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2008年12月30日火曜日

今年の本のベスト3

今年読んだ本ですが、旧刊にも 近世大名家臣団の社会構造 のように面白いものはたくさんありました。
でも年末なので、今年出版された本で私の読んだものの中からベスト3冊をあげるとすると、 以下の三冊になるでしょうか。順不同です。
来年も面白い本と読む時間がたっぷりありますように。

牧民の思想 小川和也著 平凡社選書229 分かりやすく書かれた思想史の本で、材料と料理の仕方に感心しました。

日本に古代はあったのか  井上章一著 角川選書426 世界史との関連を重視して、日本史は中世から始まると考えようという、その発想がとても刺激的

ベルリン終戦日記  山本浩司訳 白水社 敗戦後に自分が受けたレイプのことまでが詳細に淡々と描かれていて驚き

2008年12月29日月曜日

武士はなぜ歌を詠むか


小川 剛生著 角川叢書40
2008年7月発行 本体2600円

鎌倉将軍から戦国大名までというサブタイトルがついています。武士はなぜ歌を詠むのか、文学として歌を詠むということよりも、歌は人とのお付き合いに必要な道具だったということのようです。国文学の方が書いた本ですが、面白く読めました。

第一章の鎌倉幕府の将軍としては、頼朝はじめ源氏の三代についても触れられていますが、主には親王将軍宗尊が扱われています。京から迎えられ、鎌倉の御所で成長し、やがて歌会を頻繁に開いて鎌倉歌壇の主となりました。しかし、得宗一門や得宗に近い人はそのメンバーではなく、京都からの廷臣に加え、武士としては非主流の人たちが集まる場となったそうです。宗尊将軍自身が得宗に対する反逆を考えたことなどなかったのでしょうが、人の集まりの中心になったのは確かで、これが廃立追放の原因だろうとのことです。

第二章は足利尊氏とその周辺の人たちが扱われています。天皇主催の和歌御会に招かれた尊氏は出席を固持したそうです。強いての招きに、自作を懐紙にしたためて進めることはしましたが、出席は一度もしなかったとか。著者は、厳格な故実・約束事のある「公家の世界に立ち入る勇気が無かったとしても不思議ではない」と書いています。なんか、分かるような気がしますね。生まれ・育ちが全く違う人たちに立ち交わるのって気苦労のみ多そう。そうすると、三代目で生まれつき公家との交際のあった義満にしてようやくそれを克服し、公武合体から簒奪なんてことまで考えられる余裕が生まれたということなのでしょう。

第三章は太田道灌と関東の武士が対象。太田道灌は戦いに明け暮れる名将でしかも土着の人ではなく傭兵のような面を持っているとして、三十年戦争で活躍したヴァレンシュタインと著者は比較しています。ただ、悪名を残したヴァレンシュタインとは違って、道灌は歌詠みとしても上手で、歌会などによって関東の国人たちとのつながりを築くとともに、著明な文化人が訪問して来て記録を残してくれたことで、伝説化されました。

第四章は駿河・甲斐・近江などで「田舎わたらい」を20年以上経験した冷泉為和を中心に、今川氏親・義元、武田晴信などの大名当主やその家臣たちが扱われています。歌道師範としての収入や実際の指導、また外交の仲立ちをしたことなど、この第四章は面白いエピソードがたくさんありました。

2008年12月28日日曜日

今年の有馬記念は人出が多い様子

昨日から冬休みに入りました。今日は東京に買い物に行こうと思い、9時ころ家を出ました。立川駅に行く途中、ウインズの前まで来ると、すでに人がたくさん歩いていました。自分が休みに入ったものですから、てっきり競馬ももうおしまいになってるのかと思いましたが、まだやってるんですね。年末だから、有馬記念でしょうか。朝9時頃としてはふだんよりずっと多い人通りでした。午後に通ったときも、11月のG1がたくさんあった頃より、今日は混雑していました。不景気ということもあって、最後に有馬記念で一攫千金と考えた人が多いんでしょうね。

