を防ぐために、諸大名を江戸城に集めて事情を説明する場を設けたりなどもしていて、無嗣断絶以外の改易を積極的にすすめる意向が幕府にあった訳ではないようです。

第12章の大名留守居組合論では、この組合の重要性が述べられています。幕府が全国に向けて発する法令を各藩が自領内で実施するには、その法令がどういう意義を持っているのか、具体的にどう実施すべきかなど、法令の解釈や施行細則にあたる部分が必要です。それらの解釈・施行細則を幕府関係者や他藩に問い合わせて国元に伝達する役目を留守居役が担っていました。幕府が全国の升を京升で統一する幕令を出した際、幕府は京都・江戸の指定業者のつくった升で統一するつもりだったのが、大名留守居組合の総意で、寸法が京升どおりの升ならどこで製造した升でもよいことになってしまったそうです。また、田沼時代末期の全国御用金令は、大名留守居組合がこの幕令そのものの受け容れ困難ということで一致して対応し、当初は延期、そしてついには廃止を勝ち取ったのだそうです。武家諸法度で徒党は禁止されていますがこういうこともありえたのですね。江戸時代には議会はありませんでしたが、非公式な議会とも言えそうな印象を持ちました。

ほかにも駈込慣行とか、大名家における意思決定の「持分」的構成論とか、関ヶ原の戦いがその後の江戸幕府の体制に与えた影響とか、一読の価値ありでした。

2009年4月10日金曜日

室町幕府と守護権力


川岡勉著 吉川弘文館
2002年7月発行 本体8500円

本書の序章「中世後期の権力論研究をめぐって」では、研究史の整理と著者の見解が紹介されています。研究史の整理は勉強になります。

高校時代の日本史の時間には、室町時代の政治体制については守護領国制と習いました。「守護領国制とは武家勢力による荘園侵略と守護への被官化というシェーマを軸に中世後期社会を把握する議論であり、1950年代まで通説の位置を占めていた」そうですが、「在地領主制の発展を軸とする中世社会論が後退し、荘園制の成立・発展・解体を軸に中世社会を議論する方向へシフトし」ていったために、廃れていったのだそうです。日本史のどの時代についてもそうですが、マルクス主義史学の興亡は学説と時代の空気との関係を明らかにしてくれていて、興味深いものです。

その後、守護領国制に代わって、「幕府ー守護体制」「地域社会論」「国人による領主制」などが論じられるようになりました。しかし、著者によると
幕府ー守護体制という概念が必ずしも明確に性格規定されてない上に、幕府・守護・国人という三者の相互関係に視野が限定されており、在地社会の動向を踏まえた中世後期の権力総体の構造や特質が示されていない。守護支配については求心的な側面が強調され、幕府支配体制の一環として、公権による領域支配を軸に守護権を理解する傾向が強くみとめられる。結局、守護領国制論に十分代わりうる権力構造論が提示されたとは言いがたい状況にある。
のだそうです。

そこで、著者の主張ですが、室町時代の政治体制は南北朝の内乱を通して形作られたものであることを重視して、
王権が分裂し地域社会の自立化が進行した南北朝期においては、将軍権力の強化と守護権限の拡大のうち、いずれが欠けても内乱を克服することができなかった。守護の裁量権を大幅に認める国政改革がなされ、これによって全国的な統治・収奪体系の再建がはかられたが、このことは中世国家が在地秩序に思い切って依存する体制に切り替え、一定の分権化を認めた上で求心性の回復をはかろうとしたことを意味する。いわば、自立性を高めた地域社会を、守護を媒介に中央国家に接合することによって、内乱は克服されたのである。
というように、主張しています。そして、いったんは安定したように見えるこの体制も、嘉吉の乱後に指導力のない幼少の将軍が続いたことで変容してゆきます。
嘉吉の乱は、将軍の天下成敗権と守護の国成敗権の重層的・相互補完的な結合に亀裂を生じさせ、そこから体制の変質が始まる。上意不在状況が大名間の扶持・合力関係を展開させる中で、将軍の天下成敗権が弱体化し、幕府は地方政治から後退していくことになる。これに対して、守護は国成敗権の担い手として自立性を高め、幕府ー守護体制の諸要素を模倣しながら、分国の一体化を進めた。
「政治史を組み込んだ考察」ということで嘉吉の乱後の状況が重視されていますが、はたして義教が暗殺されずに、指導力のある将軍が続いていたらどうなっていたのだろうかという疑問がわいてしまいますが、それ以外の点ではここまでかなり説得力のある議論で、とても勉強になりました。

