2016年2月27日土曜日

ジュンク堂立川店とオリオン書房ノルテ店

きのうオープンしたばかりのジュンク堂立川店のある立川高島屋は、これまでこの地域での一番大きな書店だったオリオン書房ノルテ店とはモノレールをはさんで向かい側に位置しています。まさに殴り込みといった感じなのですが、フロア面積もそれほど極端には違わないこの2つのお店は今後どうなってゆくのでしょう。

オリオン書房ノルテ店がいつ開業したのかはっきり憶えてはいませんが、開店当初の棚の様子は憶えています。とはいってもよく憶えているのは日本史の棚だけなのですが、ボール紙製の箱に入った専門書がたーくさん陳列してありました。それも、一般的にも有名な出版社のものではなく、この分野でのみ有名な出版社(たとえば校倉書房さんとか)の、そんな本をローカルなマーケットを相手にするこの規模の書店に並べても買う人はいないんじゃないだろうかというものばかり。各分野の棚づくりのベテランが不足しているかまったくいない状況で、オリオン書房はじまって以来の大きな書店をオープンしなければならない、それでもいちおうは隙間なく本をならべておかなければならないといった苦しい状況がにじみ出るような棚づくりでした。その後数年が経過し、ノルテ店の品揃えは徐々に向上してきています。おかげで、私も東京方面にまで本を買い出しに行く頻度がかなり減りました。かなり助かってはいたのですが、ノルテ店の棚が魅力的だったかと問われると素直に「はい」とはこたえにくかったのも確かで、まだまだ発展途上にあったというのが妥当なところでしょう。

それでもそのまま順調に発展して行ってくれればよかったのですが、ここ1-2年オリオン書房さんの店作りには気がかりな点が散見されました。まずはTポイントカードの導入。そして、駅ビルにあるルミネ店は改装を機に本屋さんから本以外も手広く扱うお店に変身しています。おかげで私にとっては買いたくなるような本のほとんど置かれていない、訪れる意味のないお店になってしまいました。また旗艦であるノルテ店にも喫茶コーナーができたりして、本の展示スペースは減らされました。書店の経営が難しくなってきていて、本以外の商品・サービスの提供で稼がなければといった事情があることもわかるし、ルミネ店がその流れで改装されたのは理解できるのですが、在庫されている本の数の多いことをウリにしなければならないはずの地域一番店ノルテ店さんまでこれでは困るなと思っていたのも確かです。 Tポイントカードの個人情報管理の問題や武雄市立図書館の問題など、良くない噂の多いCCCのアドバイスで今後どんどんこの方向に進むことを危惧していました。

ちょうどそのタイミングでのジュンク堂立川店さんの開店。池袋店なんかよりはずっと売り場面積が狭いはずですが、20世紀に出版された専門書も多く陳列しなければならない旗艦池袋店の棚の停滞感と比較すると、郊外都市の書店であることを割り切って軽快な棚を展開した立川店は魅力ある品揃えに成功したと感じます。というわけで、私個人としては今後ノルテ店さんを利用することがほとんどなくなりそうです。

でも私のような活字中毒ともいうべき本好きは数が少なく、世の中にはたまに本を買いに書店に立ち寄るという人の方がずーっとたくさんいるわけです。例えば、昔とは違ってレジに本を持って行くと、カバーを掛けるかどうか尋ねられます。出版社がその本用にあつらえたカバーでさえ読むのには邪魔だと感じる私ですから、 書店さんのカバーはお断りしています。また邪魔なだけではありません。カバーの紙も1枚なら大したことはありませんが、数千冊分数千枚が集まるとかなりの体積と重量になります。その体積を節約すれば本棚に余計に何冊か収納できるでしょうし、また本の重さに床が耐えられるのかどうか常々不安に感じている身としては書店カバーの重量は有害無益としか思えません。でも、レジで周囲を眺めるとカバーを希望する人の方が圧倒的に多いのはたしかです。そういった多数派を対象に、本といっしょにそれ以外の商品・サービスも利用してもらおうというオリオン書房さんの選んだ方向も、ジュンク堂立川店さんと正面衝突しないという意味では賢いやり方(ジュンク堂がやって来ることを承知していたのかな?)なのではと感じます。


先日来、取次の自主廃業やそれに連鎖した多数の書店の報道があり、またきのうにはその取次の自主廃業のきっかけとなった高田馬場の芳林堂の倒産が報道されました。本に関係する業界にとって厳しい時代ではありますが、立川の大型書店2つが共存してゆくことを願っています。

2016年2月26日金曜日

ジュンク堂立川店オープン

立川高島屋の6階にジュンク堂書店がオープンしました。IKEAやららぽーとやドンキホーテができても行ってみたいという気にはならなかった私ですが、本好きな人間にとってジュンク堂はやはり気になるお店であり、さっそく行ってきました。お店に着いたのは昼前頃だったのですが、思ったより混んでいました。開店日はきのうだとばかり思いこんでいたのですが、実は今日がオープンで人出が多かいのは当たり前でした。でも、買い物に来たのではなさそうな、背広を着て話し込んでいる人も多数。ちょっと邪魔な印象も受けましたが、出版社の営業の人たちが オープン初日にお祝いにやってきたのならこちらも当然ですね。

ジュンク堂は池袋と新宿店しか知りませんが、立川店の店内の様子は、池袋とは全く違います。フロア3つもあった新宿店よりはだいぶ狭いはずですが、並べられているモノとしての本棚など、今はなき新宿店に似た雰囲気です。また、商品のラインナップの方も、なんとかオープン初日に間に合わせたといった感じは全くなく、(少なくとも私が興味を持っている歴史や人文書の棚は)かなり充実していました。

例えば、今日は3冊ほど買いましたが、そのうちの1冊は昨年11月発行の平凡社の本で、これまで立川の地域一番店だったオリオン書房ノルテ店ではついぞみかけなかったものです(もしかするとすぐに売れてしまって目につかなかったのかも。ただ、私があまり売れ筋そうでない1冊しか置かれていない新刊書を買っても、ノルテ店さんはわりとすぐに補充していることが多いから、最初からなかった可能性も否定はできません)。また1冊は昨年夏発行の高志書院の本で、これは昨年後半に複数回ジュンク堂の池袋店に行った時にもみあたらなかった本でした。どちらもAmazonさんに頼らずに買うことができて良かったと思っています(洋書なら迷わずAmazonさんにオーダーするのですが、和書の場合はなるべくリアルの本屋さんで買うようこころがけています)。


今日はお会計も混んでいました。レジの人は本当の新人さんみたいで、手が震えていたくらい。早く慣れるといいですね。またオープン初日と言うことで、購入者にはなにやら記念品を配っていました。でも、こういうのって本当に粗品で使いようがないことが多く、ゴミ屋敷の原因となるばかり。リアルの書店の経営が難しい時期ですから、こういう無駄な経費は節減して、充実した棚つくりに努めてもらいたいものです。ともあれ、品揃えにはかなり満足できたので、本を買いにわざわざ東京や池袋まで足を伸ばす機会はさらにぐっと減りそうです。

2013年6月20日木曜日

「謎解き判大納言絵巻」と「吉備大臣入唐絵巻の謎」


黒田日出男さんの「謎解き判大納言絵巻」と「吉備大臣入唐絵巻の謎」の2冊を続けて読みました。前者は2002年、後者は2005年発行と、もう10年も前の本ですが、近所の本屋さんで売られていました。残念なことに2冊とも小口を研磨された状態でした。小口を研磨された本を買うくらいなら、amazonさんで中古を買った方がましだと考える人もいるかもしれません。でも出版された当時に買わなかった自分の不明を反省する意味もあるし、また営業不振になって店を畳まれたりしても困るので店頭に現物がある本はなるべく近所の本屋さんを利用するようにしています。

2冊とも丁寧に鑑賞・研究史をたどり、2つの絵巻のどちらにも詞書と対応しないように見える絵が存在している(=謎)ことを指摘します。絵巻というものは大人のための絵本のようなものでしょう。しかもこの2つの絵巻は偉い人(後白河法皇らしい)の委嘱で作成されたものですから、その偉い人が謎解きを主眼にした作品を注文したのでもない限り、委嘱者やその取り巻きの人たちが楽しく無理なく鑑賞できるように描かれたはずです。それなのになぜ「謎」の絵が存在するのか、従来の研究ではその点が充分に説明されていませんでした。

著者は2つの絵巻をモノとしてしっかり観察し、両者に錯簡と、それを証す補筆のあることを指摘します。錯簡を正してみると「謎」だった絵とその近くの詞書がしっかり対応するようになり、理解できるというのがこの2冊での著者の主張で、とても説得的だと感じました。また黒田さんのストーリーテラーとしての才能はこの2書にも発揮されていて、とても面白い本でもあります。

でも読み終えたあとになんの疑問も感じなかったかというとそうではありません。著者の説明で「謎」自体ははたしかに解消しそうですが、その背後にある錯簡と補筆については新たな疑問が生じます。例えば、800年も前につくられた絵巻ですから、紙と紙の貼り合わせ部が剥がれてしまっても不思議はありません。でも錯簡が生じるということは、巻物を開いた時に同時に2カ所以上の剥がれた箇所が発見され、その補修の際に誤って接合したということになります。巻物だからいったん剥がれても、剥がれた紙どうしの関係を見失いにくいような気がしますがどうなんでしょう。

また補筆しているということは、紙面をじっくり観察し、補修で接合した紙同士の並び方に整合性がないことを認識し、それを糊塗するため実施したに違いありません。すると、錯簡を生じた補修の行われた時期と、補筆の行われた時期とはかなり離れていたとしないとおかしなことになります。でも錯簡を正すのではなく、補筆で辻褄を合わせるという選択がされたのはなぜなんでしょう?

錯簡が生じ、補筆が行われたのはいつ頃のことだったのでしょう?宝物として大切に保管されてきた絵巻も、作成されてから長い年月が経過し、数ヶ月とか数年に一回しか鑑賞されなくなったが故に、所有・管理者も補修にあたる技術者も、絵と詞書を正しく対応させることができなくなった。作成されてからそのくらい長い時間の経過した頃に補修(=錯簡の出現)が行われ、さらに長い時間が経過して補筆が行われたということなのでしょうか?こういったあたり、この2冊ではまったく触れられていません。この2冊が出版されてから10年ですから、新たな研究が発表されているのかも知れませんが。

2013年3月21日木曜日

近代中国研究入門


岡本隆司・吉澤誠一郎編
東京大学出版会
2012年8月31日初版

憶い出してみると、先日読んだ中国経済史入門をはじめ、海域アジア史研究入門、日本経済史研究入門など、~入門というタイトルのつけられた本をかなり多数読んでいることに気付きます。ほかにも、古典籍研究ガイダンス、日本植民地研究の現状と課題のように「入門」という言葉がつけられていない入門書もあるので、これらも含めると年に数冊は入門書を読んでいる勘定になります。きっと多い方ですよね。では、こんなふうに私が入門書を読む理由はなにかというと、それらの本が対象としている学問分野について、主なテーマや現状・研究史などについて学びたいからです。本来ならそういった知識は大学で学んで得るべきものなのでしょうが、私は学生ではなく、またこれから学生になる予定もないので、とりあえず本で代用しています。

多くの入門書は、一般人ではなく少なくとも学生、どちらかというと院生以上を対象にしているようで、その分野の主要テーマごとに研究史と現状をまとめ、テーマの選択についてアドバイスし、研究に必要な機器、情報の探し方・在処などを紹介する内容になっています。本書もその例に漏れないわけですが、それに加えて本書には研究者の卵に研究の心構えを説くという色彩が、類書と比較してかなりつよく出ていました。もちろん研究史の紹介もされているのですが、紹介することが目的というよりも、心構えを語る材料として提示されているように感じたのです。おそらく、各章の執筆者たちには、若手の研究者や自分の指導した院生に対する不満・危機感がかなりあり、そういった若手の腐った状況を改善したいがために本書を編んだということなのだと思います。もちろん具体的な個人名は書かれていませんが、ある特定の顔を思い浮かべながら「近頃の若いものは...」とつぶやきながら書いたのではなかろうかといった記載も見受けられました。

各学問分野で~入門といった学生・院生を対象にしたマニュアル的入門書が続々出版されつつあるという事実は、本書ほどはっきり述べてはいなくとも、「近頃の若いものは...」現象が高等教育・研究機関に蔓延していることの現れなのだと感じます。きっとその背景には、国立大学法人化、研究費の獲得の仕組みの変化、少子高齢化による学生数の減少などなどがあるのでしょう。本書に書かれている主張は至極当然なものばかりですから、本書を読んだ若手が襟を正し、執筆者たちの求めるような真っ当な研究者として一本立ちしていってくれることを私も期待します。しかし、たとえそういった執筆者たちの意図が実現しなかったとしても、数十年後には本書が出版されたことそれ自体が、21世紀初頭の日本の研究者の世界の大きな変化とそれに対する研究者たちの反応をビビッドに物語る史料として珍重されるようになることでしょう。

2013年3月7日木曜日

中国経済史入門


久保亨編
東京大学出版会
2012年9月20日 初版

中国経済史入門というタイトルがつけられていますが、実質は中国近代経済史入門でした。第1部アウトラインと研究案内では、中国近代経済史が18の領域に分けられ、各領域ごとに一章ずつがあてられ、研究史の整理と、その分野の代表的な論文・著書が紹介されています。かつての見方とは違って、戦間期に至る中国経済の成長が著しかったことがどの章でも強調されている印象をもちました。歴史にifはありませんが、日中戦争、国共内戦、大躍進などの障害がなければ、軽工業品の輸出市場で中国が日本の強力なライバルとなっていたかもしれず、そうであれば日本も決してあれほど順調な経済成長を遂げられなかったかもしれません。

ほとんどの章の執筆者は、担当した領域の研究史を上手にまとめ、メリハリあるストーリー展開とともに語ってくれています。特に総論や、第2章農畜産物貿易史、第7章在来綿業史、第9章その他の産業・企業史はとても興味深く読めました。でも例外もあります。ひとつは第18章中国における近現代経済史研究で、これは中国の人の作品の日本語訳ですから、もともとの執筆方針が他の章とは違っていて、それが違和感をもたらしていたとしても不思議はありません。もう一つは第8章農村経済史。こちらは日本人が書いているので編集方針を理解できていないということはないはずですが、山田盛太郎級のごつごつした悪文でとても読みにくく感じました。私は素人なので、第8章の執筆者の研究者としての業績などについては知りませんが、入門書にこういう文章を書いていて平気なようでは教育・指導者としては失格なんじゃないでしょうか。その他の章ではあらためて気付かされた点が少なくなく、いくつか例をあげてみます。
1920年代前半、日本の鶏卵消費の約3分の1を中国産が占めたとされる(第2章 農畜産物貿易史)
農畜産物の貿易というと茶、生糸、大豆三品くらいは頭に浮かぶのですが、鶏卵がかなりの規模で貿易されていたとは知りませんでした。しかも冷凍卵なんてものがこの時代にすでに商品化されていて、ヨーロッパにまで輸出されていたとは。日本ではこの後、三井物産や農業団体の努力で、国内の鶏卵消費を国産品でまかなえるようになったということなので、生産費の問題ではなく、洋食の普及のスピードに日本国内の養鶏業の拡張が間に合わなかっただけなのかもしれません。
1890年代以降、世界貿易は全般的に拡大期に入り、中国はこの時期に輸出を急増させながら、その内容構成を多角化させていった。中国と日本では19世紀中葉の開港が与えた影響にかなりの違いがあり、中国は1890年代まで基本的に貿易無反応型に近かった。この違いを説明する上で見逃せないのが市場構造の問題である。領主制商品流通と交錯しながら展開する日本の農民的商品経済と比べて、中国の市場は求心性に乏しい重層的な構造であったと考えられ、1890年代からの茶や生糸といった特定の素材ではない農産物一般の需要増こそが開港場への輸出吸引を引きおこし、はじめて中国の小農経済を世界市場に連結させることになった。中国にとって1890年代は実質上の開港であった(第2章 農畜産物貿易史)
日本と中国の開港後の貿易の様子に違いが存在したこと、またそこから両者の経済構造の違いを導くことは、常識的なんでしょうか?これ、とても魅力的な説だけに気になりました。貿易無反応型というのは、外国からの輸入に対応するだけで、積極的に輸出市場を開拓することがないという意味でしょうか。だとすると、中国は1890年代まで基本的に貿易無反応型とありますが、アヘンなんかはかなり早くから国産品が増えていたと思います。そういった例外はあるが、「基本的に」無反応型だったということなんでしょうか。また先日読んだ「海の近代中国」の306ページに厦門からオランダ領東インドから廈門への輸入品のひとつとしてツバメの巣や油粕、牛革、籐とならんで牛骨が挙げられていました。このうち、解説されなくとも用途の分かる油粕については肥料であると説明があるのに、牛骨が何に使われたのかは言及がなく、とても不思議に感じていました。本書32ページには骨粉にしたらしいことが書かれていて、肥料としてつかわれたことが分かりすっきりしました。でも、牛骨って、腱が付着して骨髄を含んだ骨そのままで輸入されたんでしょうか?東南アジアから何日もかけて船で輸送したら、腐ってしまって臭気がひどいだろうと、今度はそっちが気になってしまいます。
上海華界および江蘇各地の発電所は小資本かつ経営不安定なものが大半を占めた。よって紡績・製粉工場の公共租界集中現象は必然であった・エネルギーの需要と供給をめぐって、外国資本と土着資本の間には生産力構造内部における「共生」が確認され、外資の電力は民族系企業(特に近代部門)の発展を支えていたのである(第9章 その他の産業・企業史)
という指摘も目から鱗でした。在華紡が租界に立地したのも単に日本政府の保護を受けやすいからというだけではなく、こういったインフラ条件も考慮してのものだったということなのですね。

第11章財政史には、中国の国家財政がその経済規模と比較すると小さかったことが述べられていました。清朝の統治期、中央政府派遣の官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段をとらざるを得なかったそうですが、国家財政の小ささとこれは関連があったのでしょう。また政府の支配が社会の中でどの程度強力に貫徹していたのかについての客観的な指標を見いだすことはなかなか困難ですが、この財政と経済規模の比はその代用指標ともなりうるものだと思います。清朝の数値は江戸時代の幕府の数値よりも低いというのを他の本で読んだことがありますが、できれば同時期のアジア・ヨーロッパの国々との比較を知りたいものです。
筆者の問題関心とはすなわち、日本が満州に構築した戦時動員体制が、中国共産党の内戦発動および内戦勝利・権力樹立を可能とさせた重要要因であったのではないかということである(第13章 戦時満洲と戦後東北の経済史)
という記述。これってとても当たり前のことのように思っていましたが、未解決なんでしょうか。また、この点に関しては経済史的な裏付けの有無にかかわらず、当時の中国共産党の指導者がどう認識していたかを同時代資料や聞き取り・回想録などで明らかにすればいいだけのような気もします。
現在の中国政府は、広大な国土の経済を把握するために、統計部門に10万人の職員を抱えている。それでも「中国の統計は信頼できない」という声は後を経たない。しかし、今から100年前、中国海関(税関)を調査した日本人は、そこで作成されている貿易統計をみて、「それが信頼できることは誰もが認めている。何事にも秘密・隠匿を得意とする中国では、希有のことだ」と感嘆を込めて賞賛している(第17章 海関統計に基づく貿易史)
とあります。執筆者のいうように、中国の現在の統計数字は粉飾されているともっぱらの評判です。いまから数十年後には、現在の中国の統計数字を対象に、粉飾の実態を明らかにしようとする研究が行われることでしょう。そう考えると、海関の統計資料は別として、それ以外の過去の統計数値を対象に、どの程度信頼できるのか、また粉飾の痕を見出すような研究がされていて当然な気もします。その種の研究はないのでしょうか。
地域経済研究の実証密度があがればあがるほど、どの地域であれ、都市から農村に至るまで、市場の変貌は国際貿易が契機となっていた点があらためて確認されている。
とあります。「西洋の衝撃」論は否定さるべきものなのかもしれませんが、日本にしろ清朝中国にしろ、ヨーロッパが中心となった世界市場・近代世界システムに組み込まれることなしに、自律的に桎梏から抜け出して経済成長を開始することなど、すくなくともあの年代にはまだ無理だったに違いないと私は思っています。アジア間交易の重要性はもっともですが、アジア間交易が活発に行えるようになったのも、アジアをも含んだ世界市場に嫌々ながらも組み込まれていったからですよね。

2013年2月28日木曜日

海の近代中国


村上衛著
名古屋大学出版会
2013年2月15日 初版第1刷発行

海の近代中国というタイトルはすこし大風呂敷過ぎる印象ですが、福建人の活動とイギリス・清朝というサブタイトルが本書の内容をよく表しています。イギリス領事の報告を主に、中国の官僚の作成した文書やその他の史料もつかって、廈門を中心とした地域の興味深いできごとがさまざま紹介されています。そして、それをもとにこの時期の中国の特徴がわかりやすく説明・解明されていました。

素人目には強力な中央集権国家にみえる清朝も地方支配の実態はかなりルーズでした。官僚に直接地域を支配する能力はなく、地域の有力者や有力な商人・団体に統制・徴税させる代わりに、利権・特権をみとめる手段がとられていました。アヘン貿易が銀流出の原因であると判断した清朝は取り締まりを試みましたが、牙行に依存する貿易管理体制では課税不可能な禁制品であるアヘンの貿易にうまく対応できません。禁止を前面に打ち出すと取引は零細化して地下に潜り、かえって把握が困難になってしまいます。こういった状況を打開するための強硬手段が引き起こしたアヘン戦争での、夷敵に対する敗北は衝撃的だったはずですが、
当時の知識人が戦中から戦後にかけて、アヘン戦争を意図的に過小評価するようになった可能性がある
のだそうです。 中国の当時の知識人たちも一人一人は人間ですから、心理学的な意味での防衛機制が働いたのでしょうか。知識人に及ぼした衝撃という意味では、かえって日本の方が強かったのかもしれません。
清朝側はイギリス軍の艦船と大砲の能力は認識していたが、陸上における戦闘能力を認めていなかったため、陸戦における敗戦の原因をイギリスの軍事力以外に求めなければならなかった。ここに「漢奸の活躍」が始まる
19世紀中葉、イギリスをはじめとする欧米諸国とその人々を利用しつつ、秩序の再編が進められた。その際に導入された制度は自由な空間を狭め、人を特定の枠の中に押し込めていき、開港場体制はそのために機能した。
清朝は、いわばイギリス海軍を「招撫」することによって中国人海賊を招撫するよりも軽い財政負担で確実に沿岸秩序を回復したといえる
敗戦の責めを負うべき沿海の大官たちが漢奸を「発見」し、責任を逃れる。しかも、条約港に領事館が置かれイギリス軍艦が常駐するようになったことを奇貨として、華南沿岸の秩序回復、ひいては徴税に利用する、その手際には感心させられました。 福建省沿岸では海賊が横行し、また廈門では苦力貿易が盛んでしたが、こういった手法により抑えられ、福建省からはさらに多くの人が東南アジアへ移民することになったそうです。

移民先の東南アジアでイギリス植民地籍を獲得した華人、また生まれながらにイギリス籍を持つイギリス植民地出生の華人の中には、商用や故郷の訪問・滞在目的で中国に戻る人が少なくありませんでした。条約上、外国人には内地旅行や土地獲得などの制限がありましたが、これらの華人は中国人として振る舞い制約を逃れていました。しかし、ひとたびトラブルが起きると、イギリス籍であることを理由にイギリス領事の保護を求めました。領事館も手を焼き、人身だけは保護しても財産は保護してくれなかったとか。そういったわけで、魅力の無いイギリス籍ではなく、台湾籍を選択する人が出現することになったのだそうです。

本書を読んでみて、アヘン戦争により開港を勝ち取ったイギリスが万々歳だったわけではなく、清朝の能力・体質にかなり閉口させられていたこと、またアヘン戦争の衝撃が開始点ではなかったものの、この地域に変化をもたらしたことがよく分かった気がします。そういう点で、とても勉強になった本でした。ただ、疑問に感じた点がなかったわけではなく、特に廈門の経済面に関する記述がそうです。

この期間の廈門港の商品輸入はおおむね横ばいでしたが、輸出に関しては大きく減少しました。それにはいくつか理由があるそうです。もともと廈門の後背地は広くはありません。また廈門界隈の小さな港でおこなわれていたアヘンの非正規な取引がアヘン戦争後はより大きな港に集約されました。また廈門の主力輸出品だった茶は、土地がやせていたこと、混雑物が多いなど低質な商品だったこと、台湾での生産が伸びたことから、競争力を失いました。砂糖もジャワ産などには勝てず、機械制製糖場を導入しようとする試みも地元での反対に遭いました。廈門が中心だった台湾との中継貿易も、日清戦争により失われました。

このうち、台湾が日本領になったことなどは理由として理解しやすいのですが、その他、たとえば茶の輸出が振るわなくなった理由などについては不思議です。以前は盛んだった茶の移出・輸出がこの時期に振るわなくなった理由が低品質なのだとしたら、品質が低下したのもこの時期のことだったんでしょうか?もしそうならなぜ?また、他の産地と違って福建だけが品質の低下を来していたのだとしたらなぜ?また砂糖も、競争に勝てず移出・輸出が減ってしまったのだとしたら、生産地での加工が原則であるサトウキビの栽培もきっと大幅に減少したことでしょう。減ったサトウキビの代わりとして農民はその農地で何を生産したんでしょうか?輸出向けでない農作物?東南アジアへの移民が多くなったからといって、耕作する農民の数が足りなくなったなんてことはなかったでしょう、きっと。それとも、東南アジアの華人からの仕送りで、移民を送り出した地域では働かずに食べていけたんでしょうか?

この時期の中国の「商人間の取引は常に零細化する傾向」があって「零細な経済活動を秩序化する仲介者」の存在があったことが記されています。こういった「傾向」をもつ地域に、アヘンの取り締まりのような仲介者の立場を掘り崩すようなことがなされると、秩序が不安定化してしまうわけです。また、零細であるがために資本の集積には向かず、資本主義化には不利だったのだとか。しかしこれは「なぜ中国は18世紀には経済成長し、19世紀に危機に至り、20世紀末以降、経済発展に成功しているのか」という問いに対する答えとして不十分だと感じました。零細な資本・少ない資本では工場制企業や鉄道や大きな海運会社を立ち上げるのはたしかに無理でしょう。しかし日本で新在来産業と呼ばれているような業種の製造業であれば、充分の起業・成長の余地はあったと思うのですがどうなんでしょう。それがこの時期に族生し得なかったのは、もっと別の理由があるように感じます。自然資源の制約、政治、治安などなど。
当該期を「近代」と呼ぶならば、華南沿海の「近代」とは、牙行に依存した清朝の貿易管理体制のように、16~17世紀の変動を経て形成され機能してきた制度が、世界的な変動によって変容を迫られていく時代であった。この制度変容の契機となったのが、18世紀末以降の世界的な貿易の拡大である。
著者が書くように、アヘン戦争は起点ではなく「制度変容を決定的に加速させたのがアヘン貿易」だった、また制度変容の契機が18世紀末以降の世界的な貿易の拡大だという点はその通りだと私も思います。でもこれだと、別の意味での西洋の衝撃論になっていないのかなとも感じます。私自身は世界システム論が好きですから、西洋が主導した18世紀末以降の世界的な貿易の拡大により中国も世界システムに組み込まれてしまった、そして組み込まれることにより既存の制約・桎梏を乗り越えることができるようになったと考えることに異論はありませんが。

2013年2月17日日曜日

近代技術の日本的展開


中岡哲郎著
朝日選書896
2013年2月25日第1刷発行

後発工業国日本の工業化の特徴が、エピソード・人物の紹介とともに説明されています。各エピソードにはきちんと出典が示してあり、そういう点でもしっかりしていますが、もとは朝日新聞の「一冊の本」というPR誌に連載されていたものだそうですから物語としても面白く書かれています。
同じく朝日選書として出版された「日本近代技術の形成」などと同じく、日本経済の生産技術・流通など江戸時代までの到達が明治以降の工業化・貿易に反映されていることが分かりやすく述べられていました。第二次大戦のあたりなどで細かな事実誤認は見受けられましたが、気軽に読むには良い本だと思います。

江戸時代の日本の労働集約的農業の到達を「勤勉革命」と呼ぶむきがありますが、本書の中で著者は「ことばの遊びではないか」と切って捨てていました。たまたま英語のindustrialとindustriousが似ているからといって、勤勉革命なんて呼ぶのはちゃんちゃらおかしいですよね。単に土地と資源の制約から抜け出せなかった江戸期日本の苦し紛れの対応に過ぎないものの、いったいどこが革命なんだか。この著者の指摘には私も同感です。他方、
「「日本の産業革命」を主張する多くの人は、厳密にイギリスを先頭に西欧で進行した社会経済の発展過程を研究し、そこから抽出した「世界史の発展法則」のさまざまな指標にあてはめて、この時期が産業革命期であることを示そうとする。だが最初に工業化した国の発展過程と、既に工業化した国々の影響を受けて工業化を開始する国の発展、すなわち「後発工業化」は決して同じにならない。そこから見えてくる違いが、後発工業化の個性であり独自性であるのに、「日本の産業革命」論者の多くは、それを、日本の産業革命の歪み、後進性の残存、あるいは日本資本主義の例外性などと論じてきた。」
と述べている点に関してはちょっと厳しすぎるかなと感じます。日本の工業化を産業革命と呼ぶのは、いちばん最後に帝国主義国化を果たしてアジアを侵略したという流れの中での表現なのだと思うのです。著者のお説の通り、韓国の産業革命とかフィリピンの産業革命という呼び方はナンセンスで、それら諸国については後発工業化と呼ぶしかありませんが、日本の場合には産業革命と呼ぶ意味が充分にありそうな気がしますし、産業革命という用語を使用する論者もその含みで使っているのだと思います。1970年代頃までとは違って、今では日本の工業化の特徴を「歪み」「後進性の残存」として論じるような人はもういないんじゃないでしょうか。

日本の工業化の特徴の一つは、江戸時代の日本が蘭書・漢籍や生薬などの日本国内では生産できない品目以外、生糸・木綿・砂糖などの生産技術の改良による輸入代替を達成していて、開港後にその生糸が主要輸出品目となり、大恐慌の頃まで工業化に必要な外貨のかなりの部分を獲得してくれた点。またもう一つは、マッチや雑貨など、新在来産業と呼ばれる業種の生産物の市場が近隣にあった点だと思います。

日本の後発工業化の特徴を捉えるには、なにかと比較することが必要になります。日本より早く工業化を果たした諸国との比較はもちろんですが、同じ時期に工業化を試みた国、具体的にはラテンアメリカ諸国と比較することが有益だろうと私は思います。ラテンアメリカ諸国と比較すると、外貨を獲得する一次産品を持っていたことだけでは順調に経済が成長するとは限らず、近隣に輸出市場を持っていたことが日本の有利な点だったことが分かります。ラテンアメリカはヨーロッパの出店ですから、モノの嗜好もすでに産業革命を果たしたヨーロッパに似ていて、欲しいものがあればヨーロッパから輸入してしまいます。それに対して、太糸と厚地綿布に代表される日本で好まれる商品の中には、東アジアの周囲の国でも受け入れられ輸入してもらえるものが少なくなかったのだと思います。蘭癖大名や豊田喜一郎を始めとした人々の好奇心と努力などももちろん大切ですが、19世紀の状況を考えると、日本は幸運にも恵まれていたなと感じるのです。