2008年12月27日土曜日

衰退のレギュラシオン


岡本哲史著 新評論
2000年12月発行 本体4700円

チリ経済の開発と衰退化1830ー1914年というサブタイトルがついています。19世紀には1人当たりGDPなどからみて日本よりもはるかに豊かだったチリが、20世紀には開発途上国としての特徴を定着させていったのは何故かという点について、これまでは20世紀の輸入代替工業化の失敗とする議論が多かったのだそうです(たしかに、昨年読んだ ラテンアメリカ経済史もそういう本でした)。それに対して著者は、19世紀の反映時代からすでに、衰退の種がまかれていたのだと本書で論じています。

「チリの長期の経済政策を大雑把に振り返ってみると、『植民地期の重商主義的な保護主義→十九世紀の(限定的な)自由放任主義→両大戦間期以後20世紀70年代までの保護主義的輸入代替化政策→クーデター以後1990年代までの自由化政策』」というように、どの時代の政策もその前の時代の政策の失敗の記憶に支えられていたという点を著者は強調しています。また、経済史の分析にあたっては、新古典派はもちろん、その他の非主流派・異端派経済学的な方法と比較してもレギュラシオン・アプローチが優れているとして、本書は書かれています。

著者の主張する衰退のレギュラシオンの実態は、①銀・小麦・銅・硝石と輸出品の主役は交代しながらも輸出依存経済が続き、海外の景気変動に影響されやすいなど外向的蓄積体制の脆弱さを持っていた、②中間層が少なく、地主オリガルキアなどが力を持ち、しかも支配層は産業化を目指す資本家としてのエトスを持たず、外貨を輸入奢侈品に浪費した、③国家が一貫した工業化政策をとらなかった、④太平洋戦争(日米戦ではなく、チリvs.ペルー・ボリビアの戦争)で獲得し、1880年代以降の輸出の主役となった硝石産業の繁栄の時代は外資に支配されていた、などになるようです。

約一世紀にわたる経済史の分析ですので、500ページ余の本書でも、多少の議論の荒さはやむを得ないのかなと思います。でも、この構図ってそんなに説得的なのでしょうか。例えば、「当時のチリ経済が、今日の開発途上国経済のような深刻な資本不足に悩む国ではなかったという点であろう。むしろ逆に、銀行の貸し出し余力の点からみても、硝石輸出から生じた財政黒字という点からみても、当時のチリには硝石の長期的開発に必要な資本は十分に存在していたといってよい。しかし、問題は、このような資本を借り入れリスク・テイキングな投資を行うだけの野心的な起業者がいなくなったことなのである」と著者は書いています。戦間期の日本が貿易赤字と新たな外債起債に苦心していたことを考えると、だいぶ有利ですよね。

著者は資本家としてのエトスや野心的な起業者の欠如も衰退のレギュラシオンとして論じていますが、これはさらなる分析が可能だと思うのです。まず、日本とチリとでは人口にかなりの差があります。本書では、日本の1880年人口が3665万人、チリの1885年人口が249万人とされています。著者はチリで繊維や造船のような基礎的な産業が育たなかったことや、創業された製鋼業が発展しなかったことなどを問題視していますが、人口の差からくる市場規模を考えると当然なのではないでしょうか。特に日本の場合には、川勝平太氏の主張するように、アジアの太糸圏の中で工業産品としての綿製品を輸出できる好条件があったから綿工業が輸入代替工業化だけにならずに済んだわけですし、また鉄鋼業にしても日本の軍事費の支出が高率であったこととは切り離せないでしょう(チリも太平洋戦争に勝利したのですから南米の国の中では軍事費が多かったのでしょうが)。また、日本の場合にはアヘン戦争の衝撃を受けての開国・新政権樹立という歴史があったので、独立戦争に勝利して一安心というチリとは、政治家・地主・資本家の対外的な警戒心の程度が違っていて、貿易の外商支配・産業鉱業の外資支配を嫌ったのは当然だったでしょう。このての本はどうしても日本のことを考えながら読んでしまうので、日本の方が特殊な条件を備えすぎていたのかなとも感じてしまいます。

この当時のチリ程度の人口規模の国で、産業化に成功して先進国に伍してゆくことがヨーロッパの国以外に可能だったのでしょうか。また、この当時、工業化・GDPの成長といったことが政治の主たる目標として、多くの国で一般的に求められていたものなのでしょうか。本書を読んで、この辺りが気になってしまいました。もし、19世紀チリの政治・経済的動向が一般的なもので、それにも関わらず「衰退」の途を歩まざるを得なかったというのなら、ふつうの国がふつうにしていて衰退してしまうということですから、従属論・システム論を見直す必要があるのだろうと思うのです。

2008年12月26日金曜日

まだ緑のイチョウ

街路樹は大きいので、通りを歩いていると自然と目がゆきます。花が咲いている季節でなければ葉っぱを観察することになります。葉っぱを眺めていてもいろいろと気づくことがあるわけで、先日 葉の寿命の生態学を読んでみたのも、そんな興味からでした。


このイチョウ、少し色褪せ始めてはいますが、まだ葉っぱが緑色をしています。ふつうのイチョウはもうほとんど葉を落とした時期だと思いますが、この通りのイチョウはこんな感じにまだ葉っぱがついています。ここの街路樹は9月はじめにかなり強烈に剪定されました。その後、ふつうなら葉がつきそうにない幹や太い枝の付け根当たりに小さな葉が新生してきました。それらの葉がまだこうして残っているわけです。今日のような寒さの中でも、樹が枯れないように精一杯がんばっているように見えます。


残っている理由として考えられること。まず、①葉が出てからある一定の期間たたないと落葉するメカニズムができていない・働かないというのが想像されます。でもそれより、②来年の春に必要となる量の光合成産物を幹に蓄積した後でないと落葉を可能とするメカニズムが動き出さない、という方がありそうな感じがします。

①が正しそうかどうかは、強く剪定する際に大きめの枝を一本残しておいて、その枝の葉と、剪定後に新生してきた葉の落葉の様子を比較すれば、ある程度分かりそう。②が正しそうかどうかは、幹の貯蔵物質量を測定することが必要かも知れません。

2008年12月22日月曜日

葉の寿命の生態学 個葉から生態系へ


菊沢喜八郎著 共立出版
2005年3月発行 本体3500円

2003年の日本生態学会50周年を記念して刊行されたモノグラフシリーズの一冊なのだそうです。A4で212ページと小さく薄めの本なので、3500円という価格は買うときにかなり高いなと感じました。しかも、文献リストと索引が40ページもあって、本文は170ページほどしかありません。しかし、体裁的にはページの上下と横の余白がかなり狭く、文章がつめこまれています。そして、実際に読んでみると中身の濃さにびっくりします。医学をはじめ自然科学系の雑誌には総説やreview articleが掲載されることが多いと思いますが、この本は170ページの総説をそのまま出版したという印象です。文献リストが長いのも当たり前です。葉の寿命の定義や調査方法、葉の特性や環境条件と寿命の関係、常緑性と落葉性などなどに関する本当に多数の報告が簡潔に紹介されていて、とても勉強になります。

単位面積あたりの葉の重量を示すLMAという指数があって、LMAと葉の寿命には正の相関があります。厚くて丈夫で化学防御物質をたくさん含んでいたりする葉は長持ちするわけですね。逆に、光合成速度と葉の寿命には負の相関があります。葉というものは作られてから時間がたつとともに光合成の効率が低下してゆくものなのだそうです。なので、光などの条件のよいところでは長持ちする、つまり高価なLMAの大きな葉をつけるよりも、粗末な葉を短期間で使い捨てどんどん新しいものに取り換えることの方が有利になるそうです。

黄葉・紅葉について、葉が黄色くなるのは窒素再吸収のためにクロロフィルが分解されて、元からあったカロテノイドの色が目立つようになるからだそうです。それに対してカエデなどの紅葉は、落葉の比較的直前にアントシアニンが生成されることで赤くなるそうです。アントシアニンは強光障害によって生じるフリーラジカルが窒素やリンの移動を阻害して、落葉前の栄養塩類の再吸収を阻害するのを防ぐという説が妥当だろうとされていました。

食害を防ぐためにアルカロイドを含んでいたり丈夫につくられている葉は、落葉してからも分解されにくくて、栄養塩類のリサイクルという点では不利になるのではと以前から思ってました。同じように考える人がいて、近年報告があったそうです。さらに進んで、アルカロイドを含んでいたり丈夫につくられている葉を食害防御を弱めてから落葉させるような適応はないものかとも想像しているのですが、そこまで触れた報告はないようでした。

葉は最終的に落葉するわけですが、個葉の落葉する時期がどのように決定されているかというメカニズムについても知りたいところです。また、葉自体が時分の引退時期を悟って落葉する準備を始めるのか、枝や樹木の他の部分から落葉するように引導を渡されるのかにも、興味があります。

しかし、本書には「一つの木の中に、光のよく当たる(よく稼げる)場所に枝をもっていれば、光のよく当たらない枝から資源を運び込んで光のよく当たる枝の光合成を高めたほうが個体全体としては有利である。ここで資源といっているのは、窒素のような直接光合成に関与する酵素類を作るための元素を考えている。実際こういうことが起こるメカニズムとしては、植物個体がホルモンなどを情報物質として使うことによって、枝の伸長を調節していると考えることが出来る。また、明るい元気な枝と暗い場所の元気のない枝とが資源をめぐって競争した結果このように差が出るのだと解釈したほうがよいかもしれない」という記述があるくらいです。生理学の本ではなく生態学の本だからなのかも知れませんが、この点はちょっと食い足りなく感じました。

2008年12月20日土曜日

室町・戦国時代を読みなおす


中世後期研究会編 思文閣出版
2007年10月発行 本体4600円

14世紀から16世紀の中世後期を対象とした研究について、研究史・現状・課題について論じた本です。南北朝期の公武関係、幕府ー守護体制、戦国大名、織豊政権、在地領主、在地の金融、比較中世都市論、中世後期宗教史などに関する13本の論考が納められています。こういった研究史のreviewの本は読んでて勉強になります。

非専門家の現代人の私が中世に対してもつ最大の疑問の一つは、中世後期で途切れずに天皇制が存続できた理由です。今谷明や網野善彦の著書が一般向けに人気があったのも読みやすく面白いからというだけでなく、今谷さんの義満皇位簒奪計画論や戦国期天皇権威浮上論、網野さんの供御人や職人由緒書と天皇との関連の議論が多くの人の関心を呼んだからでもあるでしょう。でも本書では「論点をとりあげるにあたっては、全てのテーマを網羅的に扱うのではなく、ここ数年でも相次いで出されている研究史整理の論考とは出来るだけ重複しないように」ということで、天皇制存続だけについての論考はありませんでした。政治史に関しては公武関係と伝奏に関する論考が納められていて、今谷さんの著作も触れられてはいますが。

13本の中で一番面白かったのは、早島大祐著の「ものはもどるのか ー中世の融通と徳政ー」です。かつて、徳政の際に土地が戻ることの説明として画期的だったのが勝俣鎮夫説です。土地を「おこす」行為つまり開発行為は、「おこす」と「いき」が同根の言葉であることから分かるように、土地に生命を吹き込むことであり、売られた土地でも徳政によって息を吹き込んでくれた開発者のもとに戻ろうとするのだというのがその骨子だったと思います。早島さんによると、その後の研究でこの勝俣説は否定されてゆくのですが、それではなぜ徳政でものが戻るのかということに対して、納得できる説明がなされてこなかったのだそうです。彼はこの論考で、過去の研究史の整理だけでなく、在地での借金が担保・証文なしの内輪の融通から、質券や売券を書かされての借金へというように金銭融通行為の変遷があり、これが徳政で土地が戻ることと関連したという自説を披露しています。なかなか説得的に感じました。

清水克之著の「習俗論としての社会史」は、「1990年代になって日本中世史の勉強をはじめた私にとって、当時、最新の日本中世史の世界を学ぶということは『社会史』を勉強することだった。それほどまでに、80年代以降の日本中世史研究において社会史研究は一世を風靡していた。というより、当時、社会史は日本中世史という枠組みを超えて、人文科学・社会科学のなかでも最も活気のある〝花形〟の研究テーマのひとつであるように思えた。前後する時期に研究をはじめた方々には想像もつかないかもしれないが、ちょうど初学者だった私にとって日本中世史の勉強とは、そうした百花繚乱の『社会史』から成果や方法論をどう学び取ってゆくか、というものだったのである。しかし、しばらくすると『社会史』という言葉は急速に耳にすることがなくなり、気づけば『社会史は一過性の流行現象』であったとされ、いまや、『社会史は終わった』とされているらしい」という記述で始まっています。

これってかなり私の経験にも重なっていて、感慨深く読みました。1980年代は網野さんをはじめ、社会史関連の面白い本がたくさん出版されていました。私は医学部に入って、80年代後半を街一番の本屋さんにもまともな本があまり置かれてないような、地方のごく小さな都市で過ごしました。そこにもさすがに岩波の本は置いてあって、87年から岩波が出版し始めた全8巻の「日本の社会史」を、ポリクリ中はひまだったこともあって、刊行されるごとに読んだことを想い出します。私がアナール派の著作を読むようになったのも、同じ社会史という言葉のつながりからです。

この清水さんの論考は、アナール派とは独立に戦後歴史学の中に萌芽があったこと、高度成長からバブルの頃の日本の思想状況と「社会史」関係、80年代に中世前期の法制史から始まった習俗論としての社会史がその後に経済史や中世後期にも広がっていった状況、などをうまく解説してくれています。

2008年12月18日木曜日

緑色のねこじゃらし


ふだん使っている踏切のわきにあるねこじゃらしです。夏から秋にかけては緑に生い茂っていましたが、早いものは11月のうちに枯れ始めていたと思います。そして、12月に入ってからは枯れたものがほとんど。それなのに、今週はじめの寒さの後でも、まだ緑色を保っている個体がいくつかあります。踏切待ちしながら観察してみると、緑色を保っているものには小さいという特徴があります。

厳冬期を過ぎても枯れずにいる個体を見かけたことはないので、ねこじゃらし・エノコログサは一年草でしょう。で、一年草が枯れるのって単純に寒くなるからだと思っていました。でも、こんな風に枯れているものと緑のままのものが同じ場所に見られるっていうことは、寒さや霜だけが枯れることの原因ではないようです。

なぜ小さいものは遅くまで緑のまま残っているのかを説明できそうな仮説で思いつくもの。まず、一年草が存続してゆくのに大切なことは、個体が枯れて死んでしまう前に種子をつくることでしょう。だとすると、花から何らかのシグナルが出ていて、枯れる時期を制御している可能性があります。①種子の形成が終わるまで出され続け、種子が成熟すると出されなくなる、枯死しちゃダメというシグナルか、②種子の形成が終了したことによって出され始める枯死してもOKというシグナルのどちらか。まあもしかすると、それ以外のことが原因、例えば③似たように見えても大きいエノコログサと小さいものとでは種が違っていて、種子の成熟や枯れる時期に差があるのかも知れません。

③のように種の違いだったりするとそこで話はおしまいですが、①②のようなシグナル説だとどちらが正しそうか実験することが可能に思えます。晩夏から秋のまだどの個体も枯れていない頃に種子成熟途上の花穂を切り取って枯れてしまうかどうかで①が、また今の時期にまで緑を保っている個体の花穂を切り取って枯れるのかどうかで②が検証できそう。小学生の自由研究にちょうどいいレベルかも。

2008年12月15日月曜日

流通と幕藩権力


吉田伸之編 山川出版社
2004年11月発行 本体4000円

7人の筆者による紬、紙、石灰・蛎殻灰、蜜柑などの流通の状況に関する論考が収められています。史学会シンポジウム叢書と銘打った一冊で、先日読んだ「『人のつながり』の中世」が面白かったので買ってみたのですが、こちらはイマイチでした。内容が悪いと言うわけでは全然ないのですが、史料に則したことだけが論じられていて、その史料が大きな展望の中でどういう意味を持つのか・持たせたいのかが述べられていないのが、つまらなく感じた理由です。非専門家の私にとっては、個々の史料から読み取れる細かい事態そのものより、大きな構造の方が興味あるところなのです。江戸時代は史料も多いので、大風呂敷を広げにくい事情があるのかも知れません。

現代では企業にその利益に応じて法人税が課されていますが、江戸時代には流通業から適正額を算出して税金をとるうまいやり方がなかったので、会所仕法のように特定の商人に特権を与えて見返りに税金を徴収するか、藩自ら専売制をしくような形を試みたのだろうと思っています。会所制にせよ専売制にせよ、それまでなかった規制が流通に加えられるわけですから、生産者や特権に預かれない流通業者からの反発があるのは当たり前で、本書にとりあげられた事例でも会所仕法などの規制はみんなうまくいかなかったようです。

江戸で使う漆喰の原料の石灰(もしかすると「いしばい」と読むのかな)には八王子石灰と野州石灰の二つの産地があり、その代替品として江戸で貝殻を焼いて作られる蛎殻灰も使われていました。当時は蛎殻灰が安さから販売を伸ばしていて、八王子石灰は販売不振だったそうです。八王子石灰は江戸城普請時につかわれ、その関係で幕府に納める御用灰にもなっている由緒正しい石灰なので、利潤を生まなくなっても生産が続けられていたとか。この辺は不思議。

2008年12月10日水曜日

日本人の経済観念


武田晴人著 岩波現代文庫 社会174
2008年11月発行 本体1100円

1999年に単行本として出版されたものを、現代文庫として再出版したものだそうです。日本論というと、一般的には日本のユニークさを強調するものが多いと思います。本書では、日本経済の特徴としてよく挙げられる、企業の永続性を求める考え方、競争と協調、信頼に基づくあいまいな契約、勤勉な日本人像、日本企業の国益思考などが、江戸時代以来のいろいろな史料をもとに検討されています。

先日亡くなった加藤周一の日本文学史序説が主張するように、日本の文化に他とは違った特徴が存在するのは確かだろうと思います。しかし、市場経済が浸透した江戸時代以降の経済観念にそれほど日本特有のものがあるとも思えない気もします。庶民まで経済的な効率を重視するようになっていったわけですから、表面的には独特に見える習慣・慣行・考え方でも、実はきちんと市場経済への適応を果たしていて、外国の経済観念と通底するものが多いでしょう。本書も、比較の対象の外国(特にアメリカ)の方が特殊なんじゃないのとか、歴史的に変遷があるから日本の特徴と言えないでしょなどという風に、どちらかというと「日本は特別」といった主張をたしなめるようなつくりになっているように読めました。

あと、筆者が論拠として取り上げている史料が比較的ユニークで面白く読めました。府中の大国魂神社の毎年一回の市に通って3年越しで鍋一個を買うエピソードなど宮本常一がいくつか引用されていたり、笠谷和比古の主君押込めの構造があったり。また、渡り職人や鉱夫の話などは、引用元の本の方も読んでみたくなりました。でも、入手困難なものが多そうなのが残念。

2008年12月7日日曜日

「人のつながり」の中世


村井章介編 山川出版社
2008年11月 本体4000円

昨年開催された同名のシンポジウムをまとめて出版された本です。8本の論考が収められていますが、村井章介・桜井英治といった有名な人のものよりも、若手の人の書いたものの方がずっと面白く感じられました。特に興味深かったのが2本。

呉座勇一さんの書いた「領主の一揆と被官・下人・百姓」は一揆契状のなかの「人返」規定を扱っています。階級闘争史観の華やかなりし頃、この規定は「他所に移動した従者・百姓を元の主人・領主に返還するという措置であり、長らく『農民の土地への緊縛』を目的としたものと解釈されてき」ました。しかし、研究が進んでどうもそうではないことが分かってきても、それではどう解釈するのかという定説がなかったのだそうです。呉座説によると、国人一揆の中での人返規定は農民を対象としたものではなく、国人配下の被官が勝手に主君を他の国人に変えてしまうことを防ぐためのものだったということです。被官は良い条件を示す国人を主君としたいはずですから、国人同士がカルテルを結んで支配を安定化させていたわけですね。その後、国人が戦国大名にまで進化する頃には被官層への支配は安定するので、戦国大名の出した人返規定は被官が対象ではなく、労働力確保のための百姓の人返を意味するようになっていくそうです。なかなか説得的な論考でした。

佐藤雄基さんの「院政期の挙状と権門裁判 権門の口入と文書の流れ」。中世、荘園内部の紛争の裁判は本所が行っていたのですが、異なった本所に属する勢力間の紛争は幕府や朝廷での裁判に委ねられました。その際に、紛争の当事者からの訴状に添えて、本所が幕府や朝廷に裁判よろしくねと差し出す文書が挙状です。ただ、このように挙状が使われるようになったのは、訴訟制度の確立した鎌倉中期以降のことだそうで、この論考ではそれ以前の挙状の歴史的変遷を対象としています。それによると、九世紀に王臣家が在地の紛争に介入する事態が増え、またそれが寄進地型荘園が広まる機縁ともなったそうです。法制度上は裁判権限を持たない王臣家による介入は、訴状が「事実者」(ことじちたらば)請求の通りにしてほしいという推挙状(挙状)を、本来の権限者に送る形で行われました。この種の口入は、裁判権をもつ機関に圧力をかけらる訳ですから、推挙状といっても実質は裁許状と非常に近しいものと考えることができ、あたかも権門が権限の範囲外を対象に裁判をおこなったかのようにも見えます。しかし、こういう縁を頼っての権門の判断が外側から在地に持ち込まれることによって在地の紛争が解決することは希で、敗訴者が別の縁を求めて別の権門を頼るなど、口入が在地に問題をもたらすことが明らかとなっりました。そのため、鳥羽院政末期〜後白河院政期に立荘がピークを迎えた段階において荘園制を安定化させようとする動きがみられ、権門の口入を自制する本所法が制定されるようになったのだそうです。そして、挙状の最終的な進化の形は、本所から上位の裁判権者に送る文書になったのだそうです。

この二つの論考が、ことじちたるか否かの判定は、専門家ではない私にはできません。ただ、ある制度がどんなものだったかを、時間の変遷とともに変化していることを踏まえて論じる姿勢にとても好感が持てますし、また論証の過程・結論ともに興味深く読めました。

2008年12月6日土曜日

加藤周一の訃報

昨日、加藤周一さんが亡くなったそうです。 これで、戦後を感じさせる進歩的文化人では、あと鶴見俊輔が残るくらいになってしまいました。私は彼らが精力的に活躍し影響力を持っていた時代よりかなり後に大人になった世代ですが、それでも「戦後は遠くなりにけり」と感じてしまいます。

彼の作品の中では、日本文学史序説がほんとに面白いのでおすすめです。タイトルに序説とついていますが、他の著者の本にもXXXX序説というのがいくつもあるので、恐らくこの評論が書かれた頃には序説と銘打つのが流行だったのでしょう。で、実際の内容は序説と言うには広範な、万葉集から戦後文学までの日本の文学、それに加えて日本文化全般に関する評論になっています。

この中で彼は日本文化の特質をいくつか指摘しています。抽象的な思考が苦手で独自のものを生み出すことはほとんどなく、輸入の抽象思考、たとえば仏教などもやがては世俗化されてしまったこと。新旧交代ではなく、旧い形式と並行して、新しい形式が付け加わって行くこと。全体の統一より、細かい部分に遊びを見いだし、細部にこだわること。集団の内外の区別の鋭い意識を共有する仲間の集まりが存在したことなどなど。こういう特徴は、現在の日本のガラパゴス的進化を遂げていると言われるケータイ電話機の仕様・性能や、アニメ、コミケ。2chなどにも充分当てはまるような気がします。

彼は89歳で亡くなったそうですが、つい最近まで朝日新聞に夕陽妄語というタイトルの文章を月に一回、連載していました。仕事柄、高齢者と接することは多いのですが、この年齢の男性でしっかりしている人って女性と違ってとても少ない印象です。90歳近くまで知的能力をあまり低下させずに過ごせたのは、なぜだったねしょうか、興味があるところです。

2008年12月4日木曜日

Addison病と陽だまりの樹

訪問診療の患者さんで、食思不振・嘔気を訴える方がいました。H2ブロッカーなどをつかっても改善せずにいたところ、偶然に骨折を合併して入院となりました。退院後、久しぶりに往診してみるとお顔の色がかなり濃くなっていることに気づきました。陽の当たる病室だったので日焼けしたとおっしゃるのですが、舌にもウシのような地図状の色素沈着があるのを発見し、陽だまりの樹を想い出しました。

陽だまりの樹は手塚治虫の幕末を扱ったマンガで、一読をおすすめしたい傑作です。彼の曾祖父の手塚良庵が狂言回しの役どころで登場しますが、駆け出しの蘭方医でもある良庵は、漢方医の妨害を受けながらも父の良仙とともに種痘所の創設にも尽力します。

当時の将軍は13代家定で、私は観ていませんが、NHKドラマの篤姫にも登場しているのでしょう。彼は非常に病弱だったそうで、陽だまりの樹では奥医師が診察する場面があり、口腔粘膜に複数の黒子のような色素沈着があるように描かれています。オランダ渡りの新しい内科書には口腔粘膜の色素沈着を来す疾患としてAddison病が記載されていることになっているのですが、漢方の奥医師たちにはこの所見の意味が不明で、治療も奏功せず家定はやがて亡くなってしまうのです。

この家定Addison病説は漢方に対する蘭方医の優位を示すために手塚治虫がこしらえたフィクションでしょう。Addisonさんが最初に報告したのが1855年なので、当時の最新の病気ということで手塚治虫はこの疾患を登場させることにしたのかも知れません。

ともあれ、このエピソードは当時はまだ学生だった私に内科学の教科書よりずっと深い印象を残したのでした。で、前述の患者さんですがACTHを調べてみると4桁の異常高値で副腎不全でした。しかし、高K血症などの生化学検査にの異常がまったくなく、入院中には診断にはいたらなかったようです。

ここ数年、医療をとりあげたマンガ・ドラマなど増えてきていますが、それらもいつかこんな風に誰かの役に立つことがあるのかも知れません。

2008年12月3日水曜日

南武線の新駅

南武線の谷保と分倍河原の間に西府駅という新しい駅が建設中です。3年以上前から建設が続いていたと思いますが、今年度中に開設の予定だそうで、昨日通過した際に電車の中から見るとエスカレータやエレベータの設置も終わっていて、まだ看板類はありませんでしたが、駅の施設は完成に近いようです。大きなビルなんかと違って、駅の施設は屋根とプラットホームと跨線橋と駅前広場くらいしかないので、もっと短い期間で建設できてもおかしくないような気がするのですが、JRや府中市の予算の関係で単年度に使える資金に限りがあるから複数年かけて完成するものなんでしょうか。

駅自体は複線の線路の両側に上り用と下り用の別々のプラットホームがあって、それを跨線橋がつないでいる、谷保駅なんかと同じようなタイプです。おそらく、跨線橋の上に券売機や改札や事務所なんかがあるのでしょう。こういう、両側にプラットホームがあって改札が一つしかないタイプの駅では、2つのプラットホームと改札口をつなぐ手段が必要ですが、JRの場合には跨線橋が設置されていることが多いと思うのです。でも、この地域の南武線は高架ではなく地上を走っているので、跨線橋ではなく地下道でつなぐ方がいいのではと感じます。

というのも、跨線橋だと電車の架線を越えるだけの高さになってしまいますが、地下道にすれば人間の背丈に見合った深さを掘るだけでいいから、階段の上り下りが少なくて済みそうに思えるからです。新宿など大きなターミナル駅だと地下連絡通路も天井がそれなりに高いので深くなってるように思えますが、乗降客の少ない駅ならそれほど深くせず階段を短めに出来そうな。

エレベータ・エスカレータは設置されていても全員が利用するわけではないと思うので、バリアフリー的にも階段が短いことって重要です。営業運転中の線路の下に地下道を掘るのが困難なのかとも一瞬思ったのですが、この西府新駅から少し離れた線路の下に連絡地下道が新設されていたので、そういう問題ではないようです。メンテナンスの費用とかが問題なんでしょうかね。