2009年3月28日土曜日

高宗・閔妃


木村幹著 ミネルヴァ書房
2007年12月発行 本体3000円

ミネルバ日本評伝銭選として出版されています。日本人ではないけれど、日本と縁の深い人と言うことで選ばれたのでしょうが、本書は高宗を切り口に、朝鮮の19世紀末から保護国となるまでの過程を鮮やかに分析しています。

高宗は王族宗家の血統が絶えたために、分家から宗家に養子に入って国王になりました。高宗の生家は宗家から6代前に分かれた家系で、宗家とはかなり隔たった関係です。日本にも応神天皇5世孫と称して即位した継体天皇がいますが、実態としては継体王朝というべき別系統の新王朝が建てられたとする説も有力なくらいです。それより一代多い6世孫が国王になれたのはなぜなのか、もっと近い血縁の男性がいなかったのか、以前から疑問に思っていました。

また、日本では始祖に近い方が尊ばれるような感覚がありますよね。徳川8代将軍が御三家筆頭の尾張からではなく、紀伊家の吉宗になったのも、神君家康公と世代的に近い、血が濃いからだったと言われています。高宗が国王になった時には父親が現存していました。父親は大院君(大院君というのは一般的な称号で、高宗の父は興宣大院君と呼ぶのが正式なのだそうです)としてその後政治的に活躍することになるわけですが、なぜ血統的には一代近いはずのその父親の方が宗家に養子に入って国王にならなかったのかも、すごく疑問でした。

日本とは違って朝鮮には儒教が実践されていたわけですが、儒教には養子の選び方に厳格なルールがあるのだそうです。まず、養子は養父より下の世代でないとだめなので、 父の大院君の方は国王になれませんでした。また、長男は家の祭祀を行う必要があるので、次男以下でないと養子に出せなかったのだそうです。基本的に宗家は長男が次ぎますから、分家より宗家の方が世代の進み方が早い傾向があります。したがって、宗家の当主より下の世代の男の子が二人いる家系は王族にも他にいなかったので、この家系から高宗が誕生したのだそうです。本書を読んでこの辺の疑問が氷解しました。

こういう基本的なことに加えて、大院君がなぜ力を持ったのか、大院君と閔妃一族の対立などの国内政治についてや、明治時代の朝鮮の複雑な対外関係、特に清・日本・ロシアとの関係が著者の視点でとても分かりやすく解説されています。朝鮮は君主制の国だから当たり前かも知れませんが、本書によると、軍乱やクーデターを経験した高宗は自国の軍隊を信頼できず、自分と自分の一家を守ることを最優先にした高宗の意向が体外関係に大きく影響していたのだとか。

例えば露館播遷ですが、ふつうの日本史の本なんかだと、三国干渉とあわせて、日清戦争後に朝鮮に影響力を及ぼせるはずだったのがロシアに妨害されたように記載されているのだと思います。しかし本書によると、乙未事変で閔妃を殺害されるという経験をした高宗が、安全確保のために自発的にロシア公使館に移動して居座った、ロシア側としても他国からの非難を考慮して高宗が王宮に帰還するのを望んだがなかなか高宗が帰還に同意しなかったのだそうです。

また、ハーグ密使事件は有名ですが、高宗が密書を授けた使者を外国・外国公館に送ることはそれ以前にも度々あったのだそうです。秘密裏に交渉しなければいけないきびしい国際環境下に朝鮮がおかれていたことも確かですし、軍事的にも経済的にも弱体な国だったので、敵対する二勢力を操作することになってしまったということです。

幸い日本は自力で近代経済成長を試みるに足るだけの経済規模を持っていましたが、朝鮮の国家財政・税収が日本に比較してかなり少なかったのは確かです。また、君主が統治しない伝統を持つ日本とは違って、国王が政治的な力を振るうことのある朝鮮では、よほど優秀な能力のある人が国王になり自制心をもって政権を支えるのでなければ、開国・近代化といった課題をこなすことは難しかったようです。植民地を持つことを正当化するわけではありませんが、朝鮮は植民地化しなければ政治的に安定しないと考えた日本人が当時いたことも、理解できないものではないと感じました。

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