しかし本当に難しいのは、その後の戦国時代まで一貫した見通しをつけることだと思うのです。
後北条氏などの東国大名こそ戦国期権力の典型だとする理解は、戦国期の諸段階と地域的多様性を踏まえた上で統一的時代把握にむかうためには、むしろ有害ではないだろうか。
と著者は主張して、本書では山城国一揆、伊予河野氏、そして大内氏関係の史料をつかって戦国期への変化を説明しようとしています。大内氏の例では、安堵・宛行の主体や軍忠状の宛先が将軍家から大内氏に変化したことなどを材料にして、15世紀中葉を画期に国人を大内氏の「御家人」として編成するような守護の領域支配の進化があったをと論じています。そして、
室町幕府ー守護体制の動揺・解体は、地域ごとに多様な権力形態を生み出した。ある地域では国人一揆体制、別の地域では土豪レベルの地域的一揆体制、そして大内氏分国のごとく守護権力への領主階級の結集が生み出された地域もみられた。
というようにまとめています。

しかしこのあたりは、前半の議論と比較すると受け入れやすいものではありません。荘園制が存続していることを理由に守護領国制論を葬り去り、主に畿内近国や西国での史料をもとに室町幕府ー守護体制を構想するのが本書ですから、戦国時代への移行も畿内近国・西国の状況を取りあげるのが当然なのは分かります。しかし、荘園制の終焉・戦国時代への展望を語るということであれば、東国の大名を典型例として取り上げられる方がふさわしと考える人がいてもおかしくないような気がします。また、本書の主張する室町幕府ー守護体制論自体、東国や九州の状況をうまく説明できないのではとも感じました。そもそも京から遠い辺境地域は政治体制論の対象外とされているのかもしれませんが。

あと、本書の内容とは直接関連しませんが、室町時代の政治制度について素人の私が最も興味を惹かれるのはやはり天皇制がなぜ存続したのかについてです。ただ、専門家からすれば、天皇は室町時代政治史において脇役未満でしかないのでしょう。本書でも、南北朝時代の記述や治罰の綸旨が少し触れられていた程度で、端役としての扱いでした。室町時代の天皇には実態として政治的な意味は全くなく、放っておけば能や華道や茶道の家元のような存在になったはずなのに、戦国・安土桃山・江戸期の大名のせいで政治的な意味を持つようになってしまっただけのことだから、室町時代政治史では天皇制について触れる必要はないというスタンスなのかもしれませんが。ただそうは言っても、現代に生きる素人としては、天皇制存続に関する最大の危機の時代である室町時代についてなんらか言及がほしいところです。今谷明さんの一般向けの著作が素人にうける(講談社学術文庫などに旧作が収録されているのは人気があるからですよね)のは、このへんに答えてくれようとする姿勢があるからでしょう。

2009年4月7日火曜日

つかいにくい新MacBookのトラックパッド


ディスプレイもキーボードもアルミユニボディも素敵な新MacBookですが、トラックパッドもかなり美しい。ボタンの部分も一体となった一枚のガラスでできているそうですが、銀色をしていてガラスには見えません。しかし、周囲のアルミの部分と比較すると触った感じがとてもすべすべしていて、指もスムーズに動かせるのでマルチタッチにも最適なのでしょう。ただ、個人的にはこのトラックパッドが新MacBookの最大の欠点だと思うのです。


トラックパッドはどんな風に使うのが一般的なのでしょうか。新MacBookのユーザーズガイドをみてみると、Appleはこんな風に人差し指と中指で使うことを想定しているようです。でも私の場合は、親指と中指をつかっています。これまでMacBook Proを使うときには、右の小指球を右のパームレストに、右手の親指をトラックパッドのボタンの上に常時置いておいて、そして中指でカーソルを動かしていました。しかし、このやり方を新MacBookの一枚板トラックパッドの上ですると、親指が常時トラックパッドの上にあるものだから、2本指での操作だとシステムが勘違いして、変にスクロールしたり画面が拡大縮小してしまったりするのです。とても不便です。

また、タップでクリックの代わりができるのですが、これも慣れないせいかとてもやりにくい。なので、親指でトラックパッドの手前の部分をクリックするのですが、今までのボタン付きのトラックパッドと違って、クリックするのにかなり力が必要なのです。親指のトレーニングのためにはいいかもしれませんが、頻繁に繰り返す動作だけに、この重さはうっとうしいだけです。
パソコンを新しく使い始めた人にとっては、Apple推奨の人差し指と中指でのトラックパッド操作に慣れてゆけばいいだけの話なので問題はあまりないのでしょう。しかし私の場合、PowerBook540cの頃から親指と薬指でのトラックパッド操作を続けてもう15年以上になります。これまでの操作法になじみすぎていますし、しかもこの新MacBookと並行して自宅ではMacBook Proでボタン付きトラックパッドも使い続けている訳ですから、 Apple御推奨のやり方に変更するのはとてもとても無理な話です。

昔からのAppleのノートパソコンのユーザーの中には、新MacBookのトラックパッドに不満を感じる人が少なくないだろうと想像します。でもそのわりに、Mac系のブログとかでもあまりそういう評判を目にしないのは、まだ実際に使った経験のある人が少ないからなのかな。

2009年4月3日金曜日

西武国分寺線


国分寺で中央線を降りて、西武国分寺線に乗りかえます。国分寺から出ている西武線には国分寺線と多摩湖線の二つがありますが、行き先が似ていて、他の西武線との連絡が複雑で、しかも乗る機会もこれまでなかったので、複雑怪奇な路線とのみ感じていました。通勤に使い始めて二つの違いがやっと分かってきました。

国分寺線は、国分寺を出て恋ヶ窪、鷹の台、小川、そして終点の東村山を10分で結ぶ短い路線です。短い路線なので6両編成で走っています。6両編成はこれまで利用していた南武線も一緒なのですが、驚くべきことに国分寺線は単線なのです。東京に住んでいて、通勤に単線の鉄道を利用するようになるとは思いませんでした。

でも、幸いなことに朝の時間帯でも国分寺発の電車は空いています。空席をちらほら残したまま発車するので、座って行けます。反対方向の国分寺に到着する電車の方がかなり混雑しています。

単線なので、反対方向の電車と途中の駅ですれ違います。国分寺駅は線路が一本しかありませんが、恋ヶ窪、鷹の台、小川、東村山駅の部分は複線になっています。朝の時間帯は、この4つの駅で反対方向の電車とすれ違います。でも、帰りの時間帯は電車の本数が少ないためか、恋ヶ窪と小川の2カ所だけですれ違うようになっています。



で、鷹の台駅のホームの使い方がとても変わっています。鷹の台駅は二つのホームの間に2本の線路がある駅です。朝のラッシュ時間帯にはこんな風に2本の電車がそれぞれ別々のホームを使用します。ところが、朝のラッシュ時間帯以外、すれちがいのない時間帯には、東村山行きの電車も国分寺駅行きの電車も下側(西側)のホームを利用しています。改札口が下側のホームにしかないからこんな風にしているのでしょうね。あと、下側のホームに面した線路を利用すれば、駅の前後のポイントを直進で進めるので乗り心地にも配慮しているのかも知れません。



もう一つ、国分寺線に乗っていて気付いたことがあります。それは、こんな感じの、債務の整理をうたった広告が多いことです。ここには例として2枚紹介してありますが、一つの車両の中にこういう広告が他にもありました。南武線や中央線の中にもサラ金の広告はたくさん掲示されていますが、こういった債務整理の広告を見た記憶はありません。JRにはこういう債務整理の広告を受け付けないような規定があるけれど、西武鉄道はどんな広告でも受け入れているということなのでしょうか。それとももっと別の理由、例えばJRでも山手線と中央線と南武線の車内の広告の雰囲気は全く違いますから、その延長として理解すべきものなのでしょうか。

2009年4月2日木曜日

朝の中央線の上り電車

4月1日から主な勤務地が変わることになり、通勤に中央線を使い始めました。朝の通勤ラッシュ時の中央線上りにはもう十五年以上乗ったことがなかったので、どのくらい混雑しているものなのか、かなり心配でした。

立川駅につくと電光掲示板には7時42分・44分・46分と、2分おきに発車時刻が表示されていて、さすがに朝は本数が多いものと感心。立川は特快の停車する駅なので、追い越しができるように上り線と下り線のホームが別々なのですが、特快のないこの時間帯には、上りホームの両側の線路に交互に電車が入って来るようになっているようです。42分発の電車の扉が閉まると、反対側の線路に次の上り電車が入ってきました。たくさんの電車をさばくために、こんな風にしているんですね。おそらく、前後の電車の間隔が詰まってるからでしょうが、休日に乗るのに比較して電車のスピードがかなり遅いようでした。

車内は混雑していますが、立川から国分寺の間では他人と接触しなくても済む程度。新宿に近づくにつれもっと混雑してゆくのでしょうが、心配していたほどの混み具合ではないので安心しました。まあ、立川駅だともっと早い時刻の方が混むのかもしれません。

2009年4月1日水曜日

近代製糸技術とアジア


清川雪彦著 名古屋大学出版会
2009年2月発行 本体7400円

中国起源の養蚕・製糸業がヨーロッパに伝わり、19世紀には機械を使用した工場で生産されるようになりました。その近代製糸技術がアジアに里帰りしてアジアの国でも使われるようになったわけですが、本書はインド・中国・日本での技術の受け入れ方の違いを論じています。本書で学んだ点をいくつか紹介します。

日本は近代製糸技術を最も巧みに受容しました。同じ軽工業の綿紡績業などと比較しても、ヨーロッパの製糸技術は在来技術との格差がそれほど大きくなかったので、当初は折衷した設備として実地に応用することができました。また、若い女工を寄宿舎に集めて成績別の賃金制度で競争させたり、蚕業に関する学校が多数つくられて教婦(女性のこういう存在は当時としては世界的にも珍しいとのこと)などの現場管理者が養成されるなど、工場の制度面での日本独自の取り組みがみられました。その後も機械の改良と同時に蚕の品種改良や養蚕の技術も洗練されていったことで、19世紀末には日本が生糸の輸出の世界一になりました。レーヨンの発明以降、生糸では高級な製品(ストッキング用の均質な細糸)が需要されるようになりましたが、日本は生産した生糸の輸出向けの比率が中国やインドよりも高かったことから、迅速に対応しました。この結果、大恐慌後に中国の生糸輸出量が激減した際にも、日本産生糸は輸出額が減少したものの輸出量は維持することができたわけです。戦国時代から江戸時代初期に中国から大量の生糸を輸入していた日本ですが、ようやくこの時代に製糸業での中国へのキャッチアップを果たせた訳です。

中国の場合、土着の蚕の繭の品質が良かったので、上海などでは上質で競争力のある生糸を生産していました。しかし、中国の多くの地方では製糸業者が工場の土地・建物を借りて生産にあたる租廠制が一般的で、独自の工夫をこらして工場のレイアウトを変えたりしにくい事情がありました。また、輸出には外商があたっていて、海外との取引の情報が各地の養蚕農家・生糸生産者にまで伝わりにくかったことや、製糸業者が受注制生産をしていたことも、主体的に生産技術を改良し難い一因でした。また、養蚕業においても、桑の所有者と養蚕農家が別々で、養蚕農家は流通している桑の葉を買っていました。分業の高度化のようにも見えますが、桑の木の所有者は上層農家で、価格変動の大きな養蚕を自営するリスクをとりたがらなかったからこうなっていたのだそうです(租廠制と似た事情)。市場で購入する桑の葉を使っていては蚕の成長時期にあわせた適切な給餌など、より綿密な管理への改善がきわめて困難で、日本産生糸に品質で遅れをとるようになっていきました。

インド産生糸の場合、もともと国際競争力がなかったと著者は考えています。このため、フランス・イタリアが微粒子病による大打撃からの回復と、日本・中国の発展によって輸出市場を喪失したのだそうです。インドの蚕の多くが熱帯性の多化蚕で原料繭の品質が不良だったこともその一因です。しかし、1化蚕が用いられているカシミールでも、藩政府・藩営工場による独占的な繭買い上げが養蚕農家のインセンティブの欠如をもたらし、蚕糸業教育がなされなかったことから繭の品質が低い状況でした。また、インドにはごく身近に粗放生産の典型のような野蚕糸市場が存在し、「品質こそが生糸の生命」という意識を形成し難かったことも大きい(ほんとにこんなことあるの??)と著者は記しています。インド産生糸の主な用途はサリーで、現在でも経糸用生糸には中国からの輸入品が使われている程なのだそうです。

結局のところ、中国やインドにはなかった近代製糸技術を受け入れる能力が日本には備わっていたということのようです。一般的に言われていることとですが、開国前から日本はすでに商品経済の真っ只中にあり、商人だけでなく農家も、より有利な農作物や副業の選択を通してより経済的な労働力分配に心がけていた。そんな訳で日本にはその後の製糸業の発展の準備ができていたということになるのでしょう。