2009年2月1日日曜日

産業化と商家経営


中西聡・石井寛治編 名古屋大学出版会
2006年2月発行 本体6600円

江戸時代後期から昭和まで大阪府南部の貝塚で肥料を扱っていた商家・廣海家には大量の帳簿と商売に関する書簡が残されていました。商家とはいっても小さなお店ではなく、当地に貝塚銀行が創設された時には廣海家の当主が頭取に就任したほどですし、貝塚の属する泉南地方では肥料に関しては地域一番店でした。本書は、この廣海家の史料を対象とした研究会の成果をまとめた本です。興味深く感じた点をいくつか紹介します。

廣海家は江戸時代には米穀と肥料を扱う廻船荷受け問屋で、地域の業者に米穀と肥料を販売していました。一般的にこの時期、荷受け問屋の販売形態が北前船からの委託販売で手数料を稼ぐものから自己勘定売買に変化してきたそうです。廣海家では当初から委託販売の形式をとりながら実質は自己勘定売買をしていることが多かったことが明らかにされています。また米穀の取引は利ざやが薄く、維新後は次第に専ら肥料の取引に特化していきました。肥料の仕入れに関しても、江戸時代はもっぱら北前船からの仕入れでしたが、明治期には自店所有船をつかった北海道からの仕入れを試みたり、第一次大戦後には大阪や神戸の肥料商や人造肥料製造業者からの仕入れが主となりました。そして販売先も、江戸時代は小売業者が相手でしたが、最終的には廣海家自身が農家に売ることとなりました。江戸から明治期の流通構造の変化に従って、卸売り業から小売り業への業態変更に成功した訳です。また昭和戦前期には産業組合の出現もありましたが、廣海家は地域一番店の利点を生かして、産業組合に対する肥料の供給も行っていて、対立するようなことはなかったそうです。その後は肥料統制が強まり、肥料販売業は1944年で廃業したそうです。

肥料販売業は明治期には充分な収益を上げていて、廣海家はその利潤を株式に投資しました。企業勃興期には泉南地方でも多くの創業があり、それらへの投資が主でした。廣海家の所有株式は地元企業のものが多く、しかも会社創業時に払い込んでいる地元の株式は、時価で購入した中央企業の株式より利回りが良かったそうです。この点から、本書では廣海家の株式投資を名望家的なものではなく利益を指向したものだったと結論づけています。ただ、これは結果的に廣海家の投資した地元企業がうまくいっただけで、必ずしも創業時からすべての投資企業の成功が約束されていたわけではなかろうとも思うのですが。また、株式の配当は肥料商業部門に投資された訳ではなく、主に株式に再投資されました。一商家の事例ではありますが、日本の産業化・工業化に商家・商業資本の果たした役割を推測させてくれて興味深く感じました。また、戦間期以降は肥料販売業の成績が芳しくなく、株式が廣海家の主な利益源となったそうです。

廣海家が主に扱った肥料はイワシ・ニシン粕という魚肥です。明治期以降は、大豆粕、油粕や人造肥料の取り扱いも増えましたが、魚肥も使われ続けました。窒素肥料として考えると、魚肥の価格当たりの肥効は大豆粕や人造肥料に比較して劣るそうです。泉南地方では、江戸時代には綿・甘蔗、明治期以降はタマネギ・ミカンなどの比較的高価な商品作物が作られていました。このため泉南地方の農民の間では、窒素とリンをバランス良く含んだ魚肥を好む傾向が続いたことが、廣海家の取り扱う肥料の品目に影響を与えたと考えられるそうです。奥が深い。

この本を読むことにしたきっかけは、本書の編者でもある石井寛治さんの産業化と両替商金融
を読んで、石井さんの本ってこんなに面白かったっけと再発見した感があったからです。廣海家史料の中にも手形使用の記録がたくさん残っていて、本書にも手形使用の実例が紹介されていました。

本書のような面白い研究も史料がなければ始まりません。あとがきには、京大教授だった廣海家の当主の方が、文化財としての価値を感じて貝塚市に調査の依頼をされたのが発端のように書かれていました。現在では76026点が一括して貝塚市に寄託されているそうです。中には昭和に入ってからの文書も含まれていて、かなりプライベートに関わる事項もあると思うのですが、公開に踏み切った決断には敬意を表したいですね。

あと、廣海家文書でぐぐると、貝塚市のこのサイトがトップにきます。貝塚市教育委員会が文化財を紹介しているページなのですが、何を考えたのか、水色の地に白い文字で書かれています。読みにくいことこの上ない。ひどい色遣いのページとして一見の価値ありです。